フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2012年2月①

2012年02月01日 | しゃちょ日記

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 2012年2月1日(水)/その942◇遊びの本質

 「あんたの弔いはいいねえ」

 地元・代々木上原商店街会長、
 葬儀屋金ちゃんと、昨晩"秀"にてサシで呑む。

 私より五つばかり年長で、スタイリッシュに長身な彼は、
 『ローマの休日』グレゴリー・ペックに似てないこともない。
 より正確に云えば、後ろ姿が似てないこともない。
 私の兄貴分・秀さんの葬儀の仕切りの見事さに私は感激し、
 以来親しく呑み交すようになった。

 昨日のメイン話題は、私の弔いについて。
 差し当たってのスケジュールには入ってないが、
 死んでから慌てても手遅れだしな。

 「馴染みの隅田川にさ、骨をまいてもらうことは出来んのかい?」
 暗黙の了解ながら、今はそういうことが可能だそうだ。
 パウダーにしてまくのだという。
 そこをメイン軸に、予算や段取りなどを決めた。
 四月の誕生日には毎年遺言を書き直すので、新たに組み込んでおこう。
 
 ハチャメチャ路線ゆえ40代前半でクタばることに何の疑いも持たなかった私だが、
 そこからすでに十年以上、ムダに長生きしていることに今さらながら驚く。

 あの頃は目標達成が夢だった。
 そして達成した途端にガタが来た。
 今は、目標達成のプロセスそのものが夢だ。
 だから、いくら長生きしても、逆にいつ死んでも支障はない。
 手遅れながらも、やっとのことで「遊び」の本質が視えてきた。


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 2012年2月2日(木)/その943◇防衛本能

 2014年3月号まで編集長を続けるつもりなので、
 ぎんぎらにアンテナを張り巡らし、
 やってみたい企画を発見することが日課になっている。

 アイデア探しに他の専門誌や雑誌をめくることも多いが、
 最近はそこでヒントを得ることは少ない。
 逆に、アルティスタを含むアフィシオナードとの対話から生じる
 インスピレーションが企画を決めることが多くなっている。

 売れる専門誌の戦略は「上達」にあることが普通だ。
 フラメンコ人口が右肩上がりだった1990年代には、上達記事が有効だった。
 発表会対策や技術講座などが特に人気だったが、数年前からその効果も薄れ始めた。
 その理由は「フラメンコ界の成熟」だった。
 小手先の知識や技術ではフラメンコに太刀打ち出来ないことに、
 多くの練習生たちが気づき始めたのである。
 震災後は国際不況と相まり、その傾向に大いに拍車がかかっている。

 彼が彼であること。
 彼女が彼女であること。
 つまり、私が私であること。

 知識や技術を自分で噛み砕く力がないと、フラメンコが借り物になってしまう。
 知識や技術は上級でも、それがその人なりに完全に消化されていないと、
 フラメンコが借り物になってしまう。
 上級者より初級者の方がよりフラメンコだ、みたいな現象が多発する。
 どんなジャンルでもそれは同じなのだが、フラメンコの場合は特にそれが顕著だ。

 その人、つまりその人の心と、知識・技術を結ぶものって何だろう?
 私が着目したテーマはそこだった。
 云い方を換えれば、「私が私であること」を発見・実践する方法。
 このテーマは、すべて借り物で構成されている私自身の人生にとっても、
 残り少ない人生を悔いなく生き抜くための重要なテーマだった。

 『フラメンコ力アップ!』『心と技をつなぐもの』『しゃちょ対談』などの連載は、
 そうした疑問と希求が通奏低音になっている。
 次期編集長・小倉が発見・担当する『伴奏者の視点』の肝もそこにある。
 これまでに30本ほど自ら担当してみて感じることは、
 表面上は皆それぞれ異なるのに、共通するぶっとい部分が明快であることだった。
 肉体は皆ストイックに多忙だが、その精神はすこぶる明るい勇気に充ちている。
 いつ果てるともわからない自分の人生を、真剣に楽しんでいる。
 楽しいことは楽ではねえことが身体に沁みている。

 「器用さをバッサリ捨てる」

 優れたアーティストたちに共通する法則は徐々に明らかになりつつあるが、
 この大胆戦略などは、私にとってまさしく目からウロコだった。
 「不器用に徹し、三日で出来ることでも、敢えて三年掛けてじっくり血肉化する」
 まあ例えばこういうことになる、一見かったるい戦略だ。

 簡単に身につくものは、すぐにはがれる。
 逆に、じっくり時間を掛けて、心と身体のシンクロ進行で、
 思考・感覚の両面から、曖昧な部分をすべて解決しながら身につけたものは、
 一生ものとなる。
 ブレないフラメンコ人生の第一歩だ。
 私にとっては目下のパセオ編集長稼業がそれに相当する。

 フラメンコはその人の人生に直結している。
 だから、皆それぞれに異なる輝きのフラメンコを発する。
 本人が一番楽しみながら同時に周囲に魅力と楽しさを発散させる、
 いわゆる「独りよがり」との対極。
 大量すぎる文明が忘れさせた、太古より人間個人個人がもれなく所有するポテンシャル。
 成熟しつつあるフラメンコ界では、そのことに皆気づき始めている。
 ついでながら、私もそのことに気づき始めている。

 そういう宝のジャングルに踏み込む試みは、現在トータルで30数本。
 差し当たっての目標を100本としたが、逞しく美しく生きる標本が多ければ多いほど、
 多くの範囲のアフィシオナードに豊かな結論をもたらすことが可能になるだろう。
 最後の最後になるかもしれないが、その結論はやがては私をも救ってくれるだろう。


