先日、古書店でこんな本を買ったので読んでいる。
ふーん、なるほどなあ、と。
ふーん、なるほどなあ、と。
ふっと思った。
この本の中にはヒンドゥー教を源泉とする言葉が多く書かれている。日本だとヒンドゥー教徒はあまりいないのでこの本はヒンドゥー教徒向けの本というわけではない。考えてみれば日本にはイスラム教やキリスト教やユダヤ教やその他にも自分たちの宗教とは全く関係ない宗教源泉の本はいくらでもある。それを我々は普通に買って読むが、その事に全く違和感を感じない。
こういう状態って特殊なのだろうか?欧米人も最近は禅や仏教を源泉とする活動をしていたりはするので全く無いわけじゃないだろうけれど、どうなのだろう?
ヒンドゥー教の言葉を読んで教義とは関係なく納得したり感銘を受けたりするが、ヒンドゥー教徒なることはない。同じようにイスラム教のお話を読むがイスラム教徒になるどころかイスラム教に詳しくなるわけではない。単に言葉として理解しているに過ぎない。
どうなのだろう?こういうのは特殊な感覚なのだろうか?もしもっと熱心な仏教徒だったり神道の信者だったらそもそもヒンドゥー教の匂いのする本など手に取らないだろうか?