昨日の衆院本会議で、平沼赳夫がだらだらと喋ったのが、
備中松山藩の財政家、山田方谷についてであった。
備中松山藩は、秀吉の毛利攻めの際に、清水宗治が
立て籠もった高松城があった場所で、秀吉は水攻めで
城内の兵たちを苦しめる。
本能寺で信長が明智光秀に殺されたとの報に接し、
直ちに毛利方と講和を結び、大返しで兵を引き上げ
山崎山麓での明智との決戦の勝利して、信長後継の
資格を手にする。
現在は高梁と呼ばれ、観光客の訪問が多いと聞く。
ところで、備中松山藩は表高5万石の家であったが、
その実コメの収穫は1万9千石でしかなかった。
当然藩の財政は赤字になる。山田方谷は農家の
出身だと聞くが、幼少より学問に秀でて、在世再建の役を
命じられる。19世紀初頭の頃である。
明治政府が出来てから、大久保利通から大蔵大臣に
招聘されるが固辞したと伝えられている。
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