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 2012年2月3日(金)/その944◇快感と苦痛

 「道は知ってるのに、車の運転ができない人」

 「批評家とは、つまり後宮の宦官(かんがん)だ。
  やり方は知ってるし、やるところを毎日見てるけれど、
  でも自分ではやれない」

 池澤夏樹さん『虹の彼方に』(講談社文庫)からの引用。
 前者は劇評家の自嘲、後者は劇作家の逆襲である。
 どちらもかなり厳しいが、確かにそういう評論屋は多いから、
 こういう逆襲はバランス的に好ましい。

 他人の欠点を見つけるのは本当に簡単だ。
 かつての私はそういう悪行の名人だと恐れられた。
 だが、そういう毒を吐くことは、えらく後味の悪いものだった。

 他人の長所を見つけるのが意外と楽しいことに気づくのは、
 30代の頃だったと思う。
 人付き合いが楽しくなったし、また楽にもなった。
 やがて、そっちの方が自分向きだと知った。

 ただし、欠点探しをまったくやめたわけではない。
 ったく、どうしょうもねえ奴というのはけっこう身近に居るもので、
 そういう輩を容赦なくブチのめすことは、やはり快感なのである。
 だが現在のところ、社会正義の観点からブチのめすにふさわしい対象が
 唯一わたしだけであるところが若干痛い。


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 2012年2月4日(土)/その945◇ノスタル爺

 バッハの無伴奏チェロを、久々にカザルスで聴く。

 古い録音だ。
 1938~1939年。
 昭和で云えば13~14年となる。
 2・26事件の二年後、太平洋戦争突入の二年前である。
 すでに他界した私の父と母は、まだ出逢ってすらいない。
 
 一方、バッハがこの奇跡の名曲群を作曲したのは、
 1720年前後と推定されている。
 わが日本では、暴れん坊・江戸幕府八代将軍徳川吉宗が、
 目安箱を設置した頃となる。
 あの新さんが悪人相手にバッタバッタと大活躍している頃、
 未来永劫人類を楽しませることになるこの音楽を、
 せっせせっせとバッハは作曲してたというわけだ。
 歴史に疎い私だから、それらを一元化するのは容易ではない。

 さて、そのカザルスのバッハ演奏。
 何せ70年以上昔の録音だから、さすがにザーザーと雑音が気になる。
 ところが、一分もしないうちに音楽そのものに没頭できるようになる。
 音楽そのものが、あきれるほどに圧倒的な力を持っているのだ。
 ヴァイオリンのクライスラーや、ギターのセゴビアの
 うんと古い録音でも同じような経験をしたことがある。
 アフィシオナードなら、例えばマヌエル・トーレやペイネスの録音で
 似たような経験をされた方も多いことだろう。

 最近は極めて上質な録音状態が当たり前で、
 しかも驚くほど完璧なテクニックで弾かれたものが多い。
 だが、音楽そのものの力で、知らぬ間に没頭させられてしまうものは、
 残念ながらそれほどには多くない。
 ある音楽評論家の感想を、ふと想い出す。

 「もう、さすがにカザルスはいいかと、若いチェリストのバッハを聴き始める。
  何人か有望な若手に注目する。ふと、鮮やかに力走する彼らの行く先を見やると、
  そこには悠々と走るパブロ・カザルスの背中があった」

 思わず無条件に共感してしまうような、いやいや、
 若い者だって負けてはおらんぞと反論したくなるような、意外と想いは複雑だ。


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 2012年2月5日(日)/その946◇更年期の楽しみ

 寝る前に書いたバッハの無伴奏チェロは、
 四十代半ばの人生の変わり目を、
 やさしくバックアップしてくれる音楽だという認識が私にはある。

 若い頃には鈍重に聞こえたチェロという楽器に、
 昔のようには身体の動かなくなってきた自分が
 えらく共感してしまうという若干もの哀しい構造なのだが、
 同時にそこには、中高年からの希望の道筋が見え隠れする。

 もうチャラチャラかっこつけてもしょうがねえ。
 自分は自分なりに、じっくり腰を据えた生き方がしてみたい。
 まあ、そんなような開き直りに勇気を与えてくれる音楽なのだ。

 合計6曲ある無伴奏チェロを通しで聴けば約二時間半かかる。
 この曲を録音できるのは優れたチェロ奏者に限定されるから、
 どんなCDを買っても、まずハズレはない。
 これまでに私も80セット余りを購入したが、
 その時の気分によって、聴きたくなる演奏は実にさまざまだ。

 同じソレアでも、カラスコ、エバ、マリパヘなど、
 それぞれの持ち味はまるで異なるので、どの踊りが一番というのではなく、
 その時感じたいソレアを選びたくなるのといっしょだ。
 そういう優れたバイレやチェロには、いつでも新たな発見があることも共通している。

 男も女も更年期には無伴奏チェロ。
 そこに話を戻せば、初回買いのお薦めはミッシャ・マイスキー。
 1999年の再録音は、明るい人間愛に満ち溢れる演奏という点において、
 かのパブロ・カザルス(1938~39年録音)の精神を後継する
 20世紀ヴァージョンの若手代表(現在64歳だが)と云えるかもしれない。

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 じゃあ、今現在、この21世紀においてはどうか?
 今のところカザルスやマイスキーの方向性は見当たらないのだが、
 2007年録音のジャン=ギアン・ケラス(現在45歳)には、何やら突出した凄みがある。
 敢えてフラメンコに例えるなら、あの"ドゥケンデ(現在47歳)"的な何かを感じる。

 そこには、希望に充ちたファンタジーをあきらめた世代の、
 現代社会の不安をそのまま受容するリアリストならではの、
 涙痕さえも乾ききった、腰の据わった希望がきこえる。
 
