風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

「本当に良い刀は鞘に納まっているものです」

2015-07-01 12:58:30 | 名ゼリフ





                        




黒澤明監督作品、昭和36年公開の映画『用心棒』は大ヒットを記録し、東宝は黒澤監督に続編の制作を依頼します。

この依頼を受け、黒澤監督はお蔵入りになっていた脚本『日々平安』に大幅な改変を加え、三十郎(三船敏郎)を主人公とした新たな物語を制作しました。

『日々平安』は山本周五郎原作で、気弱で剣の腕もからっきしな主人公が、藩の不正を糺していく物語で、チャンバラがまったくない時代劇でしたが、東宝側が難色を示し、制作されないままになっておりました。

その陽の目を見なかった脚本に、黒澤監督は愛着があったのでしょうね、なんとかこの脚本をいかしてやりたい、そこへ『用心棒』の続編依頼がきた。

『日々平安』はどちらかというと「ほのぼの」した物語、そこへハードな三十郎を加えることで、面白い物語が作れるのではないか。

あるいはそう、直感したのかもしれません。





その黒澤監督の直感は大当たりします。

昭和37年の正月に公開された『椿三十郎』は大ヒットを記録。それまで時代劇と言えば東映だったのが、その東映の時代劇作品を押さえての大ヒットに、東映の関係者はショックを受けます。

『椿三十郎』は時代劇の歴史を変えた作品でした。



物語は極めてシンプル。藩の重臣たちの不正を糺そうとする若侍たちを、ひょんなことから手助けする羽目になった三十郎が、あの手この手をつくして悪家老たちの陰謀を暴いていく。

一番の話題は、悪家老側についていた腕の立つ浪人、室戸半兵衛(仲代達矢)と三十郎との一騎打ちのシーン。室戸が刀を抜いた瞬間、三十郎の居合が一閃し、室戸は大量の血を噴出させて絶命する。

この“スプラッター”なシーン。黒澤監督は後に「やりすぎた」と後悔していたそうですが、このシーン以降、安直な「残酷時代劇」が増えてしまったことも、また事実ではあります。







この椿三十郎と室戸半兵衛。物語のなかでは二人とも異質の存在です。

上述したように、物語は割と「ほのぼの」ペースで進みます。藩上層部の不正を糺そうとする若侍たち(香山雄三、田中邦衛、久保明等)は、まっすぐだがどこか間が抜けていてどうにもまどろっこしい。三十郎が放っておけなくなったわけがわかります。

特に若侍たちが頼みとする城代家老、睦田の奥方(入江たか子)のノンビリぶりは群を抜いています。ゆっくりと話す口調に、せっかちな三十郎はイライラしつつも、そのどこか凛とした空気感に圧倒されて、いつもの調子がでない。なんとも困った風情なところが笑いを誘います。

その奥方を敵方から救出する際、三十郎は敵方の侍を簡単に斬り殺してしまいます。それを見た奥方は

「人を殺してはいけませんよ」

と諭し、

「あなたはまるで抜き身(抜いた刀)のよう。でも本当に良い刀は、鞘に納まっているものですよ」

と真っ直ぐに三十郎を見据えながら語りかけます。

三十郎は何も言えず、ただ眩しそうに目をそらすばかり。



三十郎と半兵衛は、まさに抜き身の刀のようにいつもギラギラしている。そんな二人が、お互いを認め合いながらも、最後には戦わねばならなくなる。

物語の中で際立って異質な存在同士が決闘するラストシーンは、激しくも物悲しい。

彼ら二人は所詮、平和な日常の中では存在し得ないのです。

お見事!と思わず声を掛けた若侍に

「馬鹿野郎!なにが見事だ!聴いた風なことをぬかすな!」

と一喝する三十郎。

立ち去ろうとする三十郎を引き留めようと駆け寄る若侍たち、それに三十郎は

「近寄るんじゃねえ!俺は今機嫌が悪いんだ!」

と激しく制し、半兵衛の遺体に目をやりながら

「こいつは俺と同じだ、抜き身だ。奥方の言うとおりさ、本当に良い刀は鞘に納まってる。お前たちもせいぜい、鞘におさまってるんだな。あばよ!」

去って行く三十郎。平和が戻った場所に、もはや彼の居場所はない…。





【本当に良い刀は鞘に納まっているもの】

ただ鞘に納めていただけでは、錆びついてしまいます。常の手入れと本人の鍛錬は怠りなく。

いざとなれば、いつでも抜ける用意はしておきつつ、

抜かないまま終わらせるのが、一番の良策ってことなのでしょうね。


そのためには、己の「心」の鍛錬こそが肝要、ということか。




三十郎は強い。スーパーマンのように強い。

しかしいつも強がって見せ、それでいていつも何かに怯えているようでもあります。

殊更に強さを強調したがる者の中には、殊更に弱い部分がある。それを隠すためにさらに強さを求め、結果トラブルに巻き込まれていく。

三十郎はそういう人間の、まさに象徴です。

単なるスーパーヒーローで終わらせなかったところが、流石黒澤明、

ですかね。



【良い刀は鞘に納まっている】

準備万端怠りなく。

でも一番の肝心要は、

己自身の心

ってことで。いかがでしょう?



どちら様も心の鍛錬、怠りなく。

なーんてね、そういう自分はどうなの?って話だね(笑)

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2 コメント

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Unknown (たま♪)
2015-07-04 20:55:59
薫兄者~、たま♪、今日熱田神宮で刀の鎚打見てたんです☆草薙の剣をご神体にする熱田神宮では刀にちなんだ行事が多いです。
それで、「いかすたし、ころすかたなも、ただひとの、ひとつこころのうちにこそあれ」という文字が入ってる鉄鐔の話とかのパンフレットをもらいました☆
「神」である刀には自ずと「剣徳」があり、腰にある剣徳に負けない、恥じない自己を築くことが武士の使命であったそうです。
刀には高い精神が内在する崇高なものとして日本人は刀を認識してきたため、昭和初期頃までは、
一般家庭に日本刀がおいてあることも多かったとのこと。刀は心の歴史であるそうです。
「刀にかけて」「刀の手前」「刀に誓って」という言葉が倫理規範の基となっていると。
奥方の仰ることはとても深い意味なのだな、と思ったのでした☆
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Unknown (薫風亭奥大道)
2015-07-05 04:03:41
たま♪さん、刀は武士の魂とよく言いますもんね。単なる武器ではなくて、武士の精神性の象徴みたいな。古代からそういう考え方は基本的にあったのだろうね。御神体にもなるくらいだし。
特に江戸時代以降、そういう考え方が高まりをみせた。金打(きんちょう)といって、刀の鍔を打ちあって固い約束をする、友情を誓い合う作法も、江戸時代以降に出来上がった。まさに「刀に誓う」という意味ですね。
武士なら刀、女性なら鏡。持ち主を象徴するものには、持ち主の魂が宿る。その人の精神性が現れるわけです。ですから、やたらと刀を抜いて振り回して、ましてや簡単に人を斬るなんてのは、まさにその人の精神性の表れなわけですね。
そういうところをちゃんと押さえながら、アクション娯楽時代劇としてしっかり仕上げているのは、さすが黒澤明だなあと思うわけです。
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