スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

新庄剛志監督のこと

2024-06-24 01:25:06 | 考えてみたこと
パ・リーグで日本ハムが強い。首位は断トツでソフトバンクであるが、女性問題でもめた山川(前西武)をはじめ、お金に物を言わせて選手をかき集めた印象が強い。日本ハムはあまり恵まれない戦力で2位に食い込んでおり、それでも現役ドラフトで獲得した水谷瞬(前ソフトバンク)が交流戦MVPに輝くなど、選手の使い方が上手い印象である。水谷は前の年までプロ通算0安打の選手だったのだ。抑えの田中正義はソフトバンクでは6年間で通算0セーブだったのが、トレードで加入して昨季25セーブ、今季も既に11セーブ。郡司裕也は中日では鳴かず飛ばずの捕手であったのが、トレードでやってきて三塁手に転向、今やレギュラーをつかもうとしている。生え抜きでは捕手の田宮裕涼が急成長し、我慢に我慢を重ねて使ってきた万波中正は中軸打者に成長した。また起用は実力主義を貫いており、昨年まで中軸だった清宮幸太郎や野村佑希は調子が上がらないと容赦なく2軍に落としている。選手のモチベーションは上がりやすいだろう。また相手の意表を突く「奇策」をしばしば用い、攪乱している。重盗やスクイズなどの作戦をしばしば使い、この辺りは師事した野村克也監督の影響を指摘する声もある。
Wikipedia「新庄剛志」
Wikipedia「水谷瞬」
Wikipedia「田中正義」
Wikipedia「郡司裕也」
Wikipedia「田宮裕涼」
自分は古いファンなので、現役時代の新庄監督も知っている。意外性のあるバッティングと強肩を生かした外野守備で有名な選手であった。新庄監督自身で言っているのが、「俺が1軍定着のきっかけになったのは、オマリーが怪我をしたために、やったこともない三塁手で試合に出て、そこでプロ初本塁打を打ったから」ということで、そこから「努力は一生。本番は一回。チャンスは一瞬」ということを若手選手に繰り返し言っているのだという。彼の選手生活はずっと順風満帆という訳ではなかった。あまり今では着目されなくなったエピソードもいくつか紹介したい。
1)阪神在籍時、まだ若手だったころに藤田平監督時代に「自分にはセンスがないから現役を引退する」と言い出す騒動を起こしている。元々は2軍監督であった藤田に遅刻をとがめられて正座させられたが、その時に足を痛めていたこともあり、「この監督とは野球観が合わない」と思っていたのだという。藤田は今でいう「昭和」な上司であったようで、かなり選手に厳しい態度をとる監督であったようである。
2)1999年、野村克也監督が阪神監督に就任し、数年間指導を受けた。この時に行われたのが「投手挑戦」である。オープン戦までで、実戦で行われることはなかったが、野村監督は「投手の心理を理解させるため」と発言していた。同時に野村監督は新庄を「何を考えているのか分からない」ことから「宇宙人」と評していた(新庄本人はこの名称を不快に思っていたらしい)。
3)2001年からメジャーリーグに挑戦、ニューヨーク・メッツを始めとして数球団に所属した。MLBでの3年間の通算成績は打率.245 で20本塁打、1流と言える成績とは言えなかったが、それでも守備ではファンを沸かせ、またワールドシリーズにも出場している。マイナーリーグへの降格も経験し、メジャー昇格を夢見る若者たちと一緒にプレーしていたりもしている。
4)MLBから2004年に日本ハムに移籍、日本ハムは当時東京から北海道に移転する元年であり、集客に全力を挙げていた。新庄は「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という2つの目標を掲げ、在籍中に2つとも実現させている。頭にかぶりものをするパフォーマンスや札幌ドームの天井から降りてくるパフォーマンスで有名になった。