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 2012年2月6日(月)/その947◇茶漬け好き

 バッハの無伴奏チェロというのは、
 他の楽器のプレーヤーにもやたらと人気のあるナンバーのようで、
 私のCD棚だけでも以下のような編曲ラインナップがある。

1)ギター
2)リュート
3)ハープ
4)ハープシコード
5)ヴィオラ・ダ・ガンバ
6)ヴィオロンチェロ・ダ・スラッパ
7)ヴィオラ
8)コントラバス
9)リコーダー
10)トラヴェルソフルート
11)フルート
12)サックス
13)ホルン
14)琴

 コントラバスとホルンは、楽器の機能上やや苦しいが、
 他の楽器については、まるでオリジナルような響きで聞かせる。
 無意識によく聴くのはギターとリコーダーなのだが、
 こりゃやはり、自分がやってた楽器でバッハを疑似体験したいからだろう。

 今日なども仕事の合間に、いろんな楽器でちょろちょろ五種類ほど聴いたが、
 結局トドメに聴いたのは、とことん歌うピエール・フルニエのチェロだった。
 イタリアン・フレンチ・中華などの立食パーティの後で、
 家に帰って嬉々として茶漬けを食らう感じによく似ていた。


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年2月②

2012年02月01日 | しゃちょ日記

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 2012年2月7日(火)/その948◇自業自得

 日進月歩するコンピューターに、
 引退した将棋の元名人が敗れたのは今年のことだ。

 途中までは、元名人が圧倒的に優勢だった。
 元名人の後手番の初手「6二玉」は、プロ同士にはまずあり得ない手だが、
 こうした奇手に、コンピューターが戦略を誤ることが稀にあるのだ。
 将棋界では知られていた手らしいが、コンピューター側がまだ対応できないらしい。

 そのへんの状況がよくわからない私は、
 ネット上に無料開放されている将棋ソフトに、久々に闘いを挑む。
 もちろん名人を負かしたソフトより遥かに性能は劣るが、
 安定してアマチュア五段程度の実力のあるソフトなので、
 すでにペーパー六段に老朽化している私は、並みの手段では勝てない。

 私が採用したのは、もちろんその「初手6二玉戦法」である。
 何手か進めると、滅多に狂わないはずのコンピューターが狂った。
 努めて上品に例えて云うなら、とってもお上品なレストランにて、
 いきなり立ち小便をやらかすような手を指したのである。

 序盤の30手ほどで私は大優勢となり、後は間違えなければ勝てる局面となる。
 だが、そこからコンピューターは底力を発揮する。
 とにかく、ことごとくイッパツを狙ってくる。
 そのイッパツの狙い方が、エグいと云うか暗いと云うか鋭いと云うか、
 テレビや映画で観る悪質なストーカーのような不気味さで迫ってくる。

 意表を突くそのパンチを一発でも食らえば逆転するので、
 こっちとしては、腰に重心を据えながらガッチリした受けに徹する。
 殊に中終盤に力を発揮するコンピューターは、
 弱い私にとってクロスカウンターを狙える相手ではないのだ。

 最後まで怖いイッパツを狙ってくる相手のパンチを、
 すべて丁寧に面倒を見ることで、結果としては大差で勝った。
 だが、後味はそれほど良くなかった。

 ひとつには、序盤におけるコンピューターの、
 人間としてどうにも共感できない乱暴かつ無機的なヴィジョンと戦略。
 もうひとつは、中終盤におけるストーカー的な罠の不気味さ。
 最後のもうひとつは、足を止めての殴り合いでは決して勝てないことの悔しさだった。

 人間が幼稚だからこそ、いや、私が幼稚だからこそ、そうした感想を持つのか?
 人間よりも、現代のコンピューターは神(宇宙)に近いのか?
 近い将来、究極のコンピューターが開発された時、その神のお告げに私は従うべきか?
 人自ら発明したすこぶる便利な文明と、人はどう共存すべきか?
 人自ら発明した文化は、どうすりゃその文明により善い影響を与えられるか?
 そして、われらフラメンコ派のこの先の役割は?
 おしまいに、そろそろハラが減ってきたが、朝めしは何を食うべきか?


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 2012年2月8日(水)/その949◇男と女

 「絶対に小山さん、気に入りますよ」

 鋭いアンテナを持つ、地元の後輩呑み友アキラがそう云う。
 その翌日、馬場駅前のムトウ楽器にて、アキラ推薦の三枚組CDを購入した。
 いつもはクラシックと落語しか買わない私だから、
 なじみの店員がちょっと意表を突かれたような顔をした。

 『稲垣潤一/男と女

 大ヒットした徳永英明さん同様のカヴァー・アルバムなのだが、
 すべて異なる女性歌手とのデュエットであるところがおもしろい。
 アレンジも凝っていて、何て手間ヒマかけた作品なんだと驚く。
 稲垣潤一さんが、私より二つ年上の1953年生まれと知ってさらに驚いた。
 お気に入りの三枚になりそうな予感。


 「なんか走りたくなりますね」

 編集部・小倉青年は、パセオにこだまするデュエットの歌声をそう評す。
 うーむ、「健全なる若さ」というのはそういうことか。
 極めて残念なことに、私は走りたくならない。
 走るたびにすってんころりと転んだ痛い想い出も多すぎる。

 締切落ちした原稿の、その哀しみの代打原稿を書きながら、
 シャーバーダー~娑婆駄馬ダー、と意味不明につぶやく。


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 2012年2月9日(木)/その950◇鉄楽レトラ

 ウェブ友あきらからメッセが入る。
 どエライ朗報だった。


 「こんにちは。
  いつもしゃちょさんの日記と、
  月刊パセオを愛読しているあきらです。
  もし、既にお耳に入っていたらすみません、
  ちょっと良い漫画を見つけましたので、ご報告をば。

