スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

江戸東京たてもの園2024その12

2024-07-01 02:01:16 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)
最後は残った写真を適当に。







こちらは「鍵屋」。居酒屋さんである。建物の創建は1856年と伝えられるからかなり古い建物である。3年前にペリーが浦賀に来たばかりである。元は酒問屋であったのが、1949年から居酒屋として営業を始めたのだとか。現在の東京都台東区下谷にあった店で、地元の人が気軽に一杯やりに行ける店であった。3枚目がメニュー表だが、確かにだいぶお安いような。







青梅街道沿いにあったという旅館「万徳旅館」。青梅街道は人や物資の往来に重要な街道で、この旅館も1998年まで営業していたのだという。上から2枚目写真が模型で、街道から奥に細長い建物であることが分かる。3枚目写真は建物の裏手にあった井戸で、これも趣がある。





東京都交通局7500形電車7514号である。1962年製造の都電で、昔の姿をとどめている。ちなみにこの電車の製造元がどこだかご存じであろうか?答えは新潟なのである。新潟鐵工(現・新潟トランシス)という会社で、最近では宇都宮に開通したばかりの宇都宮ライトレールの車両も、この会社の作である。歴史はつながっていく。
Wikipedia「新潟トランシス」
宇都宮のこと

ごく短い旅であったが楽しかった。たまには非日常の経験が必要である。
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江戸東京たてもの園2024その11

2024-07-01 01:38:34 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)














そしてもう一つ、「千と千尋の神隠し」のインスピレーションのもとになったとされているのがこちら、「子宝湯」である。1929年建築、東京都足立区にあった銭湯であり、この建物が宮崎駿監督の特にお気に入りであったとされている。昔ながらの銭湯の構造、入り方は皆様ご存じであろうか?入り口を入ると男女に別れ、中央に壁で仕切りがしてある。ただ仕切りの壁は高さ2m程度で、向こうは見えなくても声は聞こえる。そして一番下写真のような「番台」があり、これは仕切りのちょうど中央に位置しているので、男湯と女湯、双方が見渡せるのである。この番台に座るのが、昔から落語などでは与太郎の憧れの職業となっている。上から3枚目写真が女湯、上から6枚目写真が男湯である。上から5枚目写真では戦後のころのプロレスや映画のポスターで、プロレスでは力道山、映画では石原裕次郎が見える(映画のわき役をよく見ると、岡田真澄の名前も見える)。それにしてもこの建物に入ってあの映画を考え付くのであるから、宮崎駿監督の想像力は凄いというかなんというか。
Wikipedia「千と千尋の神隠し」
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江戸東京たてもの園2024その10

2024-07-01 01:20:41 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)










そしてやはり江戸東京たてもの園とくればここである。2017年当時も紹介した「武居三省堂」。東京・神田にあった文房具屋で、墨や硯、筆などを販売していた。ちょっと入っただけでも独特のホコリっぽいにおいが漂ってきそうである。そして上から3枚目写真、文房具をしまった木の引き出しが大量に並んでいる景色、これが映画「千と千尋の神隠し」で「釜爺の部屋」のモデルになったとされる場所なのである。映画では薬草が入っていることになっているが、本物は文房具を入れている場所だったのである。宮崎駿監督がこの「江戸東京たてもの園」を愛しているのは有名な話で、「その1」で述べた通りキャラクターの「えどまる」も同監督のデザインである。
Wikipedia「千と千尋の神隠し」
江戸東京たてもの園その21
江戸東京たてもの園その22
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江戸東京たてもの園2024その9

2024-07-01 01:01:22 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)










ついでこちらが「小寺醤油店」。1933年の建築で、大正時代から東京都港区白金で営業していた酒屋さんである。創業者が醤油の醸造元(東京の中野にあった[石森醤油醸造所」)で修業したために醤油店と名乗ったのだが、その当時は酒屋さんが味噌や醤油を売るのは普通のことであったらしい。上から3枚目写真は醤油の入った樽で、下の口から醤油を測り売りしていたそうである。上から4枚目はトリスウイスキーのポスターなのであるが、1等賞のハワイ旅行積立預金証書が100名なのは分かるが、2等賞のトリスウイスタンが「150万名」に当たることになっていて、どう考えてもそんな訳はないだろう、と思ってしまう。
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江戸東京たてもの園2024その8

2024-07-01 00:33:03 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)














次は「村上精華堂」である。東京都台東区の不忍通りに面して建っていた化粧品店である。1928年建造で、関東大震災後に多く建てられた看板建築という洋式である。創業者の村上直三郎氏はアメリカの文献を参考にしながら化粧品を作成したそうである。一番上写真が外観、2枚目から4枚目までは表のカウンターである。そろばんと帳面が古めかしい。5枚目以降がこの建物の裏手で、裏手で化粧品の調合を行っていたのである。ビーカー、ガラス瓶などが見える。一番下写真の左側の瓶は、村上精華堂が本当に使用していた香水瓶なのだという。
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江戸東京たてもの園2024その7

2024-06-30 22:31:00 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)