- ‐ と書いていると、結局新庄監督もまた、自分自身の体験をもとに若手選手を指導していることが分かる。ただ中日の立浪監督との大きな違いは「現役時代の試行錯誤・チャレンジの数」と「味わった挫折の数」ではないかと思われる。藤田平監督とのいざこざはその後彼なりに咀嚼して、反面教師として今の監督業に生かされている感がある。野村監督は「再生工場」と称して田畑一也、山﨑武司など他球団から放出された選手を活躍させることに長けていたが、その方法論を選手として観察していたのであろう。今や「再生工場」は先の水谷瞬、田中正義、郡司裕也の他にもアリエル・マルティネス(前中日)など日本ハムが一番得意とするところとなった。MLB挑戦の経験も何等かの形で今の監督業に生きているのであろうし、パフォーマンスについては監督になってからも各種行っている。インスタグラムなどの「今風の」コミュニケーションツールを駆使しており、これは新しいものへの好奇心を失わないことの現れと思われる。結局、現役時代からの「試行錯誤の数」が多いことが立浪監督との「引き出しの多さ」の違いになっているのだと思われる。もしも新庄監督が立浪監督のごとく、阪神一筋でスター選手をずっと続けていたら、おそらく今のような監督としての成果は出せていなかったのではないか。自分で経験してみないと見えないものというのは絶対にあるのである。
立浪和義監督のこと
Wikipedia「田畑一也」
Wikipedia「山崎武司」
となってくると、自分もまた同じことに気づく。「これまで味わった挫折の数」「チャレンジの数」が指導に生かされるのだと思うし、新しいものへの好奇心を失わないことも重要なポイントになってくる。好奇心を失わないようにしながら、新しい世代と仕事をして結果を出していかなくてはならぬ。新庄監督にできるのなら自分でもやればできるはず、そう思いたい。また頑張ろう。
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2024-04-06 02:42:53 | 考えてみたこと
今週から来た人と話しをして。「将来どうしたいか」を聞いたら、比較的すらすらと答えてくれた。ここでこんな仕事をして、将来はできればこんな職場に移動して何をしたい、と。聞いていて感心する。まだ急いで評価してはいけないが、希望の持てる人と言って良いのではないか。
自分も色々な人と仕事をしてきて。30歳台を超えて「将来、どうしたいか」はっきり目標として言えない人材、特に「どんな仕事をしたいのか」を聞かれて、「いや別に、自分は何となく普通に暮らせたらいいです」というような類の答えをする人物は、たとえどれだけ知識が豊富で、しっかりしたスキルがあっても、結局「頼りになる人材」にはなりえない。職場において「目標」とするべきものをもっていない訳で、そうなると20歳台、30歳台は良くても、40歳を過ぎると格段にパフォーマンスが落ちてくる。もちろん極端に人手不足の時期には、そんなことも言っていられないので採用するのだが、そういう人を採用して、数年たてばその人を管理職にするかどうかを考えなくてはならない年である。しかし上記のような発想の持ち主はそもそもが管理職に不適である。ところが不思議なことに、前述のような「自分は自由人だから」のようなことを言っていた人でも、必死に頑張っていた同期が先に管理職に昇進すると文句を言い始めるのである。どうしてあいつが昇進して俺はなれないんだと。これには例外がない。結局のところ、どんな組織でもそういう人は入って数年もたてば職場でお荷物になっていくか、ある日突然職場を去っていくか、だいたいそんなところが多いように思う。
以前、ヤクルト・楽天などで監督をつとめた野村克也監督は「夢や希望を抱け。強い夢や希望は人生を好循環にしてくれる」と言っていたが、まさにその通り、自分なりのこだわり、夢、希望、直感、何でもよい。仕事で「自分はこうしたい、こんなことに挑戦してみたい」という欲望は、ちゃんと持っているべきであるし、それがない人間は仕事で一流にはなりえない。ある程度以上の年齢になると、「自分で自分を努力して磨いていく、忙しい毎日でも時間を見つけて何かにチャレンジしていく」という部分がないと、人は成長しなくなっていくのである。年寄りくさいと言えば年寄りくさいが、これは永遠の真実である。
夢、希望
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のびしろ

