拙ブログの第1回目のタイトルは『鬼の国』でした。
鬼伝説や鬼と付く地名は全国に数々あれど、中でも岩手県は特に多い気がする。なにせ「岩手」という県名そのものが、鬼と関連しているわけですから。
一関市赤荻(あこうぎ)には「鬼吉」という地名があり、これは由来などよくわからない。同じく一関市室根町に聳える霊峰室根山は、往古、「鬼首山」と呼ばれ、この山に棲む鬼のような山男たちが里に降りて悪さをするので、朝廷に頼んで征伐してもらった。
その鬼の首を埋めたことから、鬼首山と呼ばれたそうな。
室根山にご鎮座される室根神社の御祭神は熊野の神。室根山の麓にご鎮座される南流神社には、熊野三神の一柱であられる「ハヤタマオの神」が祀られています。
この南流神社、ヤマトタケルノミコトの東国征伐によって滅ぼされた蝦夷や、戦死した兵士たちの霊を弔う目的で建てられたようです。創建は養老の頃といいますから700年代初期でしょうか。そんな昔から、敵味方の区別なく戦死者を祀る風習が、この奥州にあったことに、何やら感慨深いものがあります。
ハヤタマオの神は出雲系の神とも言われていることから、討伐された鬼とは、あるいは出雲や大和の地を追われた人々、ナガスネヒコ一族にも連なる系譜を持つ人々の末裔かもしれず、蝦夷と呼ばれた人々の深淵が、ほんの一部ですが、垣間見えた気がします。
鬼と呼ばれた人々への討伐行動が数多く行われた、それが多くの鬼伝承を生んだことは確かです。
しかし、鬼と付く地名の由来は、それだけではない気がします。
「鬼死骸」や「鬼首」といった地名、これは元々、「おに」の音に近い地名があって、そこへ後から、「鬼」の字を当てたものではないかと、
思うわけです。
つまり、鬼死骸村は元々「おにしがい」に近い音を持った地名だったのであり、後々「鬼死骸」の字が当てられたのでしょう。
往古、「桜野壮」と言われていたとありましたが、「壮」はおそらく「荘」の意で、つまりは京の貴族の荘園だったと思われ、荘園であった時期だけ桜野壮と呼ばれたのだと思う。
荘園としての機能を失って後、再び「おにしがい」に戻ったのでしょう。
「アイヌ語地名」とよく言いますね。東北の地名で意味が分からないものは、みなアイヌ語で解けるとか。
しかし私は最近、このアイヌ語地名には懐疑的になっています。アイヌ民族の成立は鎌倉から室町期、その成立には北方民族の侵入が関与しているとか。ならばその言語にも、北方民族の影響がかなりあると思われ、
そのような言語が、鎌倉時代より遥か以前よりあると思われる地名と関わりがあるとは、
少々思い難い。
アイヌ語というよりは、古代縄文語とか、東北方言とか
そのように考えた方がいいのではないか。
そんな風に思っています。
もちろん、鬼の棲む国。「鬼の国」だからこそ、「鬼」の字が当てられたということはあるでしょう。地名を記録するのは役人の仕事であり、その役人は大概中央から派遣されてきた者たち。
彼らは多かれ少なかれ、奥州を蔑視していた。鬼よ、鬼の棲む国よ、と、蔑む気持ちがあった。
その気持ちが、元々あった地名に「鬼」の字を多く当てる行為となって現れた……。
考え過ぎ、かな?
では、当の「鬼」の字を当てられた側の人々はどうしたか。長いこと鬼と名の付く村で暮らしていたのですから、別段どうということもなく、普通に暮らしていたことでしょう。
そこへ現れた、奥州一番の流行りモノ、「田村三代記」と、そこから派生した「人首丸伝説」。
その流行りモノ、人首丸伝説によれば、大武丸は栗原の地で死んだとか。
栗原は鬼死骸村の隣。ならば、
【おらほの村さ死骸さ埋めだっつー話も、あり得るんでねーべが?】
こうして鬼死骸村伝説は生まれた。
つまり鬼死骸村伝説とは、流行りモノへの便乗だった!?
近年「鬼滅の刃」が大流行し、老いも若きも流行りモノに便乗する人たちの、なんと多いことか。
今も昔も同じです。みんな流行りモノには乗っかりたいのだ。
これが結論?うーん、しかしこれだけでは、
なんだか
寂しい……。
もう少し、話を続けたい。
つづく。
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