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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

奄美大島龍郷町 ・ 嘉渡風景  「 龍北中学校入り口 」

2018-06-03 23:43:30 | 離島めぐり














西郷隆盛が奄美で暮らした龍郷町
そのなかにある嘉渡集落

灯台を模したユニークな注意塔
そこには
「 愛と和を大切に
    いも~れわきゃ集落へ 」 と書かれていた。



もわぁ~と咲いた 「 我が家のスモークツリー 」

2018-06-03 21:41:11 | 花・鳥・虫・魚・猫












































この時季になると
庭のスモークツリーが煙立つ
雨に濡れれば濡れたで
真珠のような雫を集め
朝日を浴びれば浴びたで
紅や黄金に光る

この光景を
マルコポーロが観たら
なんと表現するだろうか

 『 東方見聞録 』 に・・・




熊本県菊鹿町  「 洞口橋 ( とうぐうばし )  」

2018-06-03 15:16:15 | 熊本の石橋





































所在地 / 熊本県菊鹿町下内田
架橋  / 安永3年( 1774年 ) 
石工  / 仁平 ( 下内田村 )
長さ   /  6.00m  幅   /  0.85m
拱矢  /  2.49m  径間   /  5.00m
単一アーチ


洞口 ( とうぐう ) 橋 。
または、( 「 洞 宮 」橋とも ) は、 
熊本の石橋では最古の石橋である。

石工は、熊本城築城の際、加藤清正が呼び寄せた
近江石工の子孫 「 仁平 」 である。
天明2年、阿蘇長陽の黒川眼鏡橋( 橋場橋 ) を架橋するにあたり、
実験的に試作したものと伝えられている。
長さ85センチの石材を7本縦に継いだ輪石1列だけの珍しい石橋で、
輪石を縦方向に継いでいった 「 リブアーチ式の眼鏡橋 」である。
リブアーチは 「 仁平 」 石工グループの特徴の一つ。

橋は前川 ( 太田川 ) に架かっていたが、
平成5年6月の水害で石が4個流失したため、
同6年9月にすぐ近くの小公園に復元保存したものである。
元来の架橋場所に残っている輪石は、
両岸に1個ずつ新しいコンクリート橋の下に残っている。



熊本県菊鹿町   『 石工 ・ 仁平の墓 』

2018-06-03 08:16:54 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )











100基ほどある墓の向かって右端に墓がある








木の柱には仁平の簡単な経歴が書かれている








墓石の裏には 俗名 石工仁平 と刻まれている







墓の横側に 「 寛政二庚戌年 十二月五日 」 と刻まれている







墓の前にある「 菊鹿町公民館 」






石工 「 仁平 ( にへい ) 」 は、
加藤清正が熊本城を築城した時、
連れてきた近江 ( 滋賀県 ) 石工の子孫で、
長崎で石橋の技術を習得し、
帰郷後、黒川の眼鏡橋や
門前川橋 ( 御船町 )などを造ったといわれており、
熊本で最も古いアーチ石橋技術者であったと思われる。

「 肥後の石工 」 のルーツは、熊本城ともつながっているのである。
熊本城の石垣は、 「 武者返し 」 という特殊な石垣で、
まさにアーチ石を横にしたようなものだから、この説は妙に納得できる。
 ( 種山石工も、アーチの工法を、
お寺の屋根の曲線 ( 寺勾配 ) の工法を参考にしたそうで、
肥後の石工のアーチ工法が単なるポルトガルや中国の物まねでなく、
独自の工夫やアイデアを加味したもので、
まさに日本独特の工法であることが解る )

仁平は、石橋の他に、六地蔵や鳥居、仁王像などの秀作を残している。
肥後の石工の中で、最初に活躍した石工集団
 「 仁平グループ 」 のリーダーである。
植木町に残る豊岡橋 ( 享和2年、1802年 ) を架けた
理左衛門も仁平の石工集団の一員である。
中国式のアーチ石橋と言われる 「 リブアーチ 」 にその特徴を残している。
 

石工仁平、益城郡上嶋村の石工三九郎が男也。
親共に下内田村大塚に在し、庄屋喜兵衛が名子たり。
或日仁平肥前に赴き、石虹の法を伝習し、
太田川の流れに一虹を架し試む。某橋大塚の前に今猶存す。
幅二尺に未たず小虹也。
然して天明二年 ( 1782 ) 阿蘇郡黒川の虹を架す。
是当国石虹の始にして、今所々に架するは仁平を以って祖とす。
 ( 以上、山鹿郡史より )

墓は菊鹿公民館 ( 山鹿市菊鹿町下内田 ) 裏側の100基ほどの中にある。
墓石の裏には俗名 石工仁平と刻まれ、
横には寛政二庚戌年 十二月五日と記されている。