2024-03-16 00:35:41 | 考えてみたこと
「のびしろ」(Creepy Nuts)に最近はまっている。日本語のラップというのも色々ある。中にはちょっと無理やりな曲を作る人もいるが、この曲はしっくりくる。まず「Creepy Nuts のびしろ 歌詞」で検索して歌詞を読んで頂きたい。日頃中間管理職で色々走り回っている自分にとって、何ともしっくりくる歌詞である。「幸せの体感速度は早くなるばかり 傷が癒えていく速度は遅くなるばかり 他人に期待をしないのが今の俺の強み 手負いでも進める距離なら行くぜ騙し騙し」まさに毎日そんな感じである。あとはYoutubeで動画をご覧になりたし。何となく曲が頭に残る。どんどん下り坂になっていく体力・気力の中で、それでも自分に「のびしろ」があると信じて進んでいきたい。まだまだ前向きで頑張って行きたい。誰かこの歌詞について共感できる方、いらっしゃいませんか。
Wikipedia「Creepy Nuts」
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立浪和義監督のこと

2023-09-10 16:55:48 | 考えてみたこと
名古屋出身の同僚と最近ペアを組んで外回りをすることが多い。名古屋愛の強い同僚で、名古屋の話を色々聞く。最後に中日ドラゴンズの話題をふってみた。「そう言えば名古屋といえば中日だねー、中日ファンなの?」。同僚「いやー、星野仙一さんは好きだったんですけど。。今の中日はどうもですねー」。自分「まあ、何か上手く行かないみたいだね。投手はもともと良いし、打者もいい選手はいるのにねー。岡林とか細川とか」。同僚「いやー、どうなんですかねー。みんな線が細いというか。。あとは立浪監督ですかね。ああいうタイプだとみんな若い選手は萎縮しちゃうんじゃないですかね」。
中日ドラゴンズが苦しんでいる。長年中日で活躍したスター選手、立浪和義氏が監督についてはや2年。昨年は最下位に終わり、今年もまた開幕からつまづき、9月現在も最下位のまま、このままだと2年連続最下位となり、中日の球団史上初の屈辱となる。立浪監督が指導者経験がないという点も指摘されるが、指導者経験なく監督になったのは広島の新井貴浩監督、日本ハムの新庄剛志監督も同じであり、その中でもどうも立浪監督の評判は今一つである。広島は優勝争いに絡んでいるし、日本ハムもシーズン中に一時は4位にまで順位を上げた。結局今は最下位に沈んでしまったものの、万波中正、清宮幸太郎など急成長した選手が多く、来年度に期待が持てる。中日はほぼ最下位を独走状態、若手も岡林勇希、細川成也など急成長した選手もいるはいるが、主砲の石川昂弥は打ったり打たなかったりでどうも不安定、得点圏打率1割台とチャンスにも弱く、同僚のいうとおり「線が細い」という印象である。戦い方を見ていても期待が持てる感じがしない。
Wikipedia「岡林勇希」
Wikipedia「石川昂弥」
横浜DeNAベイスターズその24
こうなると立浪監督もかなり酷い叩かれようであるが、現役時代の立浪監督は、確かに名選手であったのである。全国優勝したPL学園では主将をつとめ、ドラフト1位で入団した中日では高卒の1年目でいきなり遊撃手のレギュラーに抜擢された。しかも星野仙一監督は前年まで遊撃手のレギュラーだった宇野勝をコンバートして立浪をレギュラーに据えるという博打を打ったのである。そして立浪は見事期待に応え、高卒新人でいきなり1年目から規定打席に到達、しかも新人でゴールデングラブ賞まで受賞した。18歳の段階で守備のうまさはプロのレベルでも卓越していた。2023年現在でも、高卒の新人野手がゴールデングラブ賞に輝いたのはプロ野球の歴史上、立浪が唯一なのである。あのイチローでもレギュラー定着はプロ3年目、天才と言われた桑田真澄でもプロ1年目は2勝1敗で防御率5点台、ローテーションに入ったのは2年目からである。いかに立浪が非凡であったかが分かる。その後も中日一筋で長年活躍、2000本安打も記録した。二塁打については通算487本を放ち、これは現在でもプロ野球記録である。非の打ち所がない名選手であった。
Wikipedia「立浪和義」
今年の立浪監督の采配で疑問視されているのが「昨年までのレギュラー遊撃手・京田選手と2塁手・阿部選手の2人をトレードで放出してしまい、新人や若手にそのポジションを任せて、結局上手く行かなかった」ということがある。おそらくであるが、自分自身が新人でいきなりレギュラーを任されて苦労しながら成功した、という体験がどこかベースにあるのではあるまいか。残念ながら今年の二遊間を任された新人の村松選手も若手の龍空(土田龍空)選手も数十年前の立浪の再来ではなかったようである。またそれが当然というか、全員が現役時代の立浪のレベルに到達していたら、立浪は名選手ではなくなってしまう。また1980年代と比べると、投手の球速も上がり、人工芝の球場も増えた。新人からフルに出場を続ければ怪我のリスクも伴う。
Wikipedia「村松開人」
Wikipedia「土田龍空」
。。と書いていて、自分自身もまた反省はしなくてはならぬ。自分と同じレベルを若手に求めてはいけないのである。自分も御多分に漏れず昭和世代であり、新人のころは下手をしたら暴力を伴う指導が当然であった世代である。また仕事は終わらなければ深夜までやるものであり、夜中の11時くらいに職場を見渡せば同期全員が残っていた。そうやって仕事を覚えて行った。ただ全く同じことを今の世代に「さあ、同じようにやれ」と言っても、これは無理というものである。考え方も時代背景も違う。「最近の若いものは・・」というセリフは古代エジプトの古文書にまで記載がある言葉であるようだが、若手とベテランとはいつの時代もすれ違いがある。ただその中でもコミュニケーションを取りながらやって行かなくてはならぬ。彼らはこれからの日本を支える宝なのだから。
権藤博監督

