100基ほどある墓の向かって右端に墓がある
木の柱には仁平の簡単な経歴が書かれている
墓石の裏には 俗名 石工仁平 と刻まれている
墓の横側に 「 寛政二庚戌年 十二月五日 」 と刻まれている
墓の前にある「 菊鹿町公民館 」
石工 「 仁平 ( にへい ) 」 は、
加藤清正が熊本城を築城した時、
連れてきた近江 ( 滋賀県 ) 石工の子孫で、
長崎で石橋の技術を習得し、
帰郷後、黒川の眼鏡橋や
門前川橋 ( 御船町 )などを造ったといわれており、
熊本で最も古いアーチ石橋技術者であったと思われる。
「 肥後の石工 」 のルーツは、熊本城ともつながっているのである。
熊本城の石垣は、 「 武者返し 」 という特殊な石垣で、
まさにアーチ石を横にしたようなものだから、この説は妙に納得できる。
( 種山石工も、アーチの工法を、
お寺の屋根の曲線 ( 寺勾配 ) の工法を参考にしたそうで、
肥後の石工のアーチ工法が単なるポルトガルや中国の物まねでなく、
独自の工夫やアイデアを加味したもので、
まさに日本独特の工法であることが解る )
仁平は、石橋の他に、六地蔵や鳥居、仁王像などの秀作を残している。
肥後の石工の中で、最初に活躍した石工集団
「 仁平グループ 」 のリーダーである。
植木町に残る豊岡橋 ( 享和2年、1802年 ) を架けた
理左衛門も仁平の石工集団の一員である。
中国式のアーチ石橋と言われる 「 リブアーチ 」 にその特徴を残している。
石工仁平、益城郡上嶋村の石工三九郎が男也。
親共に下内田村大塚に在し、庄屋喜兵衛が名子たり。
或日仁平肥前に赴き、石虹の法を伝習し、
太田川の流れに一虹を架し試む。某橋大塚の前に今猶存す。
幅二尺に未たず小虹也。
然して天明二年 ( 1782 ) 阿蘇郡黒川の虹を架す。
是当国石虹の始にして、今所々に架するは仁平を以って祖とす。
( 以上、山鹿郡史より )
墓は菊鹿公民館 ( 山鹿市菊鹿町下内田 ) 裏側の100基ほどの中にある。
墓石の裏には俗名 石工仁平と刻まれ、
横には寛政二庚戌年 十二月五日と記されている。