この男の出自は何者かは分からない。
少なくも源氏の流れである筈はない。新田義貞の一族に得川と
いう名の男が居り、近衛前久という藤原北家の流れを継ぐ五家の
筆頭に頼んで、その得川の子孫だという出鱈目な家系図をでっち
上げて作ってもらった。
公家は位こそ高くても貧乏である。だから近衛前久に限らず、歴史書
を引っ張りだして家系図を作ってもらうことが、いわば流行りであった。
家康の家は、三河の山奥の田んぼなど全くない辺りに、他所から
流れてきた勧進坊主である。その流れ着いた場所の地名を用いて、
松平という姓を名乗っていた。
家康が信長に引き立ててもらう好運に恵まれて、四天王と呼ばれた家来
も持った。
その中の酒井家が、流れ者の勧進坊主の面倒を見てやったらしい。
勧進坊主とは、田舎の村で寺も無い場所で、村に葬式が出る場合、
死者を浄めて弔う仕事を引き受けることで、村に住むことを許された階層
を指していう言葉だ。
晩年の家康は、側近たちに自らの幼かった時代の話を聴かせたが、その中
で勧進坊主の出だと言ったと、幕臣の大久保彦左衛門が書き残した「三河
物語」にある。年老いてボケた家康が、正直に本当のことを言ったものと思う。
ともかく家康は源氏の流れの名門とは縁遠く、だから征夷大将軍となって
幕府を開く資格なぞ無かった男である。
思えば徳川幕府15代に、まともな者は一人として居ない。日本にとって不幸
な260年であった。
少なくも源氏の流れである筈はない。新田義貞の一族に得川と
いう名の男が居り、近衛前久という藤原北家の流れを継ぐ五家の
筆頭に頼んで、その得川の子孫だという出鱈目な家系図をでっち
上げて作ってもらった。
公家は位こそ高くても貧乏である。だから近衛前久に限らず、歴史書
を引っ張りだして家系図を作ってもらうことが、いわば流行りであった。
家康の家は、三河の山奥の田んぼなど全くない辺りに、他所から
流れてきた勧進坊主である。その流れ着いた場所の地名を用いて、
松平という姓を名乗っていた。
家康が信長に引き立ててもらう好運に恵まれて、四天王と呼ばれた家来
も持った。
その中の酒井家が、流れ者の勧進坊主の面倒を見てやったらしい。
勧進坊主とは、田舎の村で寺も無い場所で、村に葬式が出る場合、
死者を浄めて弔う仕事を引き受けることで、村に住むことを許された階層
を指していう言葉だ。
晩年の家康は、側近たちに自らの幼かった時代の話を聴かせたが、その中
で勧進坊主の出だと言ったと、幕臣の大久保彦左衛門が書き残した「三河
物語」にある。年老いてボケた家康が、正直に本当のことを言ったものと思う。
ともかく家康は源氏の流れの名門とは縁遠く、だから征夷大将軍となって
幕府を開く資格なぞ無かった男である。
思えば徳川幕府15代に、まともな者は一人として居ない。日本にとって不幸
な260年であった。
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