goo blog サービス終了のお知らせ 

スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

イタリア旅行その27 サン・ピエトロ大聖堂

2012-05-03 23:30:42 | 旅行(バチカン・2012)
内部に入ってみる。確かに豪華さで言えば他のあらゆる大聖堂を圧倒する。さすが世界のカトリックの総本山である。
上写真はベルニーニが作成したブロンズの天蓋。巨大かつ繊細な彫刻の塊である。下写真はすべて大聖堂内部である。左から1枚目と2枚目はミケランジェロ作の「ピエタ」。ミケランジェロ25歳の作である。今はガラス越しにしか見れないが、それでも聖母マリアの表情が何とも言えない。3、4、5枚目は内装。6枚目と7枚目はどうも歴代法王の墓の様である。下の文字を読んでみると、6枚目がイノケンティウス12世
Wikipedia「イノケンティウス12世」
7枚目がグレゴリウス13世
Wikipedia「グレゴリウス13世」
の様である。確かに肖像画と見比べてみると似ている様な。ちなみに後者は天正少年使節団を謁見した法王である。法王の墓の数は多く、それこそ幾つあるのか見当もつかない。
8枚目がキューポラ内部。それにしても広く豪華な教会である。そしてそれに負けないくらいの人、人である。世界的な宗教の総本山とは、こういうものかと思う。圧倒的な光景である。


イタリア旅行その26 サン・ピエトロ大聖堂

2012-05-03 21:31:23 | 旅行(バチカン・2012)
美術館のあと、フラフラ歩きつつサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)に向かう。道すがら行商人をあちこちで見かけたが(どういう訳か皆版で押した様に同じボールのおもちゃを売っている)、この広場の中には行商人の姿は見えなかった。広い広場である。天気もちょうど晴れてくれて、広場の中心から見上げる青空は美しい。
大聖堂は16世紀の作で、高さ137mと巨大なものである。最初設計を担当したのはドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)であるが、彼の死、戦争、設計主任交代(うち一人はラファエロ)を繰り返して計画は迷走を続ける。最終的に72歳のミケランジェロが登場し、彼の主導で建築は完成に至る訳であるが、この辺のドタバタ具合はウィキペディアを参照されたし。
Wikipedia「サン・ピエトロ大聖堂」
見事完成した現在、美しくかつ巨大な建物となった訳だが、この建物は同時に世界史に残る大事件を引き起こしている。免罪符発行と宗教改革である。
この、途方もない大建築を建てるために資金が足りなくなった教皇レオ10世は、免罪符を大規模に発行して資金を賄おうとするのである。これを買えば罪が許される、という訳である。神聖ローマ帝国(現ドイツ)では特に政治的思惑もあって大々的に販売が行われた。ヴィッテンベルグ(Wittenberg)で司祭をしていたマルティン・ルターがこれに疑問を感じ、やがて彼は現状に対する疑問点を列挙した紙を教会の門に貼り付けるという挙に出るのである。これがのちにドイツ全土を巻き込む大戦争をもたらすとは、この時彼本人も知る由もなかった。

イタリア旅行その25 バチカン美術館・補

2012-05-03 00:40:39 | 旅行(バチカン・2012)
昔新人の頃、「会議などでプレゼンをする時、あまりに多くの知識をスライドに詰め込むのは良くない。人間の頭はそんなに多くの事を一気に理解する様には作られていないからだ」と上司から指導された事がある。これはまさに真実である。絵画、彫刻、タペストリーとそれこそまだまだ山の様に写真はある。さらに言えば、それでも現地では写真撮影もせずに通り過ぎたものの方が圧倒的に多いのである。しかしながら自分の脳味噌の容量と考え合わせれば、それらをこの時間内に全部記憶にとどめるのは無理と言うものである。特に自分の印象に残ったものだけを備忘録として書きとめておければ、このブログとしては十分と思う。詳しい方から見れば、「他にももっと価値ある作品があるのに!」と思われるかも知れないのだが、お見苦しい点は御容赦を。

