戦争は絶対ダメ
あまりにも重いので、できれば素通りしたかった。しかし、日本人として、沖縄旅行で避けて通れないのが、「ひめゆりの塔」。「塔」というからには、英語で言うと「タワー」さぞ、立派な慰霊碑かと思いきや…高さ、50cm程の小さなものでした。沖縄戦跡国定公園内、平和祈念公園のお隣にあります。
「ひめゆり学徒隊」を慰霊したもの…ひめゆり学徒隊とは…
「ひめゆり」…てっきりユリ科の多年生草本かと思っていた。違いました。60過ぎてもこのようなことすら知らない。恥ずかしいことです。
「ひめゆり学徒隊」のひめゆりは、沖縄県立第一高等女学校の校誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌「白百合」をあわせた造語ということでした。
1945年3月下旬・・・「ひめゆり学徒隊」240名(生徒222名、教職員18名)は、南風原の沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。
4月下旬・・・山の形が変わったと形容される程の激しい砲撃を受けた。
5月下旬・・・南風原の病院を放棄、生存者は南部へ撤退。地下壕に潜んだ。
6月18日・・学徒隊解散命令。解散と命令されても、地下壕から出ることは死を意味(実際、この後に亡くなった人が大多数)。
6月19日・・第三外科壕という壕が攻撃された。壕にいた96名のうち、91名が死亡。ひめゆりの塔は、この第三外科壕があったところに建てられている。
ひめゆり平和祈念資料館には、犠牲者の遺影や遺品が展示されています。また、第三外科壕が実物大で再現されていました。フィルム上映もありました。その中に、第三外科壕から生き延びた人の証言もありました。
「どうして生きていたのか分からない」と。
ひめゆり学徒隊が現在その名を知られていますが、ほかにも学徒隊があり、それぞれの所属校にちなんだ名称がついていました。
「ずいせん学徒隊」「しらうめ学徒隊」「せきとく学徒隊」「でいご学徒隊」…たくさんの女学生が従軍看護部隊として組織されておりました。その運命は、ひめゆり学徒隊と同様。それぞれに、慰霊碑が建てられています。
東京のある小学校は、6年生の修学旅行で、「ずいせん学徒隊(県立首里高等女学校)」が辿った道を、子供たちに追体験させている(20年以上継続というから、半端な気持ちで実施しているものではないことが分かります)。
コースは、今は地元の人も知らないといわれている、ナゲーラ壕、そして識名壕、最後に米須壕…壕は、洞窟が迷路のように広がっている。鍾乳洞ですから(沖縄の人は、ガマと呼ぶ)。そして、多くの遺骨が、まだ収集されずに残っている。壕の中で修学旅行の子供達は、「1分間の闇体験」もする。
同校では、エイサーの練習もさせている。写真で見るかぎり、大太鼓を11も持っている。衣装も、幟も立派。おそらく、依頼があれば出張演奏もしているでしょう。エイサーは、先祖供養の踊りです。
お仕着せに、田植えだけして「稲作体験しています」などと言い出す学校がある中で、自分の足で沖縄を歩き、戦争の悲惨さを学び、エイサーで「ニライカナイ」におられる人々を供養する。この流れで、「戦争反対の教育」をする。筋が通った教育をしていると思います。
イスラエルの外務大臣が、「終わりなき戦い」と、言っていました。自分たちも分かっているのです。終わりがないことを。今、現在も…イスラエル、ガザ゛地区には、「どうして生きていたのか分からない」という人たちが、たくさんいる…。
日本政府も、政権争いをしていないで、「戦争止めろ」と介入してほしい。 麻生さんでも、小沢さんでも、石破さんでも、田母神さんでもいいから、「イスラエルも止めろ、ハマスも止めろ。遠いアジアの国だが、戦争で学徒の命を散らしてしまった国としてお願いする」と。現実は、政権を守りたい党と、政権がほしい党の争い。双方二言目には「国民のため」。
平和祈念資料館でのフィルム上映のあと、最期まで席を立たなかった沖縄の人と見られる75歳ぐらいの男性が、怖い形相で憎々しげに吐き捨てました…
「憲法9条…」
