『百寺巡礼』を第10巻まで読み終わりました。
1ヶ月と1週間あまり、ゆったりとした時間でした。
穏やかな著者の語りに耳を傾け、ユーモアに笑い、考えるきっかけを与えてもらった1ヶ月余でもありました。
第一巻第一番の室生寺から始まって第十巻第百番の羅漢寺まで、どのお寺にも歴史があり伝承があり伝説がある。
そのお寺の周辺の土地にもまた歴史というドラマがある。
一つとして同じものはなく、模倣も似非もない。
ただ、人の真摯な思いだけは、いつの時代であってもどこの土地であっても違いはない。
私たちが時代小説や歴史物語を読んで知るよりはるかに多くの、膨大な物語がそこここにある。
数多の悲劇、史劇、伝奇、民話。
建築のこと、絵画のこと、工芸のこと、無名の工人の傑作のこと。
著者に導かれて百寺を巡ることは歴史という時間を旅することでもあったように思う。
日本人を両親にもち、日本国に生まれ、日本で教育を受けて日本で生きていながら、日本という国土についてもその歴史についても、また文化や宗教についても、本当に知らないことばかりだなと忸怩たる思いを強くした。
その一方で、著者自身の姿を垣間見ることができるのは楽しかった。
“石段評論家”“石段マニア”だと自称する著者が石段を登っている姿を想像してみる。
きっと、呼吸を調えながら落ち着いた足取りで顔色も変えずに淡々と登っていかれたことだろう。
ときには、甘いものが好物だと言って門前の茶屋などでお団子やもなかなどを召し上がる。
由緒ある鐘を見れば撞いてみたくなり、つい余分に撞いてしまったり。
天井に描かれた龍をみれば、どんな声で鳴くのかと手を叩いてみたり。
お寺で出された地元の甘味に箸をのばすうち止まらなくなったり。
一人の大人の飾らない姿が素敵だと思った。
こうして『百寺巡礼』の旅は終わった。
でも幸せなことは、この10冊の文庫本がある限り、何度でもこの巡礼は出来るということだ。
一つのお寺だけでもいいし、一つの地域を巡ってみるのもいい。
四国遍路の言葉だそうだが、“逆打ち”してもいいだろう。
遍路の旅は“同行二人”つまり御大師様と二人連れだが、『百寺巡礼』は著者との同行二人だ。
しばらくは江戸時代へ出かけたり戦国時代に出かけたり、ヨーロッパに出かけたりする予定だが、そのあとにまた『百寺巡礼』に出かけよう。
1ヶ月と1週間あまり、ゆったりとした時間でした。
穏やかな著者の語りに耳を傾け、ユーモアに笑い、考えるきっかけを与えてもらった1ヶ月余でもありました。
第一巻第一番の室生寺から始まって第十巻第百番の羅漢寺まで、どのお寺にも歴史があり伝承があり伝説がある。
そのお寺の周辺の土地にもまた歴史というドラマがある。
一つとして同じものはなく、模倣も似非もない。
ただ、人の真摯な思いだけは、いつの時代であってもどこの土地であっても違いはない。
私たちが時代小説や歴史物語を読んで知るよりはるかに多くの、膨大な物語がそこここにある。
数多の悲劇、史劇、伝奇、民話。
建築のこと、絵画のこと、工芸のこと、無名の工人の傑作のこと。
著者に導かれて百寺を巡ることは歴史という時間を旅することでもあったように思う。
日本人を両親にもち、日本国に生まれ、日本で教育を受けて日本で生きていながら、日本という国土についてもその歴史についても、また文化や宗教についても、本当に知らないことばかりだなと忸怩たる思いを強くした。
その一方で、著者自身の姿を垣間見ることができるのは楽しかった。
“石段評論家”“石段マニア”だと自称する著者が石段を登っている姿を想像してみる。
きっと、呼吸を調えながら落ち着いた足取りで顔色も変えずに淡々と登っていかれたことだろう。
ときには、甘いものが好物だと言って門前の茶屋などでお団子やもなかなどを召し上がる。
由緒ある鐘を見れば撞いてみたくなり、つい余分に撞いてしまったり。
天井に描かれた龍をみれば、どんな声で鳴くのかと手を叩いてみたり。
お寺で出された地元の甘味に箸をのばすうち止まらなくなったり。
一人の大人の飾らない姿が素敵だと思った。
こうして『百寺巡礼』の旅は終わった。
でも幸せなことは、この10冊の文庫本がある限り、何度でもこの巡礼は出来るということだ。
一つのお寺だけでもいいし、一つの地域を巡ってみるのもいい。
四国遍路の言葉だそうだが、“逆打ち”してもいいだろう。
遍路の旅は“同行二人”つまり御大師様と二人連れだが、『百寺巡礼』は著者との同行二人だ。
しばらくは江戸時代へ出かけたり戦国時代に出かけたり、ヨーロッパに出かけたりする予定だが、そのあとにまた『百寺巡礼』に出かけよう。