適当に余った写真を。

上写真:美術館出口のらせん階段。有名な場所である。確かに優美な階段である。ちなみにエレベーターもちゃんと常備されているので、使用したい方は係員の方に相談を。
下左から1-3枚目:地図やタペストリーも多数あった。いずれもかなりの大きさである。1枚目はイタリア全図、2枚目はキリストの復活、3枚目はヘロデ王の虐殺であろうか。
4枚目:システィーナ礼拝堂だけでなく、建物内部にもエレベーターがある。呼び鈴を押して係員を呼ぶようになっている様だ。
5、6枚目:出口近くには郵便局もある。もちろん「バチカン市国から」で投函できる国際郵便である。日本にも手紙を送ってみた。
7、8枚目:美術館出口。8枚目は出口に上にある銅像で、向かって左がミケランジェロ、右がラファエロ、中央が鍵のクロスしたバチカンの紋章である。

恐らく、本当に収蔵品を堪能したいのなら、何カ月もここに住んで、何回も足を運ばなくては価値が分からないものなのであろう。チャンスがあれば、また来てみたいと思わせる場所である。


イタリア旅行その24 ピオ・クレメンティーノ美術館・ベルヴェデーレの中庭

2012-05-02 23:34:52 | 旅行(バチカン・2012)
さて、美術館の白眉は古代ギリシャ・ローマ彫刻のコレクションであるピオ・クレメンティーノ美術館(Museo Pio Clementino)である。しかしながら下左1枚目写真をご覧頂ければ分かる通り、その収蔵品の数たるや凄まじいの一言で、とてもではないが全部を紹介しきれない。なので筆者の目に付いたものだけを適当に選ばせて頂く。
上写真と下左から2枚目:ラオコーン(Laocoonte)である。蛇に襲われるトロヤの神官の最期の姿を描いた傑作で、紀元前1世紀の作である。16世紀に農夫によって地中から掘り出され、これを見たミケランジェロに大きな影響を与えたとされる。しかししかし、紀元前1世紀である。日本は弥生時代、邪馬台国もまだ誕生していない。
下左から3枚目と4枚目:プリマポルタのアウグストゥス(Augustus of Prima Porta)。ローマ帝国最初の皇帝となった人物である。
Wikipedia「プリマポルタのアウグストゥス」
プリマポルタは発掘地の名で、数あるアウグストゥス像の中でも最も著名なものである。同じく恐らく紀元前の作と考えられている。若いころは病気がちであった上に、お世辞にも戦上手とは言えなかった人物の様だが、戦上手の大伯父、シーザーも成しえなかった夢を成し遂げたのは彼であった。世の中そんなものであろう。
下左から5枚目と6枚目:シーザーの像。
7枚目:動物の彫像のみを集めた一角もあった。どれも躍動感にあふれ、これも一見の価値ありと感じる。




イタリア旅行その23 ラファエロの間

2012-05-01 20:02:09 | 旅行(バチカン・2012)
少し前後したが、ラファエロの間(Stanze di Raffaello)である。彼と彼の弟子によって描かれたフレスコ画で埋め尽くされた部屋で、こちらも色鮮やかな色彩を保っている。上写真の「アテナイの学堂」が名高いものである。この向かいにあるのが下写真(ちょっと暗いが。。)の「聖体の論議」で、これらはいずれもラファエロ本人に描かれたものである。ラファエロは37歳で夭折してしまったので、弟子の手で完成された作品も多い。
ミケランジェロとラファエロはローマのルネッサンス史上特筆すべき人物であるが、それでは彼等はこの仕事を始めた時、一体何歳であっただろうか?1508年当時、ミケランジェロは33歳、ラファエロは25歳である。若い力が世界を動かしていたのだ。



