武士は死して名を遺す。虎は死して皮を遺す。
なんてことを云いますね。
【武士道とは死ぬことと見つけたり】などともいい、「死に狂い」なんて言葉もあり。
「死に場所を求める」だとか、とかく武士は死ぬことに拘るようです。
しかし死ぬためにはまず生きなきゃなりませんな。
善く「死ぬ」ためには、善く「生きる」こと、「死に狂い」には「生き狂い」が必須です。
「死に場所」を見つけるにはまず、「生きる場所」を見つけなければなりません。
生きることを想うなら、死を想わねばならず、死を想うなら生を想わねばならず。
およそ死の無いところに生は無く、生無きところに死もまた無い。
生と死、それはコインの裏と表のようなもの、表裏一体にして不可分。
日頃死を忘れている者は、生を忘れているのと同義。所詮ロクな生き方ではない。
人はいつか必ず死ぬ。どうせなら善く死にたいよね。
ならば善く生きることだ。
【武士道とは死ぬことと見つけたり】とはつまり、【武士道とは生きることと見つけたり】と同義。
武士道とは、善く生きるための道なのだね。
死ぬことばかりに執着し、生きる努力をしないのは、武士道にあらずということ、か…。
ミツバチは天敵のスズメバチを殺すため、何十匹という集団でスズメバチの身体に覆い被さり、高温を発してスズメバチを焼き殺すとか。
もちろん、そのミツバチの集団も死んでしまいます。
ミツバチが己の命を賭して守ろうとしたもの、それは自分達の巣であり、
自分達の「種」です。
種を守るとは、つまりはDNA、遺伝子を守るという事でしょう。
遺伝子には、種が代々伝えてきた、「生きてきた」証しが刻み込まれています。
ほとんどの生物は、「種」を残し、後代に伝えていくため“だけ”に、己の生を使い果たします。
この世で生きるという事は本来、次世代に命を伝えていくということ、なのかもしれない。
それが済んだら、本来もう用は無いのだ。
人間だけが、それ以外の「試練」を負わされ、生かされているのか……。
そういう意味では、人とはやはり、
「特別」なのだな。
哲学者の梅原猛氏は、DNA,遺伝子こそが「輪廻転生」の証しであるといいます。
個々の命はやがて尽きる。しかし大いなる「命」の流れは遺伝子へ刻み込まれ、次世代へと伝えられていく。
武士とは、もののふとは、この「大いなる流れ」を守るために
戦うのだな。
「大いなる流れ」を守るためには、まずは個々の命が、善く生きねばなりません。
さすれば、いざというとき、
善く死ねましょう。
かつての日本人は善く生き、善く死んだ。
そして、名を遺した。いや、名を遺さなかった方々もいるでしょう。
その名を、そのすべての命を讃えよう。
大いなる命の流れを、止めないために。
私たちが善く生き、
善く死ぬために。
あんべ光俊with臼澤みさき 「遠野物語」
ももクロが来ると思った?(笑)
およそ40年前の曲を、その曲を作った本人と、今の若い子がコラボすることの意味。
これもまた、一つの「命」の継承かも知れません。
この子達が、笑って過ごせる時代へと、繋げていきたいものです……。
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