フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

マルセル・コンシュ MARCEL CONCHE (II)

2006-09-26 22:51:47 | Marcel Conche

彼のインタビューから再び。

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デカルト、カント、ヘーゲルは、形而上学としての哲学を理解していなかった。彼らにとって哲学とは科学の形態をとっていなければならなかった。それは根本的な誤りである。なぜなら、形而上学としての哲学は、すべての実在についての真実を発見する試み (la tentative) であり、科学の本性とは異なっている。哲学の本質は試みること (un essai) であり、何かを所有・把握すること (possession) ではない。形而上学とは何かを証明すること (démonstration) ではなく、瞑想・沈思黙考すること (méditation) である。形而上学で確認・肯定することは、いつでも変わりうる意見 (opinions) ではなく、真の体験から生れた信念 (convictions vécues) である。
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これまでにも 「哲学と科学」 の対立や 「研究と瞑想」 の違いについて考えが及んでいた。哲学と科学ははっきりと異なるものであることが、彼の言葉からよくわかる。最近、瞑想の世界に遊ぶ機会が増えているが、そういう時には科学的思考から離れる傾向が強くなるように感じる。ある意味、科学を進める上で邪魔になるようにも思える。しかし、この両者をうまく結び付けられないか、少なくとも両方の立場を意識しながら思索を続け、どこかの高みに辿り着かないかという途方もない願いも芽生えてくる。

彼は、体系立ったもの、ドグマ、認知された哲学というようなものを信じない。懐疑主義者 (sceptique) である。そして彼の哲学は常に発展し、発展しながら一貫性を求めているという。それから自然を第一に考えている naturaliste ようだ。

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私にとって絶対的なものは自然である。物質という概念は私にとっては不十分に見える。物質の創造性を考えるのは難しい。そこに自然の天才がなければならない。原因だけであれば、この世は何とつまらないものだろう。原因が結果を生み出す過程は単純な繰り返しではなく、そこには革新 (innovation) がある。そこに、エピキュロス Epicure は原子のいたずらが働く空間 (l'espèce d'espièglerie de l'atome) を想像していた。

自然は原因の連続 (enchaînement ou concaténation de causes) としてではなく、即興 (improvisation) として理解すべきものである。自然は詩人なのである。自然を詩的に捉えなければならない。この見方はソクラテス以前の自然主義哲学者に最も近いベルグソンに通じるものである。

このような考え方になったのは、子供の頃から農民として働いていた私の育ちと関係がある。この自然との関係は、私にとって根源的な (foncier, constitutif) ものである。大学以降の抽象的な哲学の影響でこのことを忘れていたが、モンテーニュのお陰で自然との関係の上に成り立つ私の存在の根の部分に再び触れることになった。
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コメント
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