イタリア旅行その22 システィーナ礼拝堂

2012-05-01 19:33:51 | 旅行(バチカン・2012)
階段を下るとシスティーナ礼拝堂(Cippella Sistina)である。前述の法王選挙、コンクラーベの会場でもある。
Wikipedia「システィーナ礼拝堂」
何と言っても著名なのは天井画、そして「最後の審判」の壁画である。ミケランジェロの作品である。当時ミケランジェロは彫刻家を持って自任しており、当初は依頼を断っている。しかしこの作品をもって当代最高の画家でもある事を証明したのである。フレスコ画は漆喰を塗って乾く前に描かねばならない。大変な労力と技術が必要である。最終的にミケランジェロはほぼ一人でこの絵を描き上げた。天井画は4年、壁画は5年の月日を要したという。内部は撮影禁止であるが、先のピーニャの中庭に写真の様に壁画の写真があり、ここに団体客は案内されている。ガイドによって事前に絵の説明を受けてから入場する形を取っているのである。
現物は極めて色鮮やかなものである。かつては照明に使われた油のすすなどですっかり黒ずんでしまった時期もあった様だが、洗浄によって回復した。場内では盛んに「No photo!!」という声がかかっていた。

イタリア旅行その21 バチカン美術館

2012-05-01 14:07:48 | 旅行(バチカン・2012)
建物に入って見る。豪華な廊下がどこまでも続く。宗教の力とは凄いものだと感じる。美術品、タペストリーなども素晴らしいが、建物そのものも豪華である。天井には一面に絵と彫刻が施されている。システィーナ礼拝堂へは階段の登り降りがあるが、バリアフリーの経路も存在する。後に見たシスティーナ礼拝堂内部でも、車椅子で酸素吸入をしている方が見学しているところを目にした。通常とは違う経路の様なので、必要な方は係員の方に確認されたし。


イタリア旅行その20 バチカン美術館

2012-05-01 08:13:07 | 旅行(バチカン・2012)
朝一番でバチカン美術館(Musei Vaticani)に並んで見た。長蛇の列になると聞いていたからだ。それでも朝8時の段階で待っている人もちらほら。中には途上国から来たらしき体の不自由な老婦人を、皆で助けながら美術館に連れて行っている光景を見たりして胸が詰まる。きっと長年の夢であったのだろう。
入ってすぐ目の前では、上写真の様にサン・ピエトロ大聖堂のドーム部分が見える。左に曲がって中庭に出ると、ピーニャの中庭である。ピーニャとは松ぼっくりの意で、下右の様に松ぼっくりの形をした像が置かれている。古代ローマの噴水であったらしい。



イタリア旅行その19 バチカン市国

2012-04-29 22:35:06 | 旅行(バチカン・2012)
バチカンは現在でも独特の政治体制を維持している。元首である法王は「コンクラーベ」という独特の選挙で選ばれる。直近の選挙の際にはこれが日本語の「根くらべ」と発音が同じ、と言うのが話題になっていた。法王は枢機卿という高位の聖職者の選挙で選ばれるのだが、かつては彼等はシスティーナ礼拝堂に缶詰になって選挙を行っていたのである。法王はカトリックの最高聖職者であるが、ただ一つ、「後継者を自分で指名する」という権利だけは有していなかった。特定の派閥が権力を独占しないための知恵であろうか。それでもこの選挙の過程には不透明な事が多く、あのマックス・ウェーバーは「職業としての学問」の中で、大学組織の人事制度の不透明さを教皇選挙に例えている。
バチカンは自衛のための軍隊を持たないが、代わりに配属されているのが写真のスイス人傭兵である。スイス傭兵の歴史は古く、16世紀にはカール5世のローマ侵攻に際して、200名中147名が戦死しながら、法王を脱出させる事に成功している。最も今は儀礼的な意味合いが強く、持っている武器も槍と催涙スプレー程度であるらしい。サン・ピエトロ広場周辺ではあちこちにこの独特の制服を着た兵士を目にした。