岩手県を中心とした民間伝承に登場する妖怪「座敷童子」
古い民家の奥座敷などに棲むとされ、誰もいないはずの部屋から物音がする、寝ている者を部屋から引きずり出したりするなどのイタズラを行うとか。
家運の盛衰にも関係すると云われ、座敷童子の棲む家は繁盛し、去ると没落するとも伝えられています。
座敷童子とは何者なのでしょうか。
座敷童子には様々な説がありますが、かの佐々木喜善氏、柳田國男博士に遠野の民話を伝えた佐々木氏に寄れば、それは間引きされた子供の幽霊ではないか、とされます。
飢饉等の食糧難により、子供を育てることができず、やむなく生まれたばかりの子供を間引きする。
間引きされた子供の遺体は墓ではなく、家の台所や土間などに埋められたそうです。この風習については、実は縄文時代にも同じような風習があったようです。
縄文時代の住居跡を発掘しますと、家の玄関のすぐ下に、甕の中に逆さまに入れられて埋められた子供の骨が発見されることが、往々にしてあるのです。
哲学者の梅原猛氏はこれを、「もう一度早く我が家の子供として転生して欲しい」という願いを込めたものだ、と解釈しています。
梅原氏の解釈の真偽の程はともかく、生まれてまもない幼子を失った親のつらさは今も昔も変わりない。こうした縄文以来の埋葬方法には、そうした親の「想い」が込められていると考えるのは、そんなに誤ってはいないのではないか、と私は思いたいですね。
ましてや病気などで亡くなったのではない、間引きです。自らの手にかけねばならない苦しさは、想像を絶します。
せめて家の中に埋葬したいという気持ちは、分かる気がします。
岩手県は、特に江戸時代以降、ほぼ慢性的な飢饉に悩まされ続けました。多くの寒村では似たような悲劇が繰り返されたことでありましょう。
特に岩手県を中心に座敷童子伝承が伝えられている事実は、岩手の土地に生きた名も無き庶民たちの
悲しみの証明なのかもしれない。
しかし間引き“された”側はたまったものではありません。この世に生を受けて間もない、新鮮でエネルギーに満ち満ちた魂が、突然その肉体を奪われてしまう。
有り余るエネルギーの使い場所をなくした魂は、幽霊となって彷徨い歩き、家や家人に怪異を齎したかも知れません。
座敷童子がこうした悲劇の子供たちの幽霊であるとする説は非常に素直で、私には受け入れやすいものだと思えます。
しかしこの座敷童子、子供の幽霊が、なぜ家運の盛衰まで左右するのでしょうか。
さて、この座敷童子が座敷童子“らしさ”を発揮するのは、童子が家を“出た”時、つまりそれまで繁盛していた家の運気が急激に衰退衰退していく様を見せつけられたときです。
人々は衰退の原因を、「座敷童子が出て行ったからだ」と解釈します。そして他の家が急激に繁盛していく様を見て、「座敷童子はこちらへ移ったのだ」と理解するわけです。
普段は家人や客人にイタズラを仕掛けるだけの幽霊ですが、これがいなくなってしまうと一挙に家運が傾いてしまう。
座敷童子とは、家の「守護霊」の役割をも果たしているようです。
ところで、土淵村(現・岩手県遠野市土淵)のさる豪農の家には、かつて「座頭部屋」と呼ばれる、普段は使われていない空き部屋があったそうです。親戚等の集まりがあった際には、必ず座頭(盲目の按摩)を呼んで、この「座頭部屋」に待たせていたそうです。
この部屋で待っている座頭は、なにか人がいるような気配を感じたり、色々と薄気味悪い思いをしたそうです。
この「座頭部屋」とは、家の守護霊すなわち座敷童子を祀った部屋ではないか、とも言われているようです。
また二戸市周辺では、旧家の部屋の片隅に子供部屋が設えてあって、そこにはお菓子やおもちゃなどが供えられていたのだとか。これもやはり、家に憑いている子供の霊をあやし、祀るためのものであろうと思われ、こうしたかつて権勢を誇った旧家では、それぞれの方式で家の守護霊、それも子供の霊を祀る風習があったのかも知れません。
その子供の霊こそ
座敷童子。
今は豪農だったとしても、先祖を遡って行けば、いずれかの時に間引きをしなければならないような状況があったかもしれない。間引きまでいかなくとも、幼くして夭折した子供たちは大勢いたことでしょうし、水子のまま流れた子供達も沢山いたに違いない。
そうした子供たちのなかには、強いエネルギー、霊力を持って「祟る」霊もいたことでしょう。そうした霊を祀り、供養し、祟る程のエネルギーを家の守護に転化させた。
いわばこれは、「御霊信仰」の変形であると言えるかも知れません。私は「大魔神」記事の稿で、御霊信仰は祖霊信仰の一変形形態であるとしました。ならば、
座敷童子もまた、祖霊信仰の一変形形態、というよりも、一部が零落し「妖怪化」したもの、と解釈できるかも知れません。
子供の霊であろうと、先祖であることに変わりはありませんからね。
いずれにせよ、座敷童子に家を出て行かせない、愛想を尽かさせないためには、家の守護霊つまり座敷童子を祀ることを怠らないことです。
そのためにも、日々の暮らしを真面目に慎ましく過ごすこと。金に飽かせて放蕩三昧を繰り返していると、そうした日々の祀り事、供養も疎かになりがちです。
働きもせずに放蕩三昧、そりゃお金も無くなります。おまけに日々の祭りを怠れば、守護する者も愛想を尽かして去りたくもなろうというもの。
家も傾くというもの。
やはり、真面目にコツコツと、これに敵う奴はいないということですな。
あなたは……はい、大丈夫ですね。あなたは真面目な方だ。
そちらのあなたは…おや、これはこれは、あなたはもう少し自重した方がよさそうだ。今のままだと危ないですよ。
えっ?そんなことお前に言われたくない?いや、ははは、それは全くその通りで、面目ない。
でもね、私が言ってるんじゃないですよ。座敷童子が云ってるんですよ、あなたに。
えっ、座敷童子なんて何処にいるんだって?
わかりませんか?…ほら…。
あなたの…
後ろ!!!!!!!!
映画『HOME愛しの座敷わらし』より
この記事を書くときに、美樹枝さんのことも頭を掠めたんです。書いて良いものかどうか一瞬だけ迷いました、一瞬だけね(笑)まあ、美樹枝さんなら大丈夫かな?と思って。私、秘かに尊敬しているんですよ、美樹枝さんのこと、秘かに。
あっ、!言っちゃった!(笑)