姜輝鮮先生の追悼式と追悼公演を行ってから早 2週間が過ぎ去りました。4月5日の新報電子版に掲載されました随筆を掲載させていただきますね。
入口のお迎えの花です。
会場のお迎えの花です。
「朝鮮舞踊に生涯を捧げた姜輝鮮先生を偲んで」
ニョニョ
去る3月31日午後6時より大阪阿倍野区民センター大ホールにて、朝鮮舞踊家 姜輝鮮先生の追悼式及び追悼公演が行われた。
昨年の1月11日、余りにも突然に旅立たれた姜先生を偲んで教え子や「舞踊団ナルセ」の皆さんが準備した催しには300名近い方々が列席してくださった。
1部追悼式では、黙祷の後、略歴が紹介され、三人の研究生が心のこもった作文を朗読した。申侑知(東中)の「永遠の私の先生」、金紗祐(東中)の「電車ごっこ」、河侑奈(京都中高)の「人生の師匠」。どの作文にも先生の厳しくも慈愛に満ちた人となりが綴られ「…先生は朝鮮人としての誇り、舞踊に対する愛、生きていく上での大切なことを教えて下さった…」と涙をこらえ朗読した。
生涯、家庭を持たず、家庭的にも恵まれなかった先生にとって、教え子たちは実の子であり実の孫であった。通夜、告別式,49日法要、樹木葬も全て「舞踊団ナルセ」、教え子たち、保護者が心一つにして執り行った。
49日法要の日、統国寺の崔スニムがおっしゃったように教え子たちの力でこんな大きな事を全て立派にやり遂げると言う事は並大抵のことではないと思う。
ウリハッキョの在校生はもとより、日本の学校に通いながら研究所に長年通っていた研究生たちにとって先生との出会いは人生の転機そのものであったようだ。こんなに温かい心を持った教え子たちに囲まれた先生の人生は決して寂しいものではなかったと確信している。
2歳の時から30数年研究所に通い続けたある方は、34回行われた研究所の発表会に抜けたのは1回だけだったそうだ。
民族教育を受けることは出来なかったけど先生の研究所に通う事が自分にとってのウリハッキョだったと回想する。
今回の追悼式と追悼公演を企画したのは先生が自ら作られた舞踊団ナルセの皆さんだが、映像、パンフレット、字幕づくり等すべてを担当したばかりか、案内状の発送、追悼式の式順、演目も考え、3か月間、毎週日曜日には出演者たちの技術指導も受け持ち精力的に動いてきた。
1.朝鮮人形 春香伝
2、セナップとサンモ
3、ムダンチュム(巫女の舞)
4、映像と詩の朗読 「あなたのアリラン」
그대의 《아리랑》
ニョニョ
태여나 처음 아버지가 마련해주신
분홍색 저고리가 너무 좋아서
무대가 좁아라 빙빙 돌던 그날부터
예순해를 쌓아올린 그대의 무용인생
《다음 발표회에선 반드시
<나의 아리랑>을 춤추겠어요┅》
마지막 약속을 지키지 못한채
우리곁을 갑자기 떠나간 그대
영상으로만 보는 그대의 《아리랑》
새하얀 치마저고리에 흰 천 날리며
민족수난의 력사와 더불어
자신이 걸어온 삶의 자욱자욱을
《아리랑》에 담아 춤추던 그대
다리가 뜻대로 움직이지 않다고
우아하게 못춘다고 쓴웃음 지었건만
그대의 《아리랑》엔 깃들어있어라
하나되길 바라는 절절한 소원이
오끼나와의 파아란 바다가에서
일본학교 강당이며 무대에서
아메리카며 연변의 해외동포앞에서
꿈결에도 그리던 고향 제주도에서
그대가 춤춘 《아리랑》은
백의민족의 기상을 보여주고
우리 민족이 하나가 되여야 함을
말없이 우리에게 깨우쳐주었어라
“춤추자,나래펴라 하나될 그날까지”
한평생 내건 그대의 구호는
제자들의 가슴에 고이 이어졌거니
환희의 날 맞이하고야 말 그대의 웨침
┅어디에 있느냐 아리랑고개
우리 마음속에 있는 희망의 고개
통일의 고개를 넘어갑니다
그대의 《아리랑》과 영원히 함께
