スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

南仏旅行その8 シミエ歴史地区

2012-01-12 22:22:05 | 旅行(フランス・ニース2012)
さて、先に述べた通りこの周囲はローマ時代の遺跡が残されている。円形闘技場と公衆浴場である。円形闘技場は紀元前1世紀ごろには既にあったそうだが、今の規模(67×56m)になったのは3世紀ごろ。公衆浴場は2世紀から3世紀ごろの建設で、一部はかなり良い保存状態なのだそうである。写真の通り既に石は一部崩れ、中から木が生え出している。周囲は市民公園で、歴史的な建造物の前で子供達が奇声を上げながら走り回っていたり、老人がペタンクに興じていたり、老婦人が犬を散歩させていたりする。
もともとギリシャ人が植民都市としてニースを築いたのは前述の通りであるが、現地のケルト族、リギア族とは折り合いが悪く、幾度か戦闘になった。その為にローマに援軍を依頼したのである。ローマ人達が根拠地としたのがここシミエ地区であった。交渉により一時は現地部族との関係も改善されたが、4世紀ごろから再び戦乱に陥り、町も最後は放棄された。これらの遺跡が再び日の目を見るのは何と1000年以上も後、19世紀に入ってからである。マチス美術館には隣接して考古学博物館があり、同じく入場は無料なので、興味のある方は見学あれ。
写真は遺跡のもの。上写真と下左から2枚は円形闘技場、3枚目と4枚目は浴場、5枚目は浴場の壁に巣くうハト達(いいのだろうか?)、6枚目はペタンクに興じる老人たち、7枚目は遺跡の石の割れ目から覗く花、8枚目は考古学博物館である。
なお、この公園に隣接して聖フランチェスコ教会もあるが、こちらも時間が無く見学はパスした。残念。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その7 マティス美術館

2012-01-12 21:28:59 | 旅行(フランス・ニース2012)
続いて市内バスにもう一回乗り込み、更に急坂を登って行く。周囲はシミエ(Cimiez)地区といい、どうも中々の高級住宅街の様である。大き目の庭つきの家があちこちに建ち、道を歩く人もかなり着飾っている。
ここで訪れたのはマティス美術館である。バス停を降りると、巨大な石の遺跡が隣にあり、?と思うがこれはローマ時代の円形闘技場の遺跡である。一帯は公園になっており、マティス美術館は公園の中にある。写真の様に赤く目立つ家である。
アンリ・マティス(Henri Matisse)はフランス北部の出身である。頭脳明晰な若者であったらしく、親の期待を受けてパリで法律を学んだ。そして法律家になる予定であったのだが、虫垂炎で入院した事が彼の人生を変える。療養中に絵画を描き始め、針路を変更して画家になる事を決めるのである。そして第一次世界大戦中に気管支炎の療養のためにニースを訪れ、その陽光に感動し、以降ニースを中心に活躍する事になる。
美術館は無料である。彼の作風の変遷を見る事が出来る。ピカソ同様、若いころは堅実で普通の作風であるが、年齢と共に少しずつ線を単純化させていく様になる。最晩年は切り絵の手法を使う様になる。紙や布を切って貼り合わせて絵を作るのである。ただピカソやシャガールなどと比べると、生真面目さ、誠実さのようなものを感じる作風である。最晩年の最高傑作と言われるのはヴァンス(Vence)にある教会堂の内装と言われるが、この美術館にその製作の下絵、模型などが展示されている。ニースからはほど近いので、興味のある方はヴァンスまで訪れられたし。
ヴァンス・ロザリア礼拝堂
ヴァンス・ロザリア礼拝堂写真
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その6 シャガール美術館

2012-01-12 20:21:04 | 旅行(フランス・ニース2012)
さて、初日に空港からの切符がそのまま1日券になる!と聞いた瞬間に遠目の観光地も回っておく気になった。市街から少し離れた位置にあるのがシャガール美術館、そしてマチス美術館である。最初にシャガール美術館を訪れてみる。
マルク・シャガール(Marc Chagall)はロシア生まれの敬虔なユダヤ教徒である。最初はロシアで美術を学ぶが、やがてパリに渡り、独特の色遣いと筆致の画風を完成させた。パリのオペラ座の天井画なども彼の作品である。
フランス旅行その9 オペラ座(ガルニエ宮)
第二次世界大戦勃発に際してはナチスのユダヤ人迫害を恐れて更にアメリカに渡り、戦後になって帰国、南仏に定住した。墓はこのニースからほど近い、サンポール・ド・ヴァンス(Saint Paul de Vence)にある。
この美術館最大の所蔵品は旧約聖書のメッセージを描いた12枚の連作である。いずれも巨大な絵である。古い教会堂の再生のために描き始めたという大作である。フラッシュさえ焚かなければ撮影して可、という事であり、写真を撮って見た。当然と言えば当然であるが、写真では迫力は伝わらないので、実物を見る事の方をお勧めする。
下左から、聖書の12連作の中の「人類の創造」「楽園からの追放」「イサクの犠牲」、講堂にある天地創造を描いたステンドグラス、中庭にあるモザイクの壁画「預言者エリヤ」、そして次の2枚はサーカスを書いた作品(シャガールはサーカスをこよなく愛した)、最後はシャガール本人の晩年の写真である。
シャガールは第二次世界大戦の戦火やユダヤ人迫害を見つめて来た。彼はこの美術館の挨拶で、「宗教の如何に関わらず、誰でも悪意や興奮から逃れて、ここでは夢を語る事が出来る」と述べ、愛を基本に置いた社会の理想を語ったと言う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その5 ニース市内交通

