フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

京都へ ALLONS A KYOTO !

2006-09-22 23:53:30 | 

仕事以外で意識して来るのは、おそらく初めてである。観光趣味はもとからなかったのだから仕方がない。駅に向かう電車の中で勤め帰りの人の群れに会う。その顔をじっくりと見入る。こういう経験もほとんどなかった。どの顔も疲れ、輝きが感じられない。そこでガラスに映る自分の顔を眺めてみた。同じようにくすんでいる。人々に生気がないように見えたのは、自分の内面の反映を見ていたのか。若さと希望に満ち溢れている時には、それ以外の思いを抱いている人がいることなど想像もできなかったように。

新幹線の中で週刊誌を眺める。いつものように何かが飛び出して来ないかを期待して。その中に、「安部首相の時代と気分」 と題して2人の人に解読してもらうという記事があり、「安部晋三なるモノ」 についての中条省平氏の考察があった。そのフレーズにまず反応した。何のことはない、このブログのサブタイトルに 「フランス的なもの」 という言い回しを使っているからだ。

どういう意味で使ったのだろうか。意味を問うことなく言葉を選ぶことはしばしばである。当初はフランスに関係のあるもの、ということだったのだろう。この1年半余りの間、ただただ観察することに費やした結果、「フランス的なものから呼び覚まされること」 という中には、そもそもものを知らないという自覚 (la prise de conscience) のもとに、ものを疑ってかかることから始めましょう、あるいは疑いから出てくるもの、時には批判的な精神でものを見た時に出てくるもの、というようなニュアンスも含まれていたことを感じる。

ところで中条氏の考察によれば、「安部晋三なるもの=現状肯定」。私はまだ読んでいないが、「美しい国へ」 の中に見えるものとして、その大部分が日本の現状を肯定するものだという。さらに、今の若者には現状への否定的反抗心は薄いと見ている。そんな中、ソフトな語り口で語られるうちにことが進んでいく可能性があるのではないか。大きな転換点を何の論争もなしに通過してしまうのではないか、と危惧していた。日本の哲学者 (余り多くはないらしい) が論争を起こしたり、加わったりする時は来るのだろうか。

確かに、現状肯定から思考をスタートする人を見かけることがある。その前に批判的な精神で、ものを見たという形跡を感じることができないような。そこにはどうしてもある体制の中で何とか生きていきましょうという心が見えてしまう。そういう時にはいつも驚くのだ。

コメント (2)
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