「筑後川の戦い」…高校日本史、南北朝時代のところで出てくる。ちょうど650年前、筑後川をはさんで南北朝が戦った。南朝勢は40,000人、北朝勢は60,000人…この戦、南朝が勝利。戦死者は、両軍合わせて、26,000人。関ヶ原の戦死者は2,200人といわれていますから、どれほどすさまじい戦いだったことか!
「筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ感じて作有り」というタイトルの漢詩を頼山陽が詠っています。タイトルには、「菊池正観」となっていますが、詩の中では、「菊池武光」となっています。もちろん、同一人物です。菊池武光は、南朝側の征西大将軍「懐良親王」を擁護して戦った武将。
頼山陽は、筑後川の戦いから400年以上も経ってから、筑後川を訪れ詩を詠んだ。よほど感動したのでしょう。なにしろ、戦死者26,000人ですから。
この戦いに勝って、菊池武光は太刀についた血を築後川で洗った。その場所が、大刀洗(たちあらい)と、呼ばれ現在も、「福岡県三井郡大刀洗町」としてその名前が残っている。(太刀が大刀になったのは、役場職員が「点」を抜かしてしまったから。本当ですよ。個人の名前でも、「達」を役場戸籍係が間違えて、下の横三本を二本にしたり、「考」と「孝」を間違えたり。戸籍に載ってしまうと、その字が正式な字になるわけで…)
大刀洗には、東洋一といわれた広大な飛行場がありました。日本陸軍が誇る西日本最大の航空拠点でした。そこでは多くの若者たちが「大空への夢」を目指して青春の熱き血をたぎらせながら汗を流し、周辺地域もこの飛行場とともに大きく育ち、発展・繁栄していきました。
しかし、昭和20年(1945年)3月27日、米軍機が大刀洗飛行場を空襲、下校中の児童31人も巻き添えで命を失った。民間人も、もちろん子供も巻き添えになるのが戦争なのです。だから戦争は、なくさなければならないのです。
昨秋、大刀洗平和記念館(筑前町)がオープン。厳密に書くと、有志の方が23年前に、甘木鉄道太刀洗駅の駅舎を改造して、資料館を開館させた。筑前町はこの地道な活動に動かされて新しく記念館を建設したというわけ。いわば、リニューアルオープンといったところ。
「知覧」の方が知名度が高いかと思いますが、知覧はあくまで大刀洗飛行学校の分校でした。
大刀洗平和記念館…陳列品は、それほど多くはありません。遺書関係もあるにはあるが、知覧に比べるとはるかに少ない。そんな中、「ゼロ戦」と「九七式戦闘機」が目を惹く。
「ゼロ戦」は、翼の日の丸を「ゼロ」に見立てて、「ゼロ戦」と呼ぶと思っている人が意外に多い。実際は、紀元2600年(昭和15年)製造なので、末尾の零から「零式戦闘機」と名づけられた。これが、通称「ゼロ戦」となっている。九七式は、紀元2597年製造なので、九七式戦闘機。「紀元」については…神武天皇から数えて…そのあたり知る人が減っています…。今年、平成22年(2010年)は、紀元2670年です。
「この地で起きた歴史の真実と、平和の大切さを、国を背負って立つべき青少年に永久に語り継いでいくために」これが、筑前町立大刀洗平和記念館のコンセプト。
650年前に、10万の兵が戦い、26,000人が命を失った地。60数年前に、若者が「特攻」で死へ向かって飛び立った地。大刀洗は、平和のありがたさを感じる地です。「戦争のない時代にいる今の幸せ」は、日常生活で感じることなどありません。しかし、どこかで誰かが語り継いでいかなければなりません。その意味でも、大刀洗平和記念館の存在は価値あるものかと。
「筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ感じて作有り」というタイトルの漢詩を頼山陽が詠っています。タイトルには、「菊池正観」となっていますが、詩の中では、「菊池武光」となっています。もちろん、同一人物です。菊池武光は、南朝側の征西大将軍「懐良親王」を擁護して戦った武将。
頼山陽は、筑後川の戦いから400年以上も経ってから、筑後川を訪れ詩を詠んだ。よほど感動したのでしょう。なにしろ、戦死者26,000人ですから。
この戦いに勝って、菊池武光は太刀についた血を築後川で洗った。その場所が、大刀洗(たちあらい)と、呼ばれ現在も、「福岡県三井郡大刀洗町」としてその名前が残っている。(太刀が大刀になったのは、役場職員が「点」を抜かしてしまったから。本当ですよ。個人の名前でも、「達」を役場戸籍係が間違えて、下の横三本を二本にしたり、「考」と「孝」を間違えたり。戸籍に載ってしまうと、その字が正式な字になるわけで…)
大刀洗には、東洋一といわれた広大な飛行場がありました。日本陸軍が誇る西日本最大の航空拠点でした。そこでは多くの若者たちが「大空への夢」を目指して青春の熱き血をたぎらせながら汗を流し、周辺地域もこの飛行場とともに大きく育ち、発展・繁栄していきました。
しかし、昭和20年(1945年)3月27日、米軍機が大刀洗飛行場を空襲、下校中の児童31人も巻き添えで命を失った。民間人も、もちろん子供も巻き添えになるのが戦争なのです。だから戦争は、なくさなければならないのです。
昨秋、大刀洗平和記念館(筑前町)がオープン。厳密に書くと、有志の方が23年前に、甘木鉄道太刀洗駅の駅舎を改造して、資料館を開館させた。筑前町はこの地道な活動に動かされて新しく記念館を建設したというわけ。いわば、リニューアルオープンといったところ。
「知覧」の方が知名度が高いかと思いますが、知覧はあくまで大刀洗飛行学校の分校でした。
大刀洗平和記念館…陳列品は、それほど多くはありません。遺書関係もあるにはあるが、知覧に比べるとはるかに少ない。そんな中、「ゼロ戦」と「九七式戦闘機」が目を惹く。
「ゼロ戦」は、翼の日の丸を「ゼロ」に見立てて、「ゼロ戦」と呼ぶと思っている人が意外に多い。実際は、紀元2600年(昭和15年)製造なので、末尾の零から「零式戦闘機」と名づけられた。これが、通称「ゼロ戦」となっている。九七式は、紀元2597年製造なので、九七式戦闘機。「紀元」については…神武天皇から数えて…そのあたり知る人が減っています…。今年、平成22年(2010年)は、紀元2670年です。
「この地で起きた歴史の真実と、平和の大切さを、国を背負って立つべき青少年に永久に語り継いでいくために」これが、筑前町立大刀洗平和記念館のコンセプト。
650年前に、10万の兵が戦い、26,000人が命を失った地。60数年前に、若者が「特攻」で死へ向かって飛び立った地。大刀洗は、平和のありがたさを感じる地です。「戦争のない時代にいる今の幸せ」は、日常生活で感じることなどありません。しかし、どこかで誰かが語り継いでいかなければなりません。その意味でも、大刀洗平和記念館の存在は価値あるものかと。
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