2012-01-12 17:53:39 | 旅行(フランス・ニース2012)
ニースは人口35万人ほどの都市で、日本で言えば鴨川市(千葉)、境港市(鳥取)、人吉市(熊本)などが同規模である。市内もそれほど広い訳ではなく、歩いて全部回れない事はない。ただ、市内の少し離れた場所に観光に行くのであれば交通機関を使用した方が無難である。市内の平坦の場所を行くのであれば出来ない事はないが、海から少し離れて行けばたちどころに急坂が現れる。それも結構な急坂である。
市内の主な交通機関としては、バスと路面電車がある。一回券を買えばどちらも一人1ユーロで、どこまででも行ける。どうも一定時間以内は有効らしく、バスを乗り換えた時もとりあえずは一回車内の刻印機に通してみる価値はある。ただ、問題は路線図である。
欧州の古い都市はどこもそうなのだが、市内の古い地区などだと入り組んでいるうえに一方通行が多く、行きと帰りで通る道が異なったりもする。なので利用されるのであれば、事前に地図をホームページ
Ligne d'Azur
で調べて置かれると良い。ただ普通に印刷するととても読めないので、自分は下左の様に拡大したものを印刷して持ち歩いていた。ipadやipodをお持ちの方であれば、インストールして適宜拡大して眺めるのも手である。
下左から2枚目は切符。左が1回券、右は先に書いた空港からの4ユーロの切符である。左から3枚目は空港と市内を繋ぐエアポートバス。最後は路面電車である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その4

2012-01-12 15:23:40 | 旅行(フランス・ニース2012)
前述のように最終的にはフランスに帰属する訳であるが、それまではイタリア(正確にはサルディニア王国)の傘下にあった時代が長かった。なのでイタリアの文化圏の影響が今でも色濃く町に見られる。写真は旧市街の建物であるが、カラフルな色合いに塗られており、これはパリの建物などとは違った雰囲気を出している。町でもイタリア語は第二公用語の様な扱いであり、駅の出口のところにも「exit(英語)」「sortie(フランス語)」と並んで「uscita(イタリア語)」と看板に書かれている。
しかし近世に入って交通機関が発達し、世界は狭くなる。イタリアとフランスのせめぎ合いのこの地域に別の、全く離れた場所の人間が参入してくるのである。イギリス人である。雨と霧の多いイギリスと比べれば穏やかそのものの気候に着目し、多くのイギリス人がこの地を訪れる様になった。ものの本によると、スコットランド人の医師・詩人のトビアス・スモーレット(Tobias Smollett)
Wikipedia「Tobias Smollett」
がこの地域を旅行し、「病気の療養に良い」と本に書いたのがブームの始まりだという。確かにこの地の太陽を浴びれば、健康には間違いなく良さそうである。最初は馬車で何週間もかかった旅行も、鉄道が開通するとあっという間に来る事が可能になる。のちにはビクトリア女王までもがリウマチの保養に訪れる様になり、静かな漁村は気付けば一大リゾート地に変貌していた。上流階級の移住に伴って芸術家たちもやって来る。著名なところではピカソ、マティス、シャガールなどが居を構えた。彼らがことごとく長寿を全うした(シャガールは97歳)のが、太陽のせいなのかどうかは知らない。最近ではローリング・ストーンズのメンバーもこの近郊に住んでいるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その3