そしてこれは2017年も訪れた場所。高橋是清邸である。高橋是清は戦前の有力政治家で、特に経済通であり、大蔵大臣を5回もつとめたことで知られている。大変な苦労人であり、江戸時代末期に江戸で私生児として生まれ、すぐに仙台藩の足軽の家に養子に出された。幼少期から英語を学ぶチャンスがあり、これが彼の出世を大きく助けることになる。海外留学(これも苦労の連続であった)を経て政界に入り、多くの功績を残した。特に日露戦争当時の戦費の調達に成功したのは有名であり、文字通り「日本を救う」活躍であった。一時は内閣総理大臣もつとめたがあまり目立った業績はなく、やはり経済に関わる功績が有名である。上から2枚目写真は1911年に是清が日銀総裁に就任した際に、前職の部下たちが贈った木製の像である。また東京共立学校(現在の開成中学・高等学校)の校長をつとめたことでも知られる。
この屋敷は東京・赤坂に建てられた屋敷で、和風建築に窓ガラスを入れた初期の例とされる。栂(つが)の木で作られた高級住宅である。晩年の高橋是清は2階の部屋で寝起きし、就寝前には習字をすることを日課にしていたのだという。上から5枚目写真は是清本人の筆による「不忘念(ふもうねん)」の文字で、「正法を心に念じて忘れないようにすること」の意味。1931年、高齢でありながら5回目の大蔵大臣に就任し、ここでインフレ抑制のために軍事予算を削減しようとしたことが軍部の恨みをかってしまった。1936年、2・26事件発生。この屋敷で是清は青年将校に襲われ銃撃を受ける。ほぼ即死であった。享年81。
Wikipedia「高橋是清」
江戸東京たてもの園その18
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江戸東京たてもの園2024その6

2024-06-30 22:03:08 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)














これは前回はアップしなかったところ。吉野屋(農家)である。現在の東京都三鷹市にあった農家を移築したもので、建設されたのは江戸時代後期なのだという。内部で再現されているのは昭和30年代の農家の生活である。上から2枚目写真は台所、下は土である。上から3枚目は座敷である。4枚目はお勝手。囲炉裏が見える。5枚目には蚊帳が釣ってある。家に隙間が多いこの時代は蚊に刺されず寝るためには必需品であった。一番下写真は奥座敷である。おそらくここで大家族で生活をしていたのであろう。生活の息吹が聞こえてくるようである。しかし先の三井八郎右衞門邸をみた直後にこの家を見ると(再現されている年代はだいたい同じはずである)、何とも言えない気分になる。
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江戸東京たてもの園2024その5

2024-06-30 21:45:39 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)




















そしてこれは写真館の道をはさんで反対側にある「三井八郎右衞門邸」である。7年前には「そこまで感銘を受けるに至らなかった」と書いていたのであるが、改めて見てみると、恐ろしくお金がかかっていることは間違いないのである。「三井八郎右衛門」は三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前で、この家は第11代当主である高公(たかきみ)の家である。上から4枚目写真が高公の肖像画である。戦前にロンドンに留学歴があり、1939年には納税額で全国一位になったとか。また自動車の愛好家であり、ベントレーをはじめとして高級車を10台以上所有していた。これは戦争後、1952年に建てたものである。財閥解体を経てだいぶ三井家のパワーは落ちていたころであるが、それでも全国各地の屋敷から調度品を運ばせて部屋を飾った。上から5枚目写真のシャンデリアは大磯の別荘から運ばれたものである。上から7・8枚目は裏の土蔵に展示されていた長持で、妻の鋹子(としこ、越前松平家当主の長女)が輿入れの時にこの長持に何個分もの調度品を持ってきたのだという。つくづく一般庶民とはかけ離れた世界である。一番下写真は庭から見た屋敷の写真である。
Wikipedia「三井八郎右衛門」
江戸東京たてもの園その17
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江戸東京たてもの園2024その4

2024-06-30 19:44:18 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)














そしてこれも前回も訪れた「常盤台写真場」である。1937年の作である。常盤台は現在の東京都板橋区にある。21世紀の現在も家族写真などを撮ってくれる写真屋さんはあるが、その当時はデジカメもスマホもなく、家族での記念撮影の需要はもっと多かったため、写真屋さんが街のあちこちにあるのが普通だったのである。当時は照明の設備が十分でなく、採光のためにすりガラスを使用した建築となっていた。一番上写真で2階の部分、写真の左側(スタジオのところ)にはかなり大きな窓が作られ、その全てにすりガラスがはめられているのが確認できる。この方角が北側になっていて、間接光を取り入れるようになっていた。中に入ると1階が家族の生活空間で、2階がスタジオという作りになっている。1階部分(上写真2から5枚目)まではいかにも昭和の家、という雰囲気である。長火鉢(上から3枚目)など、今では落語の中でした出てこないのではあるまいか。6枚目と7枚目が2階のスタジオで、一番下写真は当時のマグネシウムを使用したフラッシュであろう。
江戸東京たてもの園その14
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江戸東京たてもの園2024その3

2024-06-30 19:14:12 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2024)










そして2017年の訪問時も強い印象を残した「前川國男邸」。7年ぶりの再訪であったが、やはり飛びぬけたデザインの良さは変わりない。1942年に建てられたとは思えないほどのシャープなデザインである。前川國男は新潟県の生まれで東京帝国大学(現東京大学)を卒業し、フランスに渡ってル・コルビュジェの事務所で働き、帰国後に多くの仕事を残した。新宿の紀伊国屋書店は有名である。一番下写真はトイレと風呂場であるが、トイレまで何となく洗練されたような感じが。
江戸東京たてもの園その8
江戸東京たてもの園その9
江戸東京たてもの園その10
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