あなたの《アリラン》
ニョニョ
初めてアボジが買ってくれた
ピンクのチョゴリが余りにも嬉しくて
舞台狭しと跳びはねたその日から
60年もの間積み上げたあなたの舞踊人生
《次の発表会では必ず
<私のアリラン>を踊るわ┅》
最後の約束も果たせないまま
突然去ってしまったあなた
映像だけで見るあなたの《アリラン》
真っ白なチマチョゴリに真っ白なショール
民族受難の歴史と
共に歩んできた人生の足跡を
《アリラン》に込めて舞っていたあなた
足腰が弱くなったと
優雅に踊れないと苦笑いしていたけど
あなたの《アリラン》には宿っていた
ひとつになることを願った切なる想いが
沖縄の真っ青な海辺で
日本学校の講堂や舞台で
米州や延辺の海外同胞の前で
夢にも焦がれていた故郷―済州島で
あなたが踊った《アリラン》は
白衣民族の気概を示し
わが民族はひとつであらねばと
ただ黙って私たちを諭してくれた
“舞う、舞いあがれ ひとつになるまで”
生涯をかけたあなたのメッセージは
教え子たちにそのまま引き継がれ
歓喜の日を迎えんとする心の叫びがこだまする
┅どこにあるの アリラン峠
私たちの心の中にある希望の峠
統一への峠を越えていきます
あなたの《アリラン》と永久に
5.群舞 「兄弟星」
今回の演目の最後を飾ったのは、祖国統一への想いを大空に輝くお星さまに託して姜先生が創作された群舞「兄弟星」だった。私は演目の紹介を終え舞台の袖から彼女たちの踊る姿を見ながら、込み上げるものを押し殺すことができなかった。
群舞「兄弟星」は今まで何回も披露された作品だが、今回の衣装は真っさらだった。葬儀の後、先生の荷物を整理していたとき、衣装箱にきれいに収められていた20着もの新しい衣装を発見した舞踊団の皆さんは驚きを隠せなかったそうだ。先生が次の35回目の公演の構想と準備をすでにしていたとは…
群舞「兄弟星」は先生が新たに作って下さった衣装と共に、祖国統一を願い続けた先生の意志を継いでいかんとする研究生たちの決意の表明になった。
最後のご挨拶
(最後になった34回目の発表会での姜先生)
先生の写真の前で
追悼式に来られた陶山喜代子さんは「先生の踊りの中に込められた”舞う、舞いあがれ!ひとつになるまで“の想いを映像の中に、舞の中に沢山感じました。きっと先生の想いは生徒さんに引き継がれ、絶えることなく実現されていくことでしょう…素敵な追悼公演でした」と感想を寄せてくださった。
秦勝元さんは「…統一、民族の祈願のため自分ができること、やるべきことを姜輝鮮先生は生涯をかけてなさったんだと感銘を受けました。今一つは、受け継ぐ、受け継がれることの大切さも感じました…」と語られた。
15才の時、大阪朝高の舞踊部員として先生に出会ってから半世紀余り、先生をある時は近くで、ある時は遠くで見続けてきた私だが、先生亡き後、先生の素晴らしさを再認識したように思う。
朝鮮舞踊を通じて祖国の統一に寄与しようと、唯一その想いで半世紀を駆け抜けてきた舞踊家!思想や所属団体の違いを乗り越え、誰にでも手を差し伸べ、ウリハッキョに通えなかった生徒たちの胸にも舞踊を通じて民族の誇りや自負心を育てて来られた先生!最後になってしまった34回目の発表会の準備期間、日に日に痩せていく先生に食欲が戻ってくれることを願ってピクルスを作って持っていったら「美味しい、美味しい」を連発された先生、研究所に行くたび「ピクルスある?」と恥ずかしそうに聞かれた童女の様な先生…
今まで影マイクに徹してきた私だが、今回だけは民族衣装を着て司会進行をし、先生の在りし日の映像に合わせ、舞台下手で自作詩を朗読した。
”舞う、舞いあがれ!ひとつになるまで“
私の脳裏に焼き付いたこのスローガンを、舞踊団ナルセの皆さんと共に生涯掲げていこうと思う。
舞台監督もご一緒に(写真提供は主に秦勝元さん)