2012-01-12 14:02:19 | 旅行(フランス・ニース2012)
この地はイタリアとフランスを結ぶ国境線である上、すぐ後ろには険しい山脈が迫っており、戦略的には極めて重要性の高い土地であった。そしてベルギーと同様、古来からこの地を巡って戦争が繰り返されて来た。
ベルギー旅行その3
町が建設されたのは紀元前5世紀ごろで、ギリシャ人による植民都市であった。しかも町の名前もギリシャ語の「ニカイア(勝利)」に由来するというのだから、恐らく何かの戦争の後に命名されたのであろう。
この地にやって来た国や民族を一つずつ挙げて行くと、それだけで本が一冊書けそうである。ケルト人、ローマ帝国、サラセン海賊、キリスト教徒などがかわるがわるやって来てはこの地で戦争を繰り広げた。中世にはギベリンとゲルフの争い(*注)に巻き込まれた。そして近代ではフランスとイタリアの間での争いが有名である。高校時代に世界史を習った方であれば、写真の銅像の人物が誰であるかお分かりになるであろうか?ジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)である。イタリア統一の3傑の一人とされている人物である。
19世紀のイタリアは国内にバラバラに多数の国が集まっている状況で、統一国家ではなかった。このうちの一つ、サルディニア王国がイタリアの統一を推し進める原動力となる。ガリバルディは軍人として幾つもの戦いを戦い、イタリア統一に大きく貢献した。自分の率いる部隊に赤いシャツを着せ、これは「赤シャツ隊」として有名である。時には敗走して命の危険にさらされた事も一度や二度ではなく、また妻も戦場で失っている。
彼はニースの出身であり、自分の生まれ故郷は統一されたイタリアの一部になると信じていた。があっさりその期待は反故にされてしまう。サルディニア王国政府はイタリア統一をフランスに承認して貰う代わりのお土産として、ニースをフランスに差し出してしまうのだ。彼の失望と怒りは想像に難くない。ガリバルディは晩年、あちこちから議席や政治ポストを準備されたが、政治家になることは選択しなかった。そして余生を家族と小さな島で送ったという。彼の名を冠した通りや広場はイタリアの各地にあるが、ニースでも旧市街の近くに写真のガリバルディ広場がある。

注--下記参照。
Wikipedia「ギベリンとゲルフ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その2

2012-01-12 13:33:22 | 旅行(フランス・ニース2012)
飛行機の中で小さな子供連れの夫婦と知り合った。聞くとフランス人で、この近辺の出身なのだという。何故スウェーデンからフランスに?と聞くと、休暇でラップランドに行って来た帰りなのだという。スキーでもして来たのであろう。こっちは太陽を求め、向こうは雪を求める。人も色々である。ちなみに子供達は結構騒いでいたのだが、パリと比べるとニースは小さな子供には比較的親切な感がある。バルセロナもそうだが、地中海沿岸の人達は子供には比較的寛容な方かも知れない。率直に言ってパリとブリュッセルは余り騒ぐ子供に対して寛容な印象がなかったし、ルクセンブルクは最もきつい感じであった。気候も国民性に関係するのかも知れない。
ニース国際空港を出ると、椰子の木が茂っているのが見える。気温は15℃くらい。スウェーデンから着てきた上着は早速不要となった。下着にちょっと厚手の長袖のシャツを着ればもう十分である。今回は折りたたみの大きなバックを持ちこんで来たので、余り手荷物が増えずに済んだ。こちらも多少は旅で成長しているのかも知れない。
空港から99番と書かれたバスに乗る。市内まで4ユーロ也。ちなみにこの切符、市内バスの1日乗り放題券である。なので市内に着いた後も捨てずに保管されたし。ホテルで言われて初めて知った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南仏旅行その1

2012-01-12 13:00:39 | 旅行(フランス・ニース2012)
冬場に単調な日々が続くのは既に昨年の経験から知っていた。スウェーデンの冬場の生活に一番足りなくなるものは何か?太陽光線と暖かさである。それならこれを補う場所に出かけて見たいものである。この2つがある場所。。で思い浮かんだのが南仏である。
一般に南仏と言われれば観光ガイドには「ニース(Nice)」の名が載っていると思う。パッと言われるとすぐに何処にあるか、分かる方は少ないのではないだろうか?フランスとイタリアは地中海沿いに国境を接しているが、その国境線に比較的近い場所である。フランス全体から見ると南東の端に位置すると考えて良いと思う。俳優の故・岡田真澄さんの出身地である。
この一帯はフランス語では「コート・ダジュール(Côte d'Azur)」、イタリア語では「リヴィエラ(Riviera)」と呼ばれる。 Côte d'Azurはcoast of blue(青い海岸)、Rivieraはcoast(海岸)の意である。飛行機からみると、確かに美しい海岸線が何処までも続き、海の青さと相まって美しさが際立っている。飛行機はニースに面する湾を旋回して飛行場に向かう。1月なのに湾内にはクルーザーが走っているのが見える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする