有作未庵  烏兎怱怱 有作憂さ話 

有作(うさ)=煩悩の生ずること。
憂さ話=つらさや苦しさを語ってなぐさめ合うこと。
月日の経つのは早いですね。

相互扶助

2012年02月17日 01時30分02秒 | モブログ
卵子と精子は半分ずつを持ち寄って一つの命になる。

NHKのグラン ジュテという番組で遺伝カウンセラーという職業の女性が紹介されていた。

自ら重い障害を持つこどもを授かった事でしんどい思いをした人だ。

障害というのは遺伝子が突然変異する事でも起きるけど、そもそも完璧な遺伝子で出来た人間なんているのか?

高性能な生命は複雑な遺伝情報で支えられている。

それは常に変化可能。
可能性がなければ進化も無い。

近親交配は障害が出やすいから、大昔にはあった血族結婚は法律で制限されている。
今でもいとこ同士は結婚できると思うけど、禁止する方向になってた事もあったらしい。

近親者は遺伝子情報のエラー箇所が同じパターンである事が多いのだろう。
顔が似るのと同じ道理だ。

近親者でなくてもそれは有り得る。
他人の空似と同じように。

完璧な遺伝子というのが存在するなら、それはもう交配を必要としないかもしれない。
完成しているならコピーこそが理想となるだろう。

でも人間は未だ未知数だから、情報を持ち寄って新しいパターンを試すのかもしれない。

半分ずつ、お互い補い合って。

同じ情報のエラーを持った遺伝子、もしくは補い合うのには相性が悪い遺伝子が出会うと問題が表面化する事になる。
それはどちらのせいでもない。
そして遡って原因を探したところで問題が解決する事は無い。

問題の素に成りうるエラーはほとんどの人が持っている。
それは個性と言い換えてもいいかもしれないようなものなのだろうと思う。

問題は犯罪ではないのでその事自体は誰かが責任を負う事ではない。

でも、つい自分自身を持て余すような不都合を抱えながらも子を持つ事を望んだ事に罪の意識を持ってしまう。

めったな事では鳶が鷹を産むような劇的な進化が起きるような結果にはならない事くらい想像できてよかろうものだと自分を愚かに思う。

でも生き物として子孫を欲するのは当たり前の自然の摂理だろうから許してもらいたい。

あんまり助け合えるパターンではなかったらしい情報の組み合わせになってしまったこども達にも申し訳ないけど、それぞれなりの幸せをなんとか自力で模索できるようになってもらいたい。

いつか助け合えるパートナーに出会えたらよし。
出会えなかったとしても一つの命の完成形として人間社会で生きて行ける事を祈ります。


障害は犯罪ではないのです。
たまに障害を盾に逆恨み攻撃で当たり散らす人がいて、それは違うだろ、と腹が立つ事も有りますが、障害そのものは悪ではないのです。

問題が表面化してしまった人もしなかった人も助け合って暮らせる社会に成熟するといいな。

エラーを排除した完全無欠の人だけの世界はきっと無味乾燥っぽくないですか?
だって完璧なら何も動かす必要も無くなっちゃいませんか?

どの命も失礼の無いように大切にされ、命の持ち主自身も大切に生きなきゃならないでしょう。

でも大切にする事と頑張り過ぎる事は違います。

時にはがむしゃらになる事も必要かもしれませんし、ピシッとキメるのも気分のいいもんですが、張る時があれば緩む時もあってこそ、バランスがとれた心地好い波となるのでしょう。

相互扶助のバランスも一人が内包したものから社会全体まで、関わりから外れたものは一つも存在しないのだから、素敵な和音が響くような世界を理想としつつ、好ましいリズムを見つけて乗れるようになりたいです。