4月16日の朝鮮新報5面に掲載されました。コマッスムニダ❣️
入口のお迎えの花です。
会場のお迎えの花です。
「朝鮮舞踊に生涯を捧げた姜輝鮮先生を偲んで」
ニョニョ
去る3月31日午後6時より大阪阿倍野区民センター大ホールにて、朝鮮舞踊家 姜輝鮮先生の追悼式及び追悼公演が行われた。
昨年の1月11日、余りにも突然に旅立たれた姜先生を偲んで教え子や「舞踊団ナルセ」の皆さんが準備した催しには300名近い方々が列席してくださった。
1部追悼式では、黙祷の後、略歴が紹介され、三人の研究生が心のこもった作文を朗読した。申侑知(東中)の「永遠の私の先生」、金紗祐(東中)の「電車ごっこ」、河侑奈(京都中高)の「人生の師匠」。どの作文にも先生の厳しくも慈愛に満ちた人となりが綴られ「…先生は朝鮮人としての誇り、舞踊に対する愛、生きていく上での大切なことを教えて下さった…」と涙をこらえ朗読した。
生涯、家庭を持たず、家庭的にも恵まれなかった先生にとって、教え子たちは実の子であり実の孫であった。通夜、告別式,49日法要、樹木葬も全て「舞踊団ナルセ」、教え子たち、保護者が心一つにして執り行った。
49日法要の日、統国寺の崔スニムがおっしゃったように教え子たちの力でこんな大きな事を全て立派にやり遂げると言う事は並大抵のことではないと思う。
ウリハッキョの在校生はもとより、日本の学校に通いながら研究所に長年通っていた研究生たちにとって先生との出会いは人生の転機そのものであったようだ。こんなに温かい心を持った教え子たちに囲まれた先生の人生は決して寂しいものではなかったと確信している。
2歳の時から30数年研究所に通い続けたある方は、34回行われた研究所の発表会に抜けたのは1回だけだったそうだ。
民族教育を受けることは出来なかったけど先生の研究所に通う事が自分にとってのウリハッキョだったと回想する。
今回の追悼式と追悼公演を企画したのは先生が自ら作られた舞踊団ナルセの皆さんだが、映像、パンフレット、字幕づくり等すべてを担当したばかりか、案内状の発送、追悼式の式順、演目も考え、3か月間、毎週日曜日には出演者たちの技術指導も受け持ち精力的に動いてきた。
1.朝鮮人形 春香伝
2、セナップとサンモ
3、ムダンチュム(巫女の舞)
4、映像と詩の朗読 「あなたのアリラン」
그대의 《아리랑》
ニョニョ
태여나 처음 아버지가 마련해주신
분홍색 저고리가 너무 좋아서
무대가 좁아라 빙빙 돌던 그날부터
예순해를 쌓아올린 그대의 무용인생
《다음 발표회에선 반드시
<나의 아리랑>을 춤추겠어요┅》
마지막 약속을 지키지 못한채
우리곁을 갑자기 떠나간 그대
영상으로만 보는 그대의 《아리랑》
새하얀 치마저고리에 흰 천 날리며
민족수난의 력사와 더불어
자신이 걸어온 삶의 자욱자욱을
《아리랑》에 담아 춤추던 그대
다리가 뜻대로 움직이지 않다고
우아하게 못춘다고 쓴웃음 지었건만
그대의 《아리랑》엔 깃들어있어라
하나되길 바라는 절절한 소원이
오끼나와의 파아란 바다가에서
일본학교 강당이며 무대에서
아메리카며 연변의 해외동포앞에서
꿈결에도 그리던 고향 제주도에서
그대가 춤춘 《아리랑》은
백의민족의 기상을 보여주고
우리 민족이 하나가 되여야 함을
말없이 우리에게 깨우쳐주었어라
“춤추자,나래펴라 하나될 그날까지”
한평생 내건 그대의 구호는
제자들의 가슴에 고이 이어졌거니
환희의 날 맞이하고야 말 그대의 웨침
┅어디에 있느냐 아리랑고개
우리 마음속에 있는 희망의 고개
통일의 고개를 넘어갑니다
그대의 《아리랑》과 영원히 함께
あなたの《アリラン》
ニョニョ
初めてアボジが買ってくれた
ピンクのチョゴリが余りにも嬉しくて
舞台狭しと跳びはねたその日から
60年もの間積み上げたあなたの舞踊人生
《次の発表会では必ず
<私のアリラン>を踊るわ┅》
最後の約束も果たせないまま
突然去ってしまったあなた
映像だけで見るあなたの《アリラン》
真っ白なチマチョゴリに真っ白なショール
民族受難の歴史と
共に歩んできた人生の足跡を
《アリラン》に込めて舞っていたあなた
足腰が弱くなったと
優雅に踊れないと苦笑いしていたけど
あなたの《アリラン》には宿っていた
ひとつになることを願った切なる想いが
沖縄の真っ青な海辺で
日本学校の講堂や舞台で
米州や延辺の海外同胞の前で
夢にも焦がれていた故郷―済州島で
あなたが踊った《アリラン》は
白衣民族の気概を示し
わが民族はひとつであらねばと
ただ黙って私たちを諭してくれた
“舞う、舞いあがれ ひとつになるまで”
生涯をかけたあなたのメッセージは
教え子たちにそのまま引き継がれ
歓喜の日を迎えんとする心の叫びがこだまする
┅どこにあるの アリラン峠
私たちの心の中にある希望の峠
統一への峠を越えていきます
あなたの《アリラン》と永久に
5.群舞 「兄弟星」
今回の演目の最後を飾ったのは、祖国統一への想いを大空に輝くお星さまに託して姜先生が創作された群舞「兄弟星」だった。私は演目の紹介を終え舞台の袖から彼女たちの踊る姿を見ながら、込み上げるものを押し殺すことができなかった。
群舞「兄弟星」は今まで何回も披露された作品だが、今回の衣装は真っさらだった。葬儀の後、先生の荷物を整理していたとき、衣装箱にきれいに収められていた20着もの新しい衣装を発見した舞踊団の皆さんは驚きを隠せなかったそうだ。先生が次の35回目の公演の構想と準備をすでにしていたとは…
群舞「兄弟星」は先生が新たに作って下さった衣装と共に、祖国統一を願い続けた先生の意志を継いでいかんとする研究生たちの決意の表明になった。
最後のご挨拶
(最後になった34回目の発表会での姜先生)
先生の写真の前で
追悼式に来られた陶山喜代子さんは「先生の踊りの中に込められた”舞う、舞いあがれ!ひとつになるまで“の想いを映像の中に、舞の中に沢山感じました。きっと先生の想いは生徒さんに引き継がれ、絶えることなく実現されていくことでしょう…素敵な追悼公演でした」と感想を寄せてくださった。
秦勝元さんは「…統一、民族の祈願のため自分ができること、やるべきことを姜輝鮮先生は生涯をかけてなさったんだと感銘を受けました。今一つは、受け継ぐ、受け継がれることの大切さも感じました…」と語られた。
15才の時、大阪朝高の舞踊部員として先生に出会ってから半世紀余り、先生をある時は近くで、ある時は遠くで見続けてきた私だが、先生亡き後、先生の素晴らしさを再認識したように思う。
朝鮮舞踊を通じて祖国の統一に寄与しようと、唯一その想いで半世紀を駆け抜けてきた舞踊家!思想や所属団体の違いを乗り越え、誰にでも手を差し伸べ、ウリハッキョに通えなかった生徒たちの胸にも舞踊を通じて民族の誇りや自負心を育てて来られた先生!最後になってしまった34回目の発表会の準備期間、日に日に痩せていく先生に食欲が戻ってくれることを願ってピクルスを作って持っていったら「美味しい、美味しい」を連発された先生、研究所に行くたび「ピクルスある?」と恥ずかしそうに聞かれた童女の様な先生…
今まで影マイクに徹してきた私だが、今回だけは民族衣装を着て司会進行をし、先生の在りし日の映像に合わせ、舞台下手で自作詩を朗読した。
”舞う、舞いあがれ!ひとつになるまで“
私の脳裏に焼き付いたこのスローガンを、舞踊団ナルセの皆さんと共に生涯掲げていこうと思う。
舞台監督もご一緒に(写真提供は主に秦勝元さん)
4月16日の朝鮮新報5面に掲載されました。コマッスムニダ❣️