  その名も「鉄楽レトラ」
   http://gekkansunday.net/rensai/letra/110412.html
   佐原ミズ著 小学館(「ゲッサン」掲載)

  少年誌である月刊少年サンデーに、
  少年がフラメンコを踊るストーリー!!
  第一巻は、主人公の男子高校生が紆余曲折の末、
  フラメンコ舞踊を始めるまでの話です。
  裾野が広がりますね~♪」

     
 ちーとも知らなかった。
 うーん、いい風吹いてきたねえ。
 パコ・デ・ルシア知ったの、おれも高校生の時だったしなあ。

 「鉄楽レトラ」を読んだ高校生が、
 フラメンコ始めたり、その中からスターが出たりとかね。

 あきら、ありがとよっ!


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 2012年2月10日(金)/その951◇mixi畏るべし

 パセオフラメンコ3月号の見本が刷り上った。

 『ダニエル・ムニョスのフラメンコ写真館』には、
 ドキッとするようなクオリティがある。
 写真を撮る人には衝撃的かもしれない。
 マヌエラ・カラスコとエバ・ジェルバブエナの
 対抗ページにおける冷やっとするユーモアなども見事に尽きる。

 さて、この3月号で実現できたことがひとつある。
 それはフラメンコ公演忘備録を独り書き始めた
 二年ほど前に定めたヴィジョンだった。
 
 「私以外の執筆陣で忘備録を構成すること」
 
 今回そう決め打ちしたわけではなかったのだが、
 公演原稿が重複したものについて、内容で1本選んだ結果、
 たまたま私の原稿がすべて落選したという実情である。

 批判や攻撃を恐れ、誰もがやりたがらなかった公演レビューを、
 公演感想という形で独り再開した企画だったが、
 いまでは、人気連載の五指には入る。

 その執筆者のほとんどは、ご存知のマイミクさんである。
 こうした展開は、ネットを始めた頃に構想した青写真の一部だったが、
 やはり伸び縮みできる双方向性コミュニケーションの
 ポテンシャルというのは相当に魅力的だ。
 mixi畏るべし!


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 2012年2月11日(土)/その952◇スポンジ

 「今はスポンジやるしかないみたいです」

 使命感と身銭を元手に、ある大きなイベントの実現に熱中する彼。
 若い頃の私もそういうタイプの人間だったから、
 1時間の予定の話が、ついつい4時間に長引いた。

 彼には止まらない勢いがある。
 そのヒリヒリするような熱情に、何ともやり切れないような、
 それでいて妙に懐かしい感情がよみがえる。

 何もないところに何かを創ることはやり甲斐のあることだが、
 大きな借金を喰らい、心身はボロボロとなり、
 さしたる見返りも生じないことは、彼は彼なりに承知している。

 若い頃の私よりも遥かに彼は純真だが、
 泥沼を泳ぎ抜く免疫は弱いから、そのぶん苦労は多いはずだ。
 ほんの少しの協力を約束したが、
 期待未満の結果に、内心彼はガッカリしたことだろう。

 自らスポンジになって、目標達成のために協力者の苦情をすべて吸収する。
 冒頭の言葉から、彼がそういう段階に入ったことが読み取れる。
 
 やらなくちゃならねえことじゃない。
 やりたいからやる。
 そこを忘れんなよ。
 まあ、骨ぐらいは拾ってやるから。

 何度か私は同様なことを云った。
 彼は私の失敗の歴史を熟知している。
 そういう冷たい言葉で頭を冷やしにやって来たと、私にはそう思えた。


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 2012年2月12日(日)/その953◇対話同士の対話

 昨日の岡田昌己『一輪のマルガリータ』における、井口由美子(みゅしゃ)の公演忘備録
 そのmixi日記への私のコメントを以下に。

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 おつかれ、みゅしゃ!

 アートのレビューというのは、
 そして殊に人生に直結するフラメンコのレビューというのは、
 単に個人の好みや舞台のクオリティうんぬんよりも、
 観た者の個人的な化学反応に基づく切なるエッセイであることが好ましいと、
 パセオフラメンコ的には、そういう方向性を理想としています。

 積み重ねられた観客個人の人生と、
 アーティストの人生を集約するただ一度限りの生舞台との心の対話。
 それらが誌面に記憶されることによって、
 舞台に対する、個々さまざまに真摯な接し方の実態は広く認知される。
 そうした連鎖が帰納法的な収穫を呼び込み、やがて普遍的な真実を浮き彫りにする。
 そんな対話同士の対話こそが、フラメンコの世界をより深く豊かなものに成熟させてゆく。
 そのように私は考えます。

 その意味でも、今回もまたとても読み応えのあるレビューでした。
 やはり昨日のステージを観た私の視点は、後半の地味な踊りに集中していました。
 さりげない老母の踊りの中に、グラシアの華が浮かんでは消え、消えては浮かぶ、
 渋く柔らかに美しい情景にひたすら酔っていました。
 裏を返せば、前半に純白衣裳で踊ったアレグリアスの真価を見落としていたわけで、
 みゅしゃの視点によって、それを補填できたというのが実情です。
 また、「切なるエッセイ」な部分にも大きな発見がありました。

 まあ、私としては自ら参加しながら、そういう対話同士の対話によって、
 自らの実人生をより豊かにするであろう好ましいヒントを発見すること、
 さらにそうした連鎖を広く促すことこそが、目下の最大の興味なのかもしれません。

