駒大苫小牧が、出場辞退ですってね。
3年生が卒業式の日に飲酒したことで、出場辞退。 1,2年生には何の責任もないのに。 記事には「泣き崩れるものもいた」と・・
この選択は正しいのだろうか?
未成年の飲酒は確かにまちがっている。 でも自分がそのシチュエーションなら・・飲むやろ! と言ったなら不謹慎になろうが、 いまの子どものコミュニケーション状況をみれば、 卒業式の日に「飲も!」となって断るのはかなり勇気のいる選択とも思われる。
彼らはもう母校に顔向けできなくなった。 後輩たちも、先輩をうらむか、憐れむかしかできなくなった。
教育って懲罰でしょうか? 二度と取り返しのつかないことだったのでしょうか? むしろ飲酒より、その処分の方が、取り返しがつかないんじゃないでしょうか。 処分は必要だが、彼らが自分一人で責任をとれるかたちでやるべきだったと思う。
飲酒がいけないなら、なぜいけないのか。 なぜルールを守ることが大事なのか。 それを納得させるのが教育ではないだろうか? ましてや彼らは未成年、子どもなのだ。
この決定が、悪い方向に向かないのを望むとともに、できればひるがえってほしいと思う。
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ただこの場合、まったく責任の無い後輩のみが責任を負わされる点の是非が問題なのであって、卒業式の解放感があろうがなんだろうが、未成年の飲酒をゆるさないって態度は社会秩序の点でも教育の観点でも大事にすべきじゃないかなあ?
でもって、責任をとるべきは飲酒した本人たちと、監督責任があった、校長や監督、担任教師なんだろうネ、あと親もかな。
自分の卒業式の日に担任から「卒業証書の卒業年月日を、3月31日から4月1日に書き換えるだけで大学の合格は簡単に取り消せるからな~、羽目はずすなよ~!」って言われたことを思い出した。今でもあの担任の薄笑いを思い出すとゾッとする。おかげで、4月1日まで羽目をはずすことは無かった。
懲罰が教育とは思わないけど、懲罰の存在を教えなかったら、それも教育としては不十分って気がする。
処分は必要だが、本人が責任をとるかたちの処分であるべきだとの文章を挿入しました。思いはだいたい同じと思います。
一所懸命練習してきた1.2年生は、自分たちと関係ない原因で出場を逃したようなものですから。
せめて高校ぐらいは自分の努力がきちんと報われる場所であるべきで、変な所で不意にならないように周りも配慮すべきだと感じました。
いっそのこと、「義務教育修了=成人」として一人前の大人として扱ったらどうなのかな、とも思います。
16歳にもなればバイトでお金も稼げるし、子供だって産めるのですから。
16~20歳の間を保護と規制の入り混じったグレーゾーンにしている今の制度が問題なのかもしれません。
中学を卒業した時点で酒も煙草も免許もOKにして、その代わりに事件を起こしたら20歳以上と同様に刑事罰を与え、氏名公表もする。
学校は持ち物検査なんかするより、自己責任についてしっかり教育したほうが、自立心を持った人間になるでしょうし。
少し極論に走ってしまいましたが・・・
現行法の範囲として考えるのであれば、おっしゃる通り3年生に全ての責任を負わせるべきでしょう。
酒を飲んだ生徒を卒業取り消しにして、1.2年生は甲子園に行かせたほうが、事件を起こした本人たちも後味が良いのではと思うのですが。
いまの社会の「自己責任」という言葉はつい抵抗を覚えてしまいますが、
規則で規制するだけではなく何が悪いのかや、責任の取り方など、義務教育のうちに伝えておかなければならないことがたくさんありますね。
校長が辞退を決めたんですよね。
校長が教育間違っていたとして責任をとり何らかの処分を受け、土下座して「生徒だけは甲子園出させてやってください」と言ったらどうだろう?
