岩手県一関市室根町にて、1300年の伝統を誇る祭、「室根山特別大祭」。
国の重要無形民俗文化財であり、「東北三大奇祭」の一つであるこの大祭は、主祭者がおらず、自主的に集まった者たちによって祭が営まれ、この件については室根神社の宮司も口出しできないそうです。
そして、「神役(じんやく)」と呼ばれる重要神事を司る者たちは、基本、世襲なのだそうです。1300年の間、ほぼ同一の家系によって、それぞれの神役が伝えられ続け、祭が続いてきたのです。
平成27年10月、室根神社特別大祭「マツリバ神事」ハイライト。
ここで語られている祭の由来は、どこまでホントなのかよくわかりません。室根山はどう考えても、縄文以前から信仰の対象だったはず、熊野の神を勧請したのが本当だとしても、この祭の意味、由来についての説明がいまひとつピンときません。なにか「秘密」があるような気がします。
この祭に限らず、例えば特定の地域の者以外には神輿を担がせないだとか、そのような「しきたり」は調べてみると、結構あちこちの祭で散見されるようです。おそらく日本の祭は本来みなこうしたしきたりがある、あるいは「あった」ものなのではないでしょうか。
その最たるものが、先述した被差別民のみが、主要神事を行える、あるいは行えた、祭でしょう。
世襲であるとは、つまりはその「血筋」を重要視するということ。血は霊、などとも言いますから、つまりは霊統の重視ということでもあるでしょう。
その祀られている神にもっとも近い霊統の者が神事を司る。
その祀られる神は、祀る者たちのいわば「先祖」ということなのでしょうね。
そういう意味では、日本の神祭は本来、先祖祭、先祖供養であった、ということでしょう。
逆に言えば、その子孫でなければ「伝わらない」ということなのでしょう。
だからこそ、血筋、霊統が大事にされた。
多くの祭が本来そうした「しきたり」を抱えていた。それによって、日本は実は陰から守られていた、なんて側面があったのかもしれない。
被差別民は縄文以来の比較的純な血筋を伝えてきました。
ということは、被差別民の奉ずる神とは、縄文以来の、この列島にとってとても重要な神であり、その神祭を伝え続けていくためには、純なる縄文の血が不可欠だった。
その血筋を、その霊統を守り伝えていくための、被差別であったとするなら……。
なんと、なんと尊きお役目か……。
近年、祭の担い手が減少しており、このような世襲を維持するのが困難な状況にあるとか。
これはわが国にとって案外、いや、かなり
「危ういこと」、なのかもしれませんね。
思いつくまま、つらつらと〈続く〉
で、ありやす。
うちは開拓民だから、地域の祭りは希望して車で親に送ってもらわなきゃで、参加出来なかったけど、当時はヤンキー系の見せ場みたいな雰囲気で行きたくなくなったなぁ。
だから神輿は担いでない。担ぐ縁の人たちには大事にしてもらいたいのぉ。
神は人の先祖。