 ということで、4月号もしくは5月号に掲載したいので、
 例によって原稿の清書メールを、至急よろしくお願いします。


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年2月③

2012年02月01日 | しゃちょ日記

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 2012年2月13日(月)/その954◇斬新

 ベランダで一服していると、電話だという。

 おやっ、いったい何の用事だろう?
 意外な方からの電話に、急いでデスクに戻る。
 「ハイハイお待たせ」と受話器をとると、
 その意外な電話主の第一声はこれだった。


 「今忙しいんだけど、用事って何なの?」


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 2012年2月14日(火)/その955◇謙虚な夢

 今日はは栄光のバレンタインデー。

 若い頃はトラック一台分のチョコレートをもらったものだ。
 もとい。実際に、そーゆー夢を見たものだ。

 オトナになってからは、そういう夢は見ない。
 世間の荒波にボコボコに揉まれて、
 性格も夢も謙虚になったからだ。

 今は義理チョコを三つばかりもらう。
 もとい。実際に、そーゆー夢を見る。


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 2012年2月15日(水)/その956◇ウワサを信じちゃいけないよ

 血気盛んな頃は、体力に任せて日夜聴いたベートーヴェンだが、
 寄る年波にエネルギー・エコが必要な昨今では、
 まともに聴くのは盆と正月くらいのものだ。

 だが、大指揮者フルトヴェングラーの未発表の『運命』『田園』が
 発売されたとあっては、そうも云ってはおられない。
 死して尚、今も人気ナンバーワンの指揮者である。
 その『運命』『田園』は、私の生まれる前年(1954年)の録音。
 即買いして、思う存分の大音響で聴いた。

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 いやはや、ゲラゲラ笑ってしまうほどに素晴らしい。
 オケはベルリン・フィルなのだが、アンサンブルは縦も横ももうメタメタだ。
 フルトヴェングラー「=振ルト面喰ラウ」というウワサはこの辺から出ている。
 なのに音楽そのものが、鋭くハートに突き刺さってくる。

 指揮者フルヴェンの猛烈な大志が、そのまんま反映された演奏。
 止めることなど不可能な、理想一直線の恐るべき推進力。
 何とか指揮棒についてゆこうとする団員の必死の熱狂。
 死んでこい的アッチェレランド(次第に速く)に負傷者も続出するが、
 そんな有り様さえも音楽の一部になっちまってるところがまた凄い。
 細部の傷の整備に必死で、全体を俯瞰しない現代の傾向とは真逆の世界。

 そんな時代もあったのね。
 チマチマ停滞することなく信念頼りにブッチ切る。

 ああ、どーにも止・ま・ら・な・いっ!

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 2012年2月16日(木)/その957◇もうそれ以上~♪

 「埠頭を渡る風」。

 いい曲だねえ。
 さっそうとしたハーモニーの稲垣潤一&EPOのカヴァーで、
 近ごろは毎日のように聴いてる。

 ユーミン、1978年の作。
 私も23歳だった。
 希望と絶望がクロスする、あの青春の愛しき日々。

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 じゃあ私は、「あの日にかえりたい」のか?

 いいえ、けっこうだす。
 いえ、かえりたいのは山々なんです。
 まあ、同じ失敗を繰り返すこともねえでしょーが、
 だがしかし、違う大失敗をやらかす自信があります。
 つまり、今度こそ命はねえですっ(汗)

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 2012年2月17日(金)/その958◇日本の自殺

 「歴史的事実に照らしてみるとき、確かに第二次世界大戦後の日本は
 物質的にはめざましい再建をなし遂げたが、
 精神的には未だにほとんど再建されてはいない。
 日本はその個性を見失ってただぼう然と立ちつくしたままである」
                       (『日本の自殺』より)

 芥川賞受賞作が全文掲載されている号に、
 いま話題のその論文も掲載されているというので、
 文藝春秋の三月特別号を、本腰入れてじっくりと読む。

 さすがにニッポンの良心、文藝春秋。
 まあ、近ごろのパセオほどではないにせよ(汗)、
 そのぶっとい芯の充実ぶりには目を見張るものがある。

 お目当ての『日本の自殺』は、
 「グループ1984年」という集団の共同執筆による1975年発表の論文だが、
 その37年後となる今現在の日本を内臓から鋭く射抜くような、
 空恐ろしいまでの鋭い洞察に充ちている。

 経済の繁栄がもたらす、すべて他人頼りの過保護世界。
 財源の枯渇に全員で気づきながらも、
 官も民も大盤振る舞いの現況を潔く捨て去ることが出来ない。
 窮状打開をめざすリーダーたちは夢破れ、衆愚の波に飲み込まれる。
 無責任と贅沢に慣れ果てたローマは、他国からの侵略ではなく自ら命を断つ。
 そういう遠い過去の生々しい現実をベースとする、
 わかっちゃいるけどやめられない近未来物語。

 まあ、しかし、暗いばかりの話ではない。
 現代ニッポンと状況が酷似する「ローマ帝国の滅亡」との比較を軸に、
 滅亡のプロセスというものを徹底的に検証するが、
 さらに、その教訓から導き出されるヴィジョン~戦略~戦術が
 実にシンプル明快に提示されている。


 「自己決定能力」。
 
 キーワードはそこにあると私は読む。
 個人個人の「自己決定能力の欠如」が、ローマ滅亡の原因の元凶だった。
 そして現代では、ヒトラー的処方箋がうまくゆかないことは誰でも知っている。
 最後に残る選択肢は、市民一人ひとりの「自己決定能力の復活」以外にはない。
 
