温泉クンの旅日記

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鎌倉大仏、美男におはす

2020-06-21 | 鎌倉点描
  <鎌倉大仏、美男におはす>

(せっかくだ、ついでに大仏にも寄って行くとするか・・・)
 オッといけない、“ついでに”とは余計なヒトこと、いかにも不遜だったか。
 とにかく長谷に来て観音様だけでは片手落ちというものだ。県道まで戻り、左に、駅とは逆方向に歩けば高徳院はすぐそこである。

 

 鎌倉のシンボルともいうべき「鎌倉大仏(または『長谷大仏』)」で知られる寺院「高徳院」は、正しくは「大異山 高徳院 清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」という。

 仁王門の脇にある券売所で拝観料(300円)を払い、感染防止のため一時的に使えないようにされた手水舎の前を通って左手に曲がると、正面にドーンと大仏様が現れる。

 

 いつもなら、うようよ・うじゃうじゃ・わんさといる外国人観光客もカップル客もまったくおらず、大仏様とわたしだけ、といった感じ。

 

 きれいさっぱり無人でガッラーンとした空間、こんな日って、滅多にないぞ。

 

 大仏は源頼朝の意思を継いだ侍女稲多局が発起し、僧浄光が勧進し建立されたと伝えられている。寛元元年(1243年)に建立した最初の大仏は木造だった。暴風雨で倒壊、建長四年(1252年)に金剛の大仏の造営を始めるがいつ完成したかは不明である。

 大仏といえば奈良は「蘆舎那仏(るしゃなぶつ)坐像」で、こちらの鎌倉の大仏は「阿弥陀仏坐像」だ。
 像の高さと重さは、台座をあわせて鎌倉が約13メートル強で121トン、奈良は約18メートルで250トンと鎌倉のほうが小ぶりだ。補修が多い奈良の大仏に比べて鎌倉の大仏は、造像当初の姿を見事に保っている。

 

 優しい表情と切れ長の伏し目で訪れる参拝客を見守っている。いまは緑青に覆われているが、当初大仏の表面には金箔で眩いほどに輝いていたという。
 もともとは大仏殿に安置されていたのだが、大地震と津波で殿は倒壊、それ以来露坐つまりずっと野ざらし状態となっている。

 

 仏の手の形を「印相」と呼び、その一つ一つに意味が込められている。
 奈良大仏の右手は中指を軽く曲げて挨拶するように胸前に上げられている「施無畏印(せむいいん)」で「畏(おそ)れることはない」という意味で、左手は中指と薬指を軽く上げて掌を上向きにしている「与願印(よがんいん)」といい「願いを叶える」という意味がある。

 

 鎌倉の大仏の結ぶ印は、組まれた脚の上に両手を組み合わせたもので、上品上生印、もしくは弥陀定印といい、最高の悟りの状態であることを表している阿弥陀如来の印相である。

 少し丸めた広い背中に開いた小窓が二つあるが、完成後に中の土をこの窓の部分から搬出したと考えられているという。

 

 胎内めぐりといって、大仏の内部に別途料金(20円)を払えば入ることができるが、暗くて狭いところは先ほどの長谷観音の弁天窟でもうコリゴリ、あっさりパスすることにした。

 

 回廊の裏にある「観月堂」方面に寄ってみる。

 

 拝観をすませた数人が屯していた観月堂脇には、与謝野晶子が大仏を拝観して残したといわれる一首の歌碑があった。
 夫の鉄幹を一途に愛し続けた情熱の歌人与謝野晶子は、旅好きで無類の温泉好きでもあるから、鉄幹とともに全国の温泉地を訪ねている。だからあちこちで歌(歌碑)に巡りあう。

   かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな


 

 鎌倉大仏は“阿弥陀如来”なのに“釈迦牟尼(釈迦如来)”と間違っているが、「仏なれども大仏は」では仏という字が重なるし、歌として三文の価値もない、原作のままでいいんだ、と川端康成や吉野秀雄はいっている。

 わたしは女性ではないので大仏様を“美男”と思う感性を持てないが、今日の拝観は途方もない僥倖、大満足だった。
 高徳院へは江ノ電長谷駅から歩くのが便利で楽ちんだが、源氏山から大仏までハイキングコースがあるので、足に自信があって季節を選べばなかなかに良さそうである。



  →「長谷観音(長谷寺)」の記事はこちら
  →「四万温泉 温泉三昧の宿(2)」の記事はこちら
  →「源氏山から銭洗弁天(1)」の記事はこちら
  →「源氏山から銭洗弁天(2)」の記事はこちら

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