。。と書いているうちに今日も中日は負けたようである。借金29となり、先発の柳裕也はこれで4勝10敗、チーム内に10敗以上した投手が4人目(涌井4勝12敗、小笠原7勝10敗、高橋宏5勝10敗)となり、これは中日では50年ぶりの記録だそうである(50年前の1973年に10敗以上した投手の1人は何と星野仙一である。しかも星野仙一16勝11敗、松本幸行14勝11敗、渋谷幸春11勝12敗、稲葉光雄6勝11敗となっていて、今年よりはるかに救いがある)。何とも困ったものである。
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権藤博監督

2022-06-07 00:43:16 | 考えてみたこと
ネット記事に元横浜監督の権藤博監督の記事が出ていたので読んだ。
Wikipedia「権藤博」
権藤監督はかつて中日の投手として活躍した。かつては連投につぐ連投が当たり前の時代で、あまりに連投するので「権藤、権藤、雨、権藤」というフレーズまで生まれたのは有名な話である。1961年には69試合登坂、429イニングを投球した。ちなみに2021年にセントラルリーグで最多のイニングを投げたのは中日の柳で、172イニング。半分以下である。成績は何と35勝19敗。翌1962年には30勝17敗で、2年間で65勝したのである。もの凄い投球数であり、結果、あっという間に肩を故障。投手として投げたのはたったの5年間、打者転向もはさんでたったの9年間でプロ生活は終わってしまった。
彼が偉いのはこの後で、野球解説者などを経て横浜ベイスターズの監督になった時、絶対に投手陣に無理をさせなかったことである。自分自身を反面教師としたのであろう。抑えの佐々木主浩は1イニング限定の起用、そこにつなぐ中継ぎ陣も極力連投を控えさせた。それについてネット記事から引用させてもらうと以下の通り。
---「私の現役時代がどうということではなく、野球が変わっていったということです。はっきり言って、昔は野球のレベルが低く、特に打者のレベルが低かった。それが道具や技術の進化もあって、向上したんです。ピッチャーも進歩しているが、投げるのは“もともとの素材”の要素が強く、打者ほどの進歩はない。そう考えれば、チームでの戦い方が大きく変わるのは当然でしょう」(下のYahoo!ニュースより引用)。
「自分はこれだけ苦労したのだ、今のヤツは根性が足りん!!」とならないところがやはり偉い。
Yahooニュース「権藤博の鉄腕伝説 “2年で65勝”“実働5年”に「そういう時代だったんですよ」
時代が進歩したことを認め、今問題になっていることに柔軟に対応する。これがあるべき指導者の姿なのであろう。自分も頑張ろう。大事なのは柔軟さ、そして新しいものに対する好奇心であろう。この2つを忘れずにいたい。
時代にあわせて
佐々木朗希投手完全試合達成
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無題