 この論文が書かれた時代に、現実社会の仕組みに落胆しながら、
 バッハやフラメンコに傾倒してゆく若き私の必然性が視えてくる。
 バッハもフラメンコも、巨大な何か(神? 宇宙?)に対する
 自己決定能力の充実が最小必要条件となるアートだ。
 ただ崇めているのだけでは生ぬるく、
 そこからの発見を日常生活の改善に反映させる必要がある。
 そういう傾向が、じわじわと社会に広がる必要がある。

 と、まあ、何とももっともらしい強引な後付け、もしくはこじ付け。

              
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 2012年2月18日(土)/その959◇土曜レイチェル、日曜有子

 明日はすみだトリフォニーで、もの凄いバッハ・ライブがある。
 なんと、すべて異なるプログラムで1日4回公演という前代未聞のチャレンジ。
 その主役は女性ヴァイオリン奏者のレイチェル・ポッジャー。
 伸びやかに瑞々しいバロック奏法で一躍国際的スターとなった彼女だが、
 デビューの頃から輸入盤で注目している。

 4公演とも聴きたいのは山々だが、
 翌日曜は待望の屋良有子ソロライブ(新宿エルフラのマチネ)があるので、
 エネルギーをそこそこ温存する必要がある。
 なので15時半の無伴奏ヴァイオリン、18時半のヴァイオリン協奏曲の2公演に絞る。
 開演前には向島百花園を、インターバルにはスカイツリー界隈を散策予定。

 世界中の音楽コア・ファンが注目するポッジャーだが、日本ではほとんど無名。
 この3月にはビセンテ・アミーゴ来日公演も主催するすみだトリフォニー。
 集客の難しい、知る人ぞ知る超高品質コンサート開催がウリなのだ。
 すでに15年、N氏とU氏のコンビは本当にいい仕事をガンガンやる。
 好ましい文化の充実は各個人の自己決定能力の総量で決まる、というのは昨日の続き。

 山あり谷あり、極楽あり。
 土曜レイチェル、日曜有子!


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 2012年2月19日(日)/その960◇本日『笑点』より

 マニフェストとは「宣言」のことだ。

 だが、日本においてはこれが「カラ手形」を意味することは、
 日本人なら誰でも知っている。


 一方、アジェンダとは「政策課題」という意味らしい。
 この先どのような意味に変化してゆくのか、注目したい。


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年2月④

2012年02月01日 | しゃちょ日記

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 2012年2月20日(月)/その961◇やっても十年、やらなくても十年

 「やっても十年、やらなくても十年」

 深夜のテレビからそんな言葉がきこえてくる。
 へえっ~とエラく感心した。
 ふいに、中学生の私が妙に感応した言葉を思い出す。

 「何をやっても一生は一生」

 まあ、おんなじような意味合いだが、
 前者の方がより共感できるリアリティがある。

 歳とともにどうしても相談される機会は増える。
 だが、人の人生を決める趣味など私には無い。
 今後はこのひと言で片付けようかなと思った。

 やっても十年、やらなくても十年。
 決めるのはあんた。
 好きな方を選んだらいいよ。
 
             
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 2012年2月21日(火)/その962◇誰だよおめえ?

 彼は立派だ。

 抑止力にならないケースもあるが、
 抑止力としての死刑について、現状私は確率論的に賛成論者。
 実際私なんかも死刑の存在によって暴走を抑止されている。
 死刑の少ない欧米は文明先進国だが、文化先進国というわけではない。

 確率論信奉者ではないけれど、
 社会はやはり、妥当な確率論を軽視すべきではないと考える。
 自分を含める世間は、いつでも衆愚なわけではないから。

 少なくとも現状日本において、
 被害者よりも加害者の人権に重きを置くような偽善的見識に、
 知性や親しみやリアリティを感じることは出来ない。

 一方、喧嘩両成敗的なバランス上、
 悪しき官やマスコミやモンスター何がしなどに
 怒りの湧き出る心理も自然ではあるが、
 指をくわえたままではあまりに幼く生ぬるい。
 自分の怒りに本当に信念を持てるなら、
 そうした権力内部に実効権を確立するなどして自ら改善すべきだろう。


 う~ん、今日はちょっとユキオやマキャベリが頑張りすぎだが、
 食い詰めた貧民が平和ボケした富民に逆襲する普遍人類史にも、
 やるせない徒労感を感じつつ、じゃあオレは誰かと自問する。


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 2012年2月22日(水)/その963◇束の間の逆襲

 「トンカツは醤油で食いたい」

 これは代々木上原のヘッブバーンこと、
 秀の看板娘カズコと私の代表的な接点である。

 「素材の旨さが引き立つよな」
 「うん、ゼッタイお醤油。
  でも、揚げ立てを何もつけないのも美味しいよね」

 「ああ、パラッと塩を振るのもいい」
 「それもありよね。
  あと、お豆腐なんかでも何もつけないのがいいわ」

 「カズコは素材派だからなあ」
 「わりとそうかも。
  お刺身なんかもお醤油つけないで、そのまま食べたいし」

 「えっ、醤油つけねーで刺身そのまま食っちゃうのか?」
 「そうだよ。旨さがよくわかるから」

 「た、たとえば?」
 「そう、マグロとか」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 これにて絶世の美女カズコと私の、唯一の接点は完全に消滅した。

                  
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 2012年2月23日(木)/その964◇久々の学習

 自分の進路について、人に相談したことはなかった。
 ありがたい人様の忠告も素直に受け容れたことはなかった。
 シノギも入試も創業も結婚もみな、ついでの折の事後報告だった。

 ニ、三日前に日記を書いたあと、ふと、そんなことを思い出した。
 熟考よりも直観を信頼する傾向が強くて、その上シャイで見栄っ張りだ。
 さらに即断実行のO型牡羊座だからそんなマヌケが出来上がる。

