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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した (22)

2013年10月27日 | お日様とお月様の光と影
  1854年5月2日、京都御所の女院御所より出火し天皇のお住まいである清涼殿が全焼しました。さらに火災は今出川通・烏丸通を焼き広範囲延焼する大火となりました。この京での大火の報せが5月中頃に京都町奉行所から江戸城に報告がありました。安部正弘は京都所司代に対して清涼殿の再建を幕府が行うと伝えました。安部は朝廷に対して対外政策を報告しており朝廷と幕府との関係は良好でした。しかし京の大火によって江戸城は「自粛」モードとりました。
  そんな自粛モードが漂う江戸城本丸御殿の大広間 上段の間で島津斉彬は将軍家定と謁見したのです。この時安部正弘は京の大火の対応で忙しく同席できませんでした。代わりに上段の間に同席した幕府閣僚は井伊直弼と松平 忠固(まつだいら ただかた)そして松平 乗全(まつだいら のりやす)らが座っていたのです。三人ともに消極的開国派でまた南紀派であった島津斉彬の政敵です。
  
  井伊直弼が太った体を揺らし勝ち誇った様に斉彬に対して言い放った。
   「上様と敬子姫との婚儀は京の清涼殿の再建で出費がかさむので一年延期と決まった!」
  ここまでは斉彬も納得できる理由でしたしかし家定が斉彬に話かけた。
   「のォ薩摩守私は二度結婚し二度とも御台所を亡くした…」
  家定は言う祖父家斉は祖母島津茂子を正室し徳川宗家と島津家とは縁戚となった。おかげで子だくさん(家斉の子どもは55人も生まれたもちろん側室もいっぱい居た)祖父母に習いたいのは分かる。けれど私は「江戸わずらい(脚気)」でのォ…。
  家定に対して斉彬の第一印象は病弱と聞いていたが確かに顔色が悪い男で声も細い。斉彬は家定の話をやっと聞き取れるほどだった。松平春嶽の手紙通り(この男が武家の頭領なのか??)と斉彬は思うのでした。


  島津敬子は江戸薩摩藩邸内に屋敷を与えられ昨年末より徳川宗家への輿入れを待っていました。島津敬子は温和でがまん強く人付き合いも良く外向的な人でした。その敬子の身の回りやお世話や大奥へ入るための教育掛を幾島(いくしま)が斉彬から命じられていました。敬子が住む藩邸内の屋敷に西郷吉之助が斉彬の使いで訪ねて来ました。
  幾島は西郷吉之助が「目の大きい牛の様な大きな男」と斉彬から聞いていて西郷を見てすぐに分かった様でした。西郷は「敬子姫との婚儀は婚儀は京の清涼殿の再建で出費がかさむので一年延期と決りました」と敬子と幾島に伝えました。 この時敬子は18歳、敬子は住みなれない江戸暮らしなので江戸城の政治向きの事や家定の事また一ツ橋家の事などまた伝えに来てほしいと吉之助に依頼しました。吉之助は快諾しました。  


  
  一橋邸は江戸城一橋門内(現東京都千代田区大手町)にあるので家名の由来となっていました。慶喜が一ツ橋家の当主となり7年が経過していてこの時慶喜は17歳でした。実母つまり斉昭の正室である登美宮吉子(とみのみやよしこ)もこの若い当主が気になるのか度々一橋邸の慶喜を訪ねて来ていました。一橋邸は水戸藩士の出入りが多くなりまるで水戸藩別邸となっていました。
  江戸水戸藩邸(現東京都文京区後楽)は江戸城の近くに有りました。水戸徳川家は徳川三家の中でも水戸藩主が参勤交代を行わなで江戸に常駐して変事に備えて将軍の代役を務める役割を代々引き継いで来ました。この時の水戸藩主は10代慶篤(よしあつ)で斉昭の実子のでした。尊王攘夷を唱える「水戸徳川家の政治的影響力」は絶大でした。しかし水戸藩内部も他の藩同様に攘夷派と佐幕派に分かれて藩内は対立していました。

   慶喜が邸宅の書斎で読書をしていた時に近習の平岡 円四郎(ひらおか えんしろう)が薩摩藩主島津斉彬が訪ねて来ている事を知らせました。慶喜は斉彬とは面識はないが慶喜の側近である原市之進(はらいちのしん)から父斉昭と親しいと聞いていたので面会することにしました。斉彬が慶喜の書斎までやって来て挨拶を交わした。慶喜に対して斉彬の第一印象は(なるほど噂通りの聡明にして賢明な貴公子)でした。

  慶喜は幼少の頃より聡明にして賢明であったので父斉昭は慶喜を江戸を離れさせ水戸で兄の慶篤と同様に会沢正志斎から学問と武術そして「水戸学」を水戸藩校弘道館で学ばさせました。そのため慶喜は理論家で理路整然と論じ相手を論破する人でした。がしかしこの頃は慶喜はまだ若く政治の事はまだよく解らない。ですから斉彬の話を聞き役に徹することにしたのです。斉彬は得意の国際政治を論じ始めました。

  「我が国は産業を興し経済力を持ちさらには清・インド・安南(現在のベトナム)などのアジア近隣諸国と軍事同盟を結ぶべきだと私は思う」

  
  斉彬の話は壮大な国家構想論だが慶喜には現実味が感じられないと思った。また斉彬自身も慶喜を試すように話を大げさに語った。そして斉彬の話が幕閣の井伊直弼と松平 忠固の批判に入った所で慶喜はだんだん飽きて来たのでした。やがて斉彬こう言ったのです。

    「一橋慶喜様こそ我が国を救う貴公子!」

  これこそが「一橋派」の政治的キヤッチフレーズだった。しかし慶喜は「予に何ができると言うのだ?何もできないではないか!」と思った。慶喜を心配し気に掛け度々訪ねてくる母登美宮吉子とは違い一橋邸に出入りする様々な人々。そのほとんどが若い慶喜を担ぎ上げ徳川の名を借り利権にありつこうとしている人々だったのです。慶喜はその彼等の強欲の渦に巻き込まれまいと思った。島津斉彬に面会し父の斉昭と兄の慶篤の苦労が少しだけだが解った気がした慶喜だった。
  

   1854年5月14日、ペリーは旗艦ポーハタンとミシシッピー号を引き連れ箱館に入港しました。箱館は17世紀前半から松前藩の領地でした。また江戸時代「函館の湊」は北前船の寄港地で商業港として栄えていたのです。



  つづく 



 お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
  プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(22)


 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
 江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
 幕末外交と開国 講談社学術文庫 より

 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。


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