《バンカラ》とは、いわゆるハイカラに対抗するかたちで出てきたもののようです。ことば使いや行動が粗野、乱暴であったり、また「弊衣破帽」といって、擦り切れた学生服にボロボロに敗れた学生帽を被り、腰に手ぬぐい足には高下駄。かまやつひろしの「我がよき友よ」の世界。これは「外見に捕われず、真実の精神性を目指す」といった意味合いもあるようで、旧制中学、旧性高校の学生達を中心に広がっていったスタイルのようです。
だから本来は知的レベルの高い人達(といっては語弊があるかもしれませんが)の文化だったわけで、それが後世、不良のスタイルを意味する言葉に変化していった。不良のケンカ三昧の結果としてのボロボロの制服と、旧制中学、高校の学生の擦り切れた制服とは、まったく意味合いが違うのです。
現在ではすっかり廃れてしまったバンカラスタイルですが、我が岩手をはじめとする東北には、応援団のスタイルとして、未だに継承され続けている高校が多々あるのです。
東北以外でも、未だバンカラスタイルの応援を続けている高校、大学も、探せばあるようですが、やはり東北、岩手は突出していると言って良い。
岩手県立盛岡第一高等学校応援団
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http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2012082000007.html
岩手県立一関第一高等学校応援団
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http://www12.plala.or.jp/hakanz/
自慢ではありませんが、私の母校も、旧制中学以来の伝統を誇る高校で、こうしたバンカラスタイルの応援を継承しておりました。声と手振りと太鼓のみ。ブラスバンド等は一切使わない。数年(十数年)に一度、甲子園大会でも見かけるこのスタイルは、そこだけ異空間が広がったような、一種異様な迫力がありますね。
春になると新入生には、応援歌練習というのが待ち構えています。昼休みと放課後に行われるんです。各クラスを応援団幹部(←各校によって呼び名は変わります)が回って応援歌や手振りの練習をする。こうした伝統校の場合、応援歌は10曲とか20曲とか、当たり前にありますから、それを限られた期間で強引に憶えさせられるわけです。
「腹がら声だせ~!!!」
「前ばり(だけ)見でろ前ばりよ~!!!」
「おめ!やる気あんのが!?オラァ~!!!」
新入生は必ず通らなければならない関門です。この少々厳しい応援歌練習を通して、この学校の一員となったのだということを自覚していく。
まあ、他地域にもみられるとはいえ、やはり岩手・東北にはこうしたスタイルが残されている例が顕著であるように思われます。
それは何故なのでしょう?
話は変わりますが、岩手県から輩出された総理大臣が何人いるかご存知ですか?
原敬
斎藤実
米内光政
鈴木善幸
この4名です。これは山口県の8人、東京都の5人に次ぐ第三位だそうです。
この4名に、さらに東條英機を加えて5人だとする方もおられるようです。東條英機は東京生まれですが、先祖が盛岡藩に仕えていたということで、これを岩手出身として数えようという魂胆のようですが、ちょっと無理があるかな?(笑)
べつに3位でもいじゃねえか、十分立派だと思うのですがね…。
平民宰相と謳われた原敬は、号を「一山」といいます。
この由来は、明治維新後の東北地方が
「白河以北、一山百文」
つまり、山一つに百文ほどの値打も無いなどと言われて嘲り笑われた、その屈辱を忘れまいという反骨精神の表れなのです。
宮城県仙台市に本社を構える「河北新報社」の社名の由来もやはり、この「白河以北…」からきています。
戊辰戦争で被った屈辱をどのように晴らすべきか。もとより東北諸藩は決して皇室に逆らったわけではない。ただ立場や考え方が違っていただけです。逆賊などという誹りを受ける謂われは微塵もないという自負があった。
だから、お国のためにこの身を捧げてつくすことで、薩長を見返してやる!東北人の底力を見せつけてやらねばならぬ!