あまりにも重いので、できれば素通りしたかった。しかし、日本人として、沖縄旅行で避けて通れないのが、「ひめゆりの塔」。「塔」というからには、英語で言うと「タワー」さぞ、立派な慰霊碑かと思いきや…高さ、50cm程の小さなものでした。沖縄戦跡国定公園内、平和祈念公園のお隣にあります。
「ひめゆり学徒隊」を慰霊したもの…ひめゆり学徒隊とは…
「ひめゆり」…てっきりユリ科の多年生草本かと思っていた。違いました。60過ぎてもこのようなことすら知らない。恥ずかしいことです。
「ひめゆり学徒隊」のひめゆりは、沖縄県立第一高等女学校の校誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌「白百合」をあわせた造語ということでした。
1945年3月下旬・・・「ひめゆり学徒隊」240名(生徒222名、教職員18名)は、南風原の沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。
4月下旬・・・山の形が変わったと形容される程の激しい砲撃を受けた。
5月下旬・・・南風原の病院を放棄、生存者は南部へ撤退。地下壕に潜んだ。
6月18日・・学徒隊解散命令。解散と命令されても、地下壕から出ることは死を意味(実際、この後に亡くなった人が大多数)。
6月19日・・第三外科壕という壕が攻撃された。壕にいた96名のうち、91名が死亡。ひめゆりの塔は、この第三外科壕があったところに建てられている。
ひめゆり平和祈念資料館には、犠牲者の遺影や遺品が展示されています。また、第三外科壕が実物大で再現されていました。フィルム上映もありました。その中に、第三外科壕から生き延びた人の証言もありました。
「どうして生きていたのか分からない」と。
ひめゆり学徒隊が現在その名を知られていますが、ほかにも学徒隊があり、それぞれの所属校にちなんだ名称がついていました。
「ずいせん学徒隊」「しらうめ学徒隊」「せきとく学徒隊」「でいご学徒隊」…たくさんの女学生が従軍看護部隊として組織されておりました。その運命は、ひめゆり学徒隊と同様。それぞれに、慰霊碑が建てられています。
東京のある小学校は、6年生の修学旅行で、「ずいせん学徒隊(県立首里高等女学校)」が辿った道を、子供たちに追体験させている(20年以上継続というから、半端な気持ちで実施しているものではないことが分かります)。
コースは、今は地元の人も知らないといわれている、ナゲーラ壕、そして識名壕、最後に米須壕…壕は、洞窟が迷路のように広がっている。鍾乳洞ですから(沖縄の人は、ガマと呼ぶ)。そして、多くの遺骨が、まだ収集されずに残っている。壕の中で修学旅行の子供達は、「1分間の闇体験」もする。
同校では、エイサーの練習もさせている。写真で見るかぎり、大太鼓を11も持っている。衣装も、幟も立派。おそらく、依頼があれば出張演奏もしているでしょう。エイサーは、先祖供養の踊りです。
お仕着せに、田植えだけして「稲作体験しています」などと言い出す学校がある中で、自分の足で沖縄を歩き、戦争の悲惨さを学び、エイサーで「ニライカナイ」におられる人々を供養する。この流れで、「戦争反対の教育」をする。筋が通った教育をしていると思います。
イスラエルの外務大臣が、「終わりなき戦い」と、言っていました。自分たちも分かっているのです。終わりがないことを。今、現在も…イスラエル、ガザ゛地区には、「どうして生きていたのか分からない」という人たちが、たくさんいる…。
日本政府も、政権争いをしていないで、「戦争止めろ」と介入してほしい。 麻生さんでも、小沢さんでも、石破さんでも、田母神さんでもいいから、「イスラエルも止めろ、ハマスも止めろ。遠いアジアの国だが、戦争で学徒の命を散らしてしまった国としてお願いする」と。現実は、政権を守りたい党と、政権がほしい党の争い。双方二言目には「国民のため」。
平和祈念資料館でのフィルム上映のあと、最期まで席を立たなかった沖縄の人と見られる75歳ぐらいの男性が、怖い形相で憎々しげに吐き捨てました…
「憲法9条…」
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