今回の展開になんだか釈然としない思いを持っていましたが、この提案でスッキリしました。そうですよね、そうすればいいんです。この提案を読んでかつての野村證券の社長のことを思い出してしまいました。
「社員は悪くないんです。悪いのは私です。」って泣きながら記者会見したあの社長です。今回の駒苫も指導者が謝罪・引責して当事者は処罰を受ければよかった。でも罪のない子ども達に連帯責任のような処遇がされるのは避けてほしいと思います。
でも、永田さんの教育係の野田さんだって責任とるんだから、子どものやったことには教育者たる校長が責任とったらいいじゃありませんか。
元教員としては、担任の先生が「卒業式が終わっても3月いっぱいは高校在学。羽目はずすと、恐ろしいことに…云々」いい忘れたんだろうか?と疑問に思いました。法律と実社会のルールを教え、危機管理能力として「最悪の事態も予測せよ」というのは「最後の教え」として非常に大切だと思いました。道民として複雑な思いです・・・。
これからもよろしくお願いいたします。
私も、卒業のとき先生に言われました。31日まではうちの生徒やと。でも羽目外してましたが・・
その分、夏は頑張って欲しいと思います
私は昨年に引き続き、関西の応援に甲子園へ行く予定です
一つは、部員の人数がたくさんい過ぎる事。もう一つは、いわゆる一軍に残らなければ、極端に試合の機会が限られてしまうという事です。近所の高校の部員50人ぐらいのチームでも、3年間試合に出られなかったと言うのは、学年に一人二人いました。
両方ともに言えるのは「かまってもらえなかった」…言葉悪くてすみませんが、そういう多人数の部活のチームで、全員が一人間として、存在価値を認められて、指導陣が対応されていたか、疑問な所もたくさんあります。
逆に、私がアドバイザーをしていたチームは、多くても部員が20人。問題行動も沢山あり、ずいぶんゴタゴタも経験しましたが、指導陣の集団的な行動で、そのゴタゴタを乗り越え成長していきました。今では皆、立派な社会人として頑張っています。
去年の明徳の事件以降続発するこの手の事件。学校スポーツのあり方もふくめて考えなきゃいけないのかな、と思わされた事件でした。長文ですみません。失礼します。
そういえばかつて丸山真男が『日本の思想』の中で「無限の責任」なんてなことを言ってました。摂政・裕仁(昭和天皇)を難波大介が狙撃した「虎ノ門事件」というのがありましたね。そのとき難波のみならず家族、学校、そして村ごと批判にさらされ、村ごと、天皇や国に対してひれふした、とのことです。これとはぜんぜん違う問題ですが、あんまり責任のない人にまで「反省」や「罰」の範囲を広げてしまうのは、この事件と変わりませんね。(なお、私は天皇制廃止論者なので、誤解なさらないでください)
他にも、何か「騒ぎを起こした」人を非難するとき、非難する範囲がどんどん広がっていくのは、日本社会の特徴なんでしょうか。(他の国、地域ではどうなのかなあ、中国や韓国、台湾のように、家族の紐帯の強い国や地域ならありえますね。)
夏は、ぜひ頑張ってほしいですね。くさらず頑張る姿は感動を呼ぶでしょう。
>びーいとうさん
スポーツなんだけど教育だってことを、忘れてはならないと思いますね。
レギュラーになれる子もなれない子も、自分ひとりの実力の帰結ではなくこのチームだから頑張れるんだと、そう思えるようなチームづくりができたらなと思います。
>京都の大学院生さん
かつて「一億総懺悔」っていう言葉もありましたね。でもその一方で、市役所で不祥事が起こったら、その職員の個人問題になる。けっきょく、責任を逃れられるのは強者という気がします。
小原さんのおっしゃるように責任を負わされる側は、時の権力の意思や政策に究極的には規定されるのでしょう。役所の不祥事に関しては、役所全体で責任を負うわけにもいかないでしょうから責任の所在は「とかげの尻尾きり」よろしく個人に負わされる。他方で、権力への反抗者に関して、権力は、組織系統的に弾圧や監視をすることになるので、難波大介の家族や出身の村は、「かかわりのある」ものだと権力に判断されたくなかったのでしょうから全体で天皇にひれふしたのでしょう。
「一億総懺悔」も、東くにのみやがいいだしたことですけど、戦後、自分たちの権力の保持を狙って、戦争の責任主体をぼかすために国民の「総懺悔」という全体的な責任の取らせ方を考えたのでしょう。
こういう角度からみると、権力の責任の取り方(あるいはとらない方法)は、日本に限らず、世界中かなり普遍性があるといえますね。
しかし、気になるのは、駒大苫小牧という高校の管理職は、「なにが悪かったか、どういう責任が、誰にあるのか」を議論したんでしょうか。責任主体を明らかにしているならば、1,2年生まで責任を負わせるような決定をしているとは思えません。
ただ、責任をどこかに転嫁するにしろ、しないにしろ、自分の行為がなんだったのかを自覚していたかどうか、という点では日本の指導者はかなり怪しいですね。そして駒大苫小牧の管理職も、生徒が警察に補導されたという点で、「まずいことをしてくれた」とか「伝統が傷つく」とかいう考えはあったと思いますが、「なんでこんなことが起こったか」という総括はしていないのではないかと思います。
気持ちで思わず書いてしまった記事でしたが、ずいぶん見えてきた気がします。皆さんありがとうございます。