 ありがたい人様の経験値にさえ耳を貸さないのだから、
 当然おもしろいように失敗する。
 人生3勝997敗という戦歴は、自ら選んだ妥当な結果と云える。
 だから、あの時ああしておけばよかったという後悔はほとんどない。

 私のことを柔軟性のある人間だと、周囲も私も錯覚したりするのだが、
 それは他者とのコンパスを重視するがゆえの柔軟性であり、
 私自身に対するコンパスは極めつきの直情型単細胞なのであった。

 だから、うっかり人のお悩み相談に乗ってしまう時など、
 相手にマジで反応されると相当にうろたえる。
 オレはオレだからそう思うのであって、
 お前はお前でお前らしい選択をすべきじゃねーか。
 どの道失敗するんだから、どーせ失敗するならお前らしく失敗した方がいい。

 てなわけでこの先は、余計なことは云わずに相手のリスクを回避するために、
 以下のセリフを私の中に改めて叩き込むことにした。
 これにてあらゆるお悩み相談は三分で完了し、楽しい酒をドンチャカ呑める。


 やっても十年、やらなくても十年。
 決めるのはあんた。
 好きな方を選んだらええよ。


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 2012年2月24日(金)/その965◇武者ぶるい

 早くもフラメンコ界の大評判を取りつつある、
 3月号の『ムニョスのフラメンコ写真館』の衝撃。
 ウェブ友の感想には「ポルノ」という言葉が飛び出していた。

 人間の本能たる性を主題にした文学・書画・写真。
 これら総称が本来のポルノの意味であり、
 もちろん彼女の連想は、安手のエロティシズムを指してはいない。

 エロスというのは、表現としてのエロティシズムや、
 衝動としての性欲などを原動力とすることが多いが、
 (そして私はそれらの熱心なアフィシオナードでもあるが)
 本来はもっと素朴で根源的な意味合いで「生きたいっ!」という熱求である。

 エロス(生への衝動)とタナトス(死への衝動)の絶妙なバランスが、
 ムニョスのフラメンコ写真の特徴となっている。
 「生と死のコラボ」とか「厳粛なエロ」みたいな趣きがある。

 スペインから送られてきたこれら写真にわれら編集部は、
 思わず息を止めながら、その後数分間、ただ呆然と眺めていた。
 人は皆、エロスとタナトスの二律背反を背負いながら生きているわけだが、
 写真という二次元メディアを通じ、
 唐突にそれら意識下の実態を明らかにされたことに
 あまりにも鮮烈すぎるショックが走ったのだった。

 すでに人生の3分の2以上をフラメンコに関わりながらも、当たり前のように
 こうした新たな局面に出逢ってしまうところにフラメンコの底なしの深遠がある。
 フラメンコの魅力の謎に迫る切り口が、またひとつ視えてきた。
 同時にそれは写真&活字メディアであるパセオに、
 新たな使命と勇気をもりもりと与えている。

     
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 2012年2月25日(土)/その966◇ミューズの使者

 高校時代、授業合間の稼ぎでやっとのことで購入した
 LPレコード(時給250円時代に2500円だった)の解説の多くが
 濱田滋郎師に拠るものだったことが、
 パセオ創刊の大きな伏線となっていることに疑いの余地はない。

 ギターを主とするクラシック音楽全般、中南米音楽、
 フラメンコなどの領域で活躍される師の解説には、
 他の評論家先生とはどこか根本的に異なる眼差しの温かさがあり、
 その柔らかに豊穣な文章は、危ないシノギで世渡りする青春期の私を
 音楽世界に引っ張りこんでくれる福音書のような存在だった。

 幼いころの紙芝居でわんわん大泣きした童話『泣いた赤鬼』の作者が、
 師のお父上・浜田広介師であることを知るのはずっと後のことだが、
 その目からウロコの事実に大いにうなずいたことを思い出す。

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 きのう2月24日、東京・新宿のハイアットリージェンシー東京において、
 濱田滋郎師(日本フラメンコ協会会長)の77歳の喜寿を祝う
 パーティーが盛大に開催され、クラシックギターやフラメンコなどの
 関係者や愛好家が日本全国から多数詰め掛けた。

 クラシック畑からは大萩康司、福田進一、荘村清志という
 花形ギタリストたちが祝辞とともに颯爽たる演奏を披露。
 フラメンコからは師の愛娘・濱田吾愛がエンリケ坂井のギターで
 気合い満点にカンテソロを熱唱し、
 バイレ大御所・佐藤佑子はエンリケ坂井のカンテ、
 金田豊のギターでソレアを踊り会場を沸騰させた。

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 そして祝賀会ラストには、主人公・濱田滋郎による、
 指の動きはともかくも、この世の極みとも云うべき
 味わい深い音色のギターソロが奏でられ、しみじみと会を締めくくった。

 祝宴の引き出物は師の心尽くしともいうべき単行本『清里スペイン音楽祭20年』。
 1985年の第一回からの貴重なデータや座談会記事などが
 ぎっしり詰まっているのだが、若かりし大物出演者たちの青春が
 ハチ切きれそうなアルバム写真に思わず懐かしさがこみ上げる。