2021-08-23 23:19:33 | 考えてみたこと
コロナの感染はどんどん拡大していく。
その一方で、政府の緊急事態宣言なんてどうせ効果がない、なんでまだ自粛をしなくてはいけないのだ、どうせ変わらないのでは、コロナはそんなに怖いのか、何と言っても死者は少ないじゃないか、などの意見は多数見られる。それで思ったこと。

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最新の対人地雷は「兵士を殺さない」ように設計されていると聞いたことがある。火薬の量を減らし、爆発しても足を吹き飛ばすだけで、命を奪うことはないようになっているのだと。何故なら、敵の部隊に負傷兵を増やして、部隊の負担を増やす方が作戦として効果的であるからである。

そうなると、地雷を踏んでも「致死率は低い」という事になる。また、地雷原すべてに全部、びっしり濃密に地雷が埋まっているわけではない。そんな数の地雷はどんな軍隊でも準備できないからだ。地雷原を歩いても地雷を踏まない兵士の方が圧倒的多数になる。となれば「地雷はあるけど、踏む確率は凄く低い、そしてもし踏んだとしても死ぬ確率もかなり低い」ということになる。それではあなたが兵士だとして、指揮官から「目の前に地雷原があるけど、踏む確率は低いし、踏んでも足が吹っ飛ぶだけで死ぬ確率は低い。だから、みんなで地雷原を歩いて突破しよう」と言われたら、どう感じるだろうか?

生き残っても、足がない生活が待つ。その生活を誰が補償してくれるのか。少なくとも指示した指揮官はしないだろう。

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新型コロナウイルス感染症の死亡率はだいたい2%前後と報告される。また、現時点では死者の数はまだ1日あたり50人にも届いておらぬ。なのでこれを見て「死者が少ないのだから、別にコロナを恐れる必要などない」という意見が一定数見受けられる。この意見は自分には上記の指揮官の言葉にダブって聞こえる。たしかに死亡率は低いし、死者の数も(現時点では)少ないのは事実である。そこまでは合っている。

しかしこの意見で触れられていないのが 1)新型コロナウイルス感染症患者全体の20%が中等症(肺炎を伴う病状)に移行し、全体の5%は集中治療管理を有する重症になること、2)ひとたび重症になるとなかなか回復しないこと、治療に1ヶ月単位を要すること、3)コロナ感染後にはlong COVIDと呼ばれる後遺症が存在すること、この後遺症の好発年齢は20-40歳台であり、味覚障害・呼吸困難・集中力低下などで、しかも有効な治療法が存在しないこと――である。

いくら死亡率が低くとも、一人の死者の背後には無数の苦しむ人、後遺障害で苦しむ人がいる訳で、「恐れる必要がない」ということにはならない。40歳や50歳台の人が長期入院したり、後遺障害が長期に残ったりすれば、その悪影響ははかり知れぬ。何より死亡率が低いのは「きちんと治療した時の話」であり、肺炎を起こして酸素化が落ちてきた人に酸素が供給できなければ、インドで発生したことが日本でも起きることになる。
After Coronaその12

国は病床をさらに提供するように今日、医療機関に指示を出したようである。確かにあまりにも非協力的な医療機関には是正がなされるべきであろう。しかしながら、である。

たとえ、感染者数が落ち着いたとしても、今の東京のように連日4000名以上の感染者数が続けば、入院できない患者数は累積赤字のようにたまっていく。今の東京都が確保している病床数は5967床、これに対して自宅療養者は24000名以上、入院・療養等調整中は11000名以上なのだ。病床数を仮に2倍に増やしても足りようはずがない。結局、連日4000名の感染者数が続く限り追い付けるわけもないのだ。文字通り焼け石に水である。
デルタ株の感染力は強い。簡単には減っていかないだろう。今のような「感染者数を減らす方向のない」対策だけでは問題は解決しないだろう。感染者数を減らす作戦――結局、自粛となってしまうのだが――がセットとなることが、どうしても必要である。
After Coronaその16
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選択

