下町のパンを食べてみませんか?

千住、緑町ゆうやけ通り下町のパン屋パレット

選択

2008-11-26 23:15:46 | 夢見るお年頃
今月友人が転居しました。「それじゃまた、コッチに来たら顔見せてよ」と言って別れました。昔「来月バイク買うから一緒に行こうよ。旅行者の知らない北海道を案内するからさ」と笑顔で別れた友人が翌日永久の眠りについてしまったり「今度・・・」と言ってそれっきり連絡が途絶えて偶然消息を知ってお参りに行った経験もありますし転勤後に数十年続いていた年賀状がパタリと途絶えてそれっきりの同級生もいます。これからは予期せぬ別れの確率が増えても下がることは無い年齢になったような気がします。笑顔の短い会話が最後になったなんて大切な人ほど深くいつまでも心に残ります。そういえば水墨画の先生も突然でした。展覧会を観に行った時に親切に説明してくれて墨色の濃淡で描いた柿が色を着けた柿よりも柿色に見えた記憶や最近まったく足が遠のいた上野の通称キャバクラ通りを入って少し行った右側の膨大な種類とサイズの和紙や筆、岩絵具はじめ各種の日本画用の色や硯、墨等など何でも揃うからと先生に教えて頂きましたっけ。藝大のお膝元の上野には後から出来た店に囲まれてしまった老舗も多いような気がします。
母との別れもそうでした。大きな病気も長く寝込む事もなかった母との別れを突然宣告されたのは僕が高校生で弟が中学生の時でした。
もし誰かが選択の機会をくれたらなんて考える事があります。
A・時間が短くても母と一緒に暮らしたいか?
B・母を長生きさせてあげる代わりに母の記憶を消して「近所のおばさん」に魔法で母を換えてしまってもよいか?
即答するなら「近所のおばさん」になってしまっても母の長生きを望みます。
自分が我慢すれば母が母でなくなっても長生きできる・・・。
誰でも大切な人の命の長さを選択すると思います。
でもそれは嘘ではありませんが二者択一の場合であって正直な本心や望みではありません。
僕達兄弟が今日まで踏ん張ったり自分を支えてこられたのは短くても母のお蔭ですから時間の長さに関係なく感謝しています。
そう思うと我がままは承知でやっぱり「近所のおばさん」ではなく短くても「母」であってほしいと思うのです。近所のおばさんと違って母となれば怒ったり怒られたり心配したりされたり喜びや楽しさばかりではありませんし摩擦もあると思いますが喜怒哀楽の怒哀抜きの天国じゃありませからドロドロした関係も有ってこそ生きている証拠かも知れません。それでは正直な気持ちを言えば大切な人とは欲張りではありますが「怒哀入り喜楽のドロドロでもかまわないから長~い」のがAでもBでもない本音の希望ですね。どれを選択しても正解も誤りも無いと思いますが答えが有るとすれば自分の満足感だけだと思っています。パンは失敗しても思い通りにいかなくても自分に続ける意思があれば何度でも納得いくまで自分の判断でやり直せるところが好きなんですが納得いったら終わってしまうかも知れませんね。そこまで行けた時にはパン教室を開いて自分の得た知識を伝えたいと思っていますが人に伝えるにはマダマダ納得は得られませんね。
物事には色々な選択があって相手があれば相手の意思も尊重しなければなりませんが内容にかかわらず単に「長さ」を選択してしまったら嘘ではないにしろ正直な本心でも希望でもありませんから自分を嫌いになるかも知れませんね。