 表紙裏には慈愛に充ちあふれる表情の女性の写真が載り、
 濱田滋郎による献辞がこう添えられていた。


  私を、そして「清里」をよく支えてくれた
    妻・慶子(2009年8月末日没)に
       この一冊を捧げる
                


しゃちょ日記バックナンバー/2012年2月⑤

2012年02月01日 | しゃちょ日記

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 2012年2月26日(日)/その967◇退化の快振

 「パセオフラメンコは公器なのですから」

 ある時そんな言葉を受けて、
 はあっ?と私は、何か吹き出しそうになる違和感を覚えた。
 質の悪いギャグの、そのあまりの質の悪さに吹き出す感じ。

 公器か。
 確かに昔はそんな意識があったな。
 無くしてしまったのはいつ頃のことだろう。
 それがよく思い出せない。

 そういう意識そのものを否定するわけではもちろんないが、
 無いものを有ると云えばウソになるから、それは云えない。
 おそらくそれは退化なのかもしれないが、
 そういう次元とは異なる低次元意識で今は一本化されているので
 本誌の隅っこながら、毎号こんな風に載せている。

 アフィーシオナードの
 アフィシオナードによる
 アフィシオナードのためのフラメンコ専門誌

 こういう単純さが今の真情に実にしっくり来るからだ。
 まあ、他から助成金を受けてるわけでもないし、
 株主としていざとなれば自己責任で好きに廃刊できる本なので、
 ようやく不躾な等身大の意識に落ち着いたということなのだろう。

 結果として"公器"的に感じてもらえるなら悪くはないが、
 そういうお上品さがちょっとでも目標になってしまうと、
 私の大好きなフラメンコな感覚が、自分の中で目減りしそうな気がする。
 現役としてバッターボックスに立てるうちは、
 せめて自分の感覚に正直に、毎度まいど快く振り切りたい。
 それにしても三振の多い野郎だとゆー自覚は大いにある。

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 2012年2月27日(月)/その968◇玄米過去未来

 玄米過去未来~あの人に逢えたなら~♪
 まあ、そんな歌詞だったら、
 あんなにはヒットしなかったように思う。

 ということで我が家に玄米が届いた。
 自然食好きな代々木上原の米倉涼子こと、ご近所呑み友ミキが
 旧知の農場から手配してくれたのだった。

 過去に一度頼んだことがあり、
 その時に玄米のおかずは何がいいか?、
 いろいろ試したことがある。
 
 白米・銀シャリとはずいぶんと勝手が違って、
 マイベストワンは「ごま塩」であった。
 そう、ごま塩の未来はやたら明るい。
 まあでも、それだけでは余りにも寂しいので、
 味噌汁、たくあん、焼きジャケ、肉野菜炒めなんかをオマケにつける。

 玄米はめっちゃハラ持ちがいいので、
 昼飯を食うヒマのない日などには具合がいい。
 だが、朝めしにゲンマイを食ったことを忘れて、
 うっかり昼にカレーを食ったりすることもあるわけで、
 この場合は、ドンマイとゆーことになるだろう。


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 2012年2月28日(火)/その969◇一期は夢

 マジな話は好きだが、
 同じようにヨタ話やエロ話が好きだ。
 昔からそうだったが、この三十年はフラメンコが生業だから、
 尚更そうでないと具合が悪い。

 感情でも思考でもコミュニケーションでも、
 バランスを欠いてどこか一箇所に偏ると、
 どーにもフラメンコにならないし、第一に人生がつまらない。

 自然はおおむねアレグリアスのシレンシオ(静寂)のようだと思うが、
 人間社会の中で生命を維持しようとする以上は、世の中のコンパスを読んだ上で、
 生命のフィジカル面を、自分の気質体質に合ったやり方で充たしてやる必要がある。
 試練塩を完成させるのは死んでからでいいし、完成しなくてもよい。

 そんなわけで現場でも会社でも家でも呑み屋でも、
 一見私は不真面目のように見えるかもしれないが、
 あるいはただの呑んだくれのように見えるかもしれないが、
 いや、実際それが当たってる可能性も高いが、
 それが私のアレグリアスでありレクイエムだったりする。


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 2012年2月29日(水)/その970◇蒼ざめる俺を見よ

 月曜は新宿で身体検査。

 検査の十時間前から、水も飲めないし物も食えない。
 じゃあ酒は呑み放題かと云えば、一適もダメだと云う。

 血圧を測るころは平和であるが、
 血を採られたりする頃から、段々と乱暴になってくる。
 仕上げはレントゲン撮影だが、ノーメイクの上に、照明もお粗末である。
 炭酸に次いでバリウムをごくごく呑むが、
 ハラが減ってるので一杯ではとても足りない。
 ぷはあっ、お代わり!と叫ぶヒマもなく、グルグル回される。
 
 はいっ、右に1回半まわってください。
 はいっ、こっち向いてー、
 あっ、手ー離しちゃダメ、落っこちちゃうから、
 ズラは落ちても支障ないからねー、
 そうそう、じゃあ、あっち向いて~
 はいっ、左に一回転、
 てな具合に、注文が矢継ぎ早でやたらめったら忙しいが、
 「ニッコリ笑って、はいチ~ズ」とはさすがに云われない。

 撮影は苦手というアルティスタもいるが、
 金を払った上で真摯にひーこら七転八倒するこの私の勇姿を見れば、
 多少は心を入れ替えてもらえるのではないかと思った。
 次回があるなら、そーゆー不心得者たちを引き連れて検査を受けよう。

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 2012年2月29日(水)/その971◇雪は降る

 雪は降る あなたは来ない


 由紀さおり(有名歌手)さんは降るのだろうか?
 小林由季(本誌執筆者)さんは降るのだろうか?
 大沼由紀(大物バイラオーラ)さんは降るのだろうか?
   
 雪が降るたびに、こんな疑問が湧くが、
 直接本人に尋ねることは出来ない。

 だが、ステージの大沼由紀さんに、
 何かが降りてるのを観たことはある。

                   
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 本日午前中、編集部小倉青年と私は、
 人生を優先し仕事はサボり、雪の駒込・六義園に直行。
 写真は小倉泉弥撮影。