2021-08-19 22:57:05 | 考えてみたこと
日露戦争の時のこと。

激戦地として有名になったのが「203高地の戦い」である。その当時、中国の旅順は大規模な軍港であり、ロシア軍の太平洋艦隊の本拠地になっていた。これを日本陸軍は陸側から攻撃する。軍港の湾外には日本艦隊がおり出港できない。日本陸軍の激しい攻撃に要塞は陸側からだんだんに攻略されていく。ロシア側はどうしたか。
「太平洋艦隊の軍艦から、大砲を取り外して陸揚げして要塞に配置し、水兵を陸上戦に投入した」のである。機雷をそのまま陸上げして、日本軍に投げ落とすような作戦も取られたと言われ、ありとあらゆる兵器を有効活用するように工夫を凝らしたのである。
Wikipedia「旅順攻囲戦」
Wikipedia「ロマン・コンドラチェンコ」
のち最重要地点とされる203高地を攻略されると、そこを観測所として日本軍は砲撃を行い、太平洋艦隊の軍艦をほとんど破壊することに成功した--という事になっているが、実際には「大砲も水兵も陸揚げされていたので、この砲撃の前に、既に太平洋艦隊はまともに動ける状況にはなかった」という説が有力である。

- - - -

新型コロナウイルス感染症の対応に、多くの病院が受け入れベッドを作って受け入れを続けている。しかしそれでも感染状況はやまず、もはや多くの急性期病院の能力は限界に達しつつある。東京都で自宅で亡くなった方は既に8月だけで7名に達したとも言われ、各病院に「さらに患者受け入れを増やす」という事が強く求められるようになってきた。大体ここまでの経過を見ると重症者がピークに到達するのはこの1-2週間後であり、重症者に対応するベッド数が必要であろう。確かにそうである。
しかし、である。これもまた先の太平洋艦隊と同じことが発生しているのである。「コロナ専用病棟にしてしまったら、一般の救急患者は入院できない」のである。通常の心筋梗塞、脳梗塞などの患者さんは後回しされることになる。現在の東京都の流行レベルに対応できる重症者病棟を準備するなら、他の疾患での受け入れ困難、死亡例は確実に増加する。そのくらいのレベルである。この事について、ちゃんと議論は出来ているのか。テレビを見ても「臨時病院を作る」「重症者ベッドを作る」などの話ばかりであるが、前者ならどこかから医療スタッフを引き抜いてくる、後者は今あるベッドをコロナ向けに転用するわけで、その分他の疾患の対応は不可能になっていく。これについて都民のコンセンサスはちゃんと得られているのだろうか。
After Coronaその12
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楽観性バイアス

2021-08-07 23:32:57 | 考えてみたこと
朝鮮戦争のころの話。

1950年秋、戦局は国連軍に大きく有利となっていた。仁川上陸作戦後に北朝鮮軍は総崩れとなり、国連軍はそれを追って大きく前進していた。もうあと少しで中国の国境線も見えてくるという状況。長かった戦争もこれで終わりになる。誰もがそう思っていた。中でも国連軍の指揮をとっていたマッカーサー将軍は楽観論に支配されていた。もうこれで勝ったも同然ではないか、と。
しかし10月ごろより前線から異常を知らせる報告が相次いで寄せられてくる。まず正体不明の無線通信が急増した。また「明らかに北朝鮮軍とは違った制服を着た兵士」を目撃したという情報が相次いで寄せられた。この兵士たちと交戦する部隊も現れ、やがて捕虜も捕らえられた。捕虜の兵士は述べる。自分たちは中国軍である。部隊は満州からやってきた。部隊が有する兵士は合計2万人である。他の部隊がどのくらいの規模なのかは自分は知らない- - - 。
情報を総合すると、「かなりの規模の中国軍が国境を越えて北朝鮮軍の援軍にやってきた」ということらしい。一大事である。マッカーサーのもとにも報告は寄せられるが、マッカーサーは信じない。もう戦争は終結間近ではないか。今頃になって中国が軍を送ってくるなど、そんな訳はない。結局提出された報告は修正され、「約3万人程度の中国軍が越境してきている」という数字に改められた。
はたして同年11月、中国軍は全線で総攻撃を開始した。もちろんその数は3万人の訳がない。総兵力50万人以上とも言われる凄まじい大軍である。国連軍は戦車、重砲、爆撃機などの近代的装備では上回っていたが、総兵力は10万人前後。見通しのきかない山岳地帯に大兵力を集結させ、雪崩のように襲い掛かってくる人海戦術の前に国連軍は圧倒される。結局国連軍は退却、北緯38度線にまで後退していくこととなる。
Wikipedia「朝鮮戦争」

