<京都・一乗寺、詩仙堂(2)>
詩仙堂だが、1986年(昭和61年)に英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が訪問されたことでも有名で、堂内にはその際の記念写真も飾られている。(詩仙堂の堂内は撮影が禁止されているので、ご注意を)
外履きのサンダルを穿いて庭に降りる。さあて、ここからは撮影が自由にできる。しかも独り占めでの満喫、ときたもんだ。
詩仙堂の中心となる建物は「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれる。
なんでも、「でこぼこした土地(山の斜面)に建てた住居」という意味だそうで、実際に回遊式庭園をたっぷり散策すると、なるほど斜面の土地だと納得する。
堂上の<楼>の部分は「嘯月楼(しょうげつろう)」といい、玄関の上の三階部分で、建物の中から紅葉が眺められるそうだ。
右手遠くに見える建物は茶室「残月軒」だろうか。
庭の周りには「十方明峰閣」とか坐禅堂とか建物が散在しているが、茶室を含めいずれも入ることはできない。
庭園造りの名人でもある丈山自身により設計された庭園「百花塢(ひゃっかのう)」は四季折々に楽しむことができる。
春は皐月や霧島躑躅に菖蒲や青もみじ、夏は花菖蒲や蛍袋や京鹿の子、秋は千両や万両に芒や秋明菊、そして冬は静寂の雪景色など、四季折々の風景を観賞できる。
庭の一遇には“丈山”考案の、詩仙堂が発祥と言われる「僧都(読みは”そうず”、“添水”ともいう)」がある。
一定の“間”で竹筒が石を打ち叩き、「コーン」と、わたし独りきりの静寂の庭園に澄んだ音が快く響きわたる。
詩仙堂が建てられた場所は山の麓、夜中に出没するイノシシや鹿を追い払うため、この地で実用的な道具「僧都」が考案された。
その「僧都」という名付けについてはこんな話がある。
奈良時代から平安時代にかけて、「玄賓僧都(げんびんそうず)」という高僧がいた。
玄賓は名声を嫌い、奈良を出て丹波や備中の田舎を転々とする。世間では山田を転々とする玄賓僧都の事を「山田僧都」と呼ぶようになる。
備中・湯川寺に滞在していた「山田僧都」は、収穫の秋になると農夫のいでたちで雀や烏を追い払って、農民たちに感謝された。「山田の案山子(かかし)」とは、案山子役を引き受けてくれた「山田僧都」の事を農民たちが親しみを込めて呼んだという。
この故事により、鹿や狸を追うこの<道具>を「玄賓僧都」の陰徳を偲んで「僧都」と名付けた。
なお現在では通称で「ししおどし」ともよくいうが、それはずっと後年の、昭和32年代に苔寺で同じものが作られ「鹿おどし」と表示されて、拝観者が多かった苔寺での呼び名が一般化したのだという。
― 続く ―
→「京都・一乗寺、詩仙堂(1)」の記事はこちら
詩仙堂だが、1986年(昭和61年)に英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が訪問されたことでも有名で、堂内にはその際の記念写真も飾られている。(詩仙堂の堂内は撮影が禁止されているので、ご注意を)
外履きのサンダルを穿いて庭に降りる。さあて、ここからは撮影が自由にできる。しかも独り占めでの満喫、ときたもんだ。
詩仙堂の中心となる建物は「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれる。
なんでも、「でこぼこした土地(山の斜面)に建てた住居」という意味だそうで、実際に回遊式庭園をたっぷり散策すると、なるほど斜面の土地だと納得する。
堂上の<楼>の部分は「嘯月楼(しょうげつろう)」といい、玄関の上の三階部分で、建物の中から紅葉が眺められるそうだ。
右手遠くに見える建物は茶室「残月軒」だろうか。
庭の周りには「十方明峰閣」とか坐禅堂とか建物が散在しているが、茶室を含めいずれも入ることはできない。
庭園造りの名人でもある丈山自身により設計された庭園「百花塢(ひゃっかのう)」は四季折々に楽しむことができる。
春は皐月や霧島躑躅に菖蒲や青もみじ、夏は花菖蒲や蛍袋や京鹿の子、秋は千両や万両に芒や秋明菊、そして冬は静寂の雪景色など、四季折々の風景を観賞できる。
庭の一遇には“丈山”考案の、詩仙堂が発祥と言われる「僧都(読みは”そうず”、“添水”ともいう)」がある。
一定の“間”で竹筒が石を打ち叩き、「コーン」と、わたし独りきりの静寂の庭園に澄んだ音が快く響きわたる。
詩仙堂が建てられた場所は山の麓、夜中に出没するイノシシや鹿を追い払うため、この地で実用的な道具「僧都」が考案された。
その「僧都」という名付けについてはこんな話がある。
奈良時代から平安時代にかけて、「玄賓僧都(げんびんそうず)」という高僧がいた。
玄賓は名声を嫌い、奈良を出て丹波や備中の田舎を転々とする。世間では山田を転々とする玄賓僧都の事を「山田僧都」と呼ぶようになる。
備中・湯川寺に滞在していた「山田僧都」は、収穫の秋になると農夫のいでたちで雀や烏を追い払って、農民たちに感謝された。「山田の案山子(かかし)」とは、案山子役を引き受けてくれた「山田僧都」の事を農民たちが親しみを込めて呼んだという。
この故事により、鹿や狸を追うこの<道具>を「玄賓僧都」の陰徳を偲んで「僧都」と名付けた。
なお現在では通称で「ししおどし」ともよくいうが、それはずっと後年の、昭和32年代に苔寺で同じものが作られ「鹿おどし」と表示されて、拝観者が多かった苔寺での呼び名が一般化したのだという。
― 続く ―
→「京都・一乗寺、詩仙堂(1)」の記事はこちら
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