そうした気概が、原の号や、河北新報の社名に表れているのです。
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原敬
東條英機の父親、東條英教は陸軍士官学校を主席で卒業したにも関わらず、大将に昇進することが出来なかった。これは自身の出自が盛岡藩にあることから、薩長閥によって妨害されたからだ、と、終生思い込んでおられたとか。
そのような妨害、嫌がらせが本当にあったのかどうか分かりませんが、少なくとも御本人はそう思っていたようですから、この無念の想いは少年の英機に大きな影響を与えたでしょう。
父の無念を晴らすためにも、自分は一心不乱にお国の為に働かなければならぬ。
東條英機という人は、東北の無念の血の継承者でもあったのか。
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東條英機
バンカラスタイルの応援団の制服や制帽は、先輩から後輩へと継承されていくことが多いようです。
団長や副団長の制服は特にその傾向が強いでしょう。
戦前の学生さんは貧乏な方々が多く、特に東北の学生はその傾向が強かった。制服でさえもそんな頻繁には買えないなんてことはザラにあった。
だから、当然擦り切れてもくる。
それでも学生さんたちは、それを大事に使った。
そうした大事に大事に使った制服制帽を後輩に譲る。これは言ってみれば、魂の継承です。
「末は博士か大臣か~♪」という戯れ唄にあるように、戦前の中学、高校の学生はお国のために働くことを目指していました。
上述したようにバンカラとは、「外見に捕われず、真実の精神性」を求めるものであり、学生とは、お国のために働ける人となるために勉学に励むもの。
制服制帽の継承とは、そうした魂、志を忘れず、後世に伝えて行くという、ある種の「儀式」だったのかもしれない。
未だに岩手・東北にその名残が強く残っているということは、原敬以来の無念の想いは、未だ東北人の心の底、DNAの一角に深く刻み込まれているという事なのかもしれない。
普段は気が付かなくとも、それは東北人のパーソナリティに、一定の影響を与え続けているのでしょう。
そうだとしても、それは決して悪いことではありません。
それをバネにすればいい。バネにして「強く」なればいい。
岩手には、石を割って咲く桜がある。
あれが東北の、東北人の強さだ。
あれが東北魂。
多分に形骸化したとはいえ、バンカラの継承とは東北魂の継承でもあったということ、か。
下駄で登校、先輩への絶対服従、挨拶や規則等々これは現代のこと? 誇張しすぎ~とゲラゲラ笑っていました。でも本当にバンカラ校風はあるのですね!!
そしてブログを読んで、またまた考えを深くしてます。あの「あまちゃん」を産んだバンカラでもあるのですね~(あまちゃん論はすごくよかったです。あまちゃん大好き)
これからもブログ楽しみにしています。
官九郎さんは築館高校出身でしたね、あそこもバンカラです。白鳥というのは伊豆沼の白鳥でしょうね。モロ官九郎さんの地元ネタだ(笑)
これからもよろしくです~。
かなりの音量でしたので、学校付近の住宅街に「うるさくてすみません~」と毎年お菓子持ってご挨拶に行ってたほどです。女子校でしたけどね、みんな張りきってたなぁ。どこからこんな大声が出るんかしらん、というくらい盛大に練習してました。心身共に健康な学生時代でした。大和撫子~!の思い出です。あれがバネになってるかも…
全校応援のハイライトと言えば、なんといっても夏の高校野球県大会。私の頃はウチの野球部は弱くて、大抵一回戦で負けるんだけど、たま~に勝ったりすると、グラウンドまで降りて行って、ウチの高校の名物だった○○節を踊ったりしてね。燃えたなあ。
応援ってのはいいもんですよ。応援するのもされるのも。ていうか、応援することが、実は応援されるってことなんだな~って、最近思います。
まさに「与えれば与えられる」ですね。
恐かったな~懐かしいな~。今は、あの経験が生きています。応援歌なのですね。
薫風亭奥大道。必死さは、命の輝きで、一番応援したいです。必ず尊い美しい重い感情感覚経験だと思います。日だまり陽光。?みたいなドラマが大好きでした。
お疲れ様です。ありがとう御座います。
不思議なもので、バンカラの思い出は怖くもあり、誇らしくもあり、懐かしくもありでしてね、私はあの高校に入学してよかったと今でも思っています。
アホやってバカやって、必死こいて、何もかもが尊い思い出です。
自分がシュート決めたら、名前と歌を下級生が叫んでくれて有難い思い出。
またまた全然違う話だけど、自分の氏神様調べていたんですが、氏神様の地名は大和朝廷に平定された時の蝦夷人の名前ってあって。
よく考えたら当たり前なんだけど茨城県南部でも大和朝廷が来るまで、ちゃんと蝦夷の人がいたんだなぁと感激しました。
その名前の小学校に通っていて閉校になってしまったんですけど、大和の人達が平定する代わりに蝦夷の人達の名を残す謂れを知ってしまったら、なんか合併で無くなる地名があったら勿体ない~などと思いました。
全てに誰かが生きた証があるのね~。
名も知らぬ人々が命を繋いで来た一つの証しが、古い地名であり神社名です。大事にしたいですね。
伊豆沼は何度か行きました。白鳥ってデカいですね。伸びると人間の背丈くらいで、これが空を滑空するんだからもうとーっても素敵。
声はいまひとつだべね。美しい姿と声が一致せず。
最近デビルマンD だったかな?読みましたー。ミキちゃんは無事のままというネタバレ読んだので読む気になりました。薫風亭さんが読んだらどんな感想になるのだろうなあと思いながらお邪魔しましたー。
デビルマンDですか、不勉強だあ~、知らないなあ~。
調べてみよう。