- - - - - -

この事例はいわゆる「楽観性バイアス」の典型的な例と言われる。だいたいにおいて人間は「楽観的な報告の方を信じたがる」ものである。特に「状況が危機的なときほど、楽観的な報告を信じやすくなる」というのは永遠の真理と言っても良い。しかし事実は事実である。危機管理は常に「最悪のシナリオ」を想定して行うべき、というのは古来から言われるところである。

新型コロナウイルス感染者数は東京都で8月末に「最悪の場合」一日30000人に到達する、という予測がされている。憂鬱な数字であっても、そうなったら何が発生するかについての研究は必要である。一都市で一日30000人の感染者が出る、というのは世界レベルでみても屈指の流行なのだ。あの壮絶な流行を経験したニューヨークでも、一日に感染者30000人に到達した日はなかった。東京がこの状況に到達したときどうなるのか、手元にある医療リソースで何をしたら良いのか、シミュレーションはちゃんと行われているのだろうか?どれほど憂鬱な数字であろうとも、これはやらなくてはならない仕事のはずである。
496日目
495日目
After Coronaその16
After Coronaその12
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リーダー論

2021-08-04 01:00:41 | 考えてみたこと
これはある方との話になって、頂いたアドバイス。貴重なアドバイスではあると思うので、メモとして残しておく。リーダーとは、という話。偶然話の流れでこういう話題になったのである。

1)リーダーというのは、「その人が来たら、皆が何となく明るくなってくる」人でなければならない。
2)人を怒る時。まず最初に相手を褒めなさい。まず褒めて、その上で最後に必要な注意を手短に伝えなさい。その順序を逆にしてはダメである。相手がこれからのびのびと力を出せるようにすることを心掛けなさい。
3)本当のリーダー、真のリーダーと言える人は「退きどきを決められる」人である。これまで自分が心血を注いできた事業を、退きどきを見誤ることなく、「やめる」ことを決断できる人、これが本物のリーダーである。人に迷惑をかけることなく事業を全部たたみ、しかもその上で顔色一つ変えることなく、周囲には平静に振る舞えなくてはダメである。でもこれが出来る人間が、本当にリーダーと呼べる人物なのである。

今どきそんなリーダーがいるのだろうかと思うが、下に部下を抱えるようになったら、少なくともそれを目指さなくてはダメだろう。何とか自分も近づけるようになりたいものではある。
怒り上手
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優先

2021-07-31 23:42:54 | 考えてみたこと
その昔、慶長の役で加藤清正が蔚山城に立て籠もって籠城した時のこと。城内には食料が不足し、冬の寒さとも相まって城内は飢えと寒さで絶望的な状況となる。
ただ加藤清正にとって決定的なアドバンテージとなっていたのは鉄砲であった。当時の火縄銃はヨーロッパから日本に渡来して、戦国時代の日本で性能・運用とも大きく進化を遂げており、これを持っていなかった明・朝鮮の連合軍にとっては重大な脅威となっていた。攻め手の明・朝鮮軍は激しく城に向かって攻め寄せるが、その度に城内から鉄砲の激しい射撃を受けて攻撃は頓挫した。
しかし城内の方は城内で次第に追い詰められていく。何といっても食料が無いものはどうにもならぬ。加藤清正はこれを受けて決断する。食事の準備が出来ると、他の兵士を全て後回しにして、鉄砲の射手に優先的に食べさせたのである。
Wikipedia「蔚山城の戦い」

- - - - -

平時には組織の構成員に平等に接する必要があるし、そうしなければ不平不満が出るのは当然である。だが非常事態において、重大な部分を任される構成員には、それなりに「勇敢に戦うことのメリット」を分かりやすい形で示さなくてはならない。他の兵士の食事が後回しになっても、- - それは仕方ないと思われる。それが非常時というものであろう。
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