お久しぶりです。1ヶ月ぶりの更新です。
福島の相馬地区に、お手伝いに寄せていただいていました。
(といっても1ヶ月行っていたわけではなく、たった4日間ですが。)
さすがに書くことが多くありますので、分けて数日以内に書いていきたいと思います。
朝イチから高速道路を走って走って、福島市に着いたのが夕方。安いビジネスホテルで泊まりました。
コンビニで買った「るるぶ福島’12」。
12年版というので、震災後のものかと思ったら、初版印刷が3月15日。発行が4月1日でした。
何というタイミングか・・。
裏表紙を1枚めくると、東京電力の全面広告です。
「るるぶ」には原発のある地域の観光情報は一つも載っていませんでした。
書店の店先。
福島市内は、街をゆく人の外見は京都と変わりありませんでしたが、やはり意識は違うと感じさせられました。
2日目は南相馬市へ。
活動に出る前に、村松えみこ相馬市議から状況をお聞きしました。
メモをおこしたものですので、間違いもあろうかと思います。そのつもりでお読みください。(以下メモ)
【相馬市の努力と、自治体としての危機】
相馬市は市の財政調整基金が28億あった。
国待ちにならず、積極的に予算執行しガレキを撤去、仮設住宅も6月で全員が入居できた。
義援金は5億、子ども養育のための別枠が1億以上。計7億円くらいが下りた。
他の自治体と比べて進んでいるといえる。生活支援として市独自に一人10万円、ふとん一組、米などを支給。
財政調整基金は1億になってしまった。今後国から入る分を考えても5億くらいにしかならない見込み。
ガレキ撤去もすべて国負担ではなく、実は5%市の持ち出しがあり、100億規模の事業なので5億は市の持ち出し。
6月補正で予算化した121戸建設の災害公営住宅や、5棟建設の災害公営集合住宅も、国は3分の2しか出さない。
このままでは財政破たんの市町村が続々出かねない。
【「被災者」とは誰なのか】
しかし半年もたつと様々な苦情、要求が出てきている。
例えば買い物不便の声など。移動販売やリヤカーを引いての御用聞きに行政として支援をしたり、ミニバス「買い物号」の充実をしている。
津波にあわなかった市民から「何で俺らには義援金もないのか」の声。
行政は津波にあった人から支援を行うのが筋と考えて進めてきたが、家屋に被害がなくても生業が失われているというのが実態。
市の緊急雇用事業や民間の雇用への支援も「被災者」が対象になっている。
市議自身も、色々言われて正直つらい気持ちになることもある。
臨時の雇用がだいたいの人にゆきわたって、建設会社などが中心に90万円の国補助も生かして正規採用を多少は進めている。
仮設住宅、応急処置としての対策が限界に来ている。本格的な再建の展望が必要。
【生業の回復こそ】
放射能汚染の影響は深刻。漁業ができない。港を直しても仲買が買ってくれない。
米も何か所かセシウムが出た。売れない。若い人はJA職員なども含めて相馬の野菜は食べなくなっている。
本当に産業を復活させるには、海底の泥を全部やりかえられるくらいの技術開発が必要。地上も表土すべてをやりかえるとか。
相馬市では小中学生150名が転出。乳幼児はさらに避難の動きが強い。一方、さらに危険な南相馬市からの転入もある。
何を基盤にこの街を再構築したらいいのか悩む。家が建っても、東電が補償してくれても、それだけでは生活してゆけない。
原発事故の補償は農漁業者にしかない。ここ数年の粗利益から20%差し引く。
米も来年つくれるかどうかは未定。
今相馬ではやっているものは、飲み屋とパチンコ屋と代行運転だけだ。
田の維持で反あたり3万5千出たり、漁業補償があったりしても、結局は将来展望がないからアルコール依存が増えていく。
【議員として挑んでいく】
これまで精神障害者の居場所づくりに取り組んできた。
NPOで8か所グループホームをつくってきた。
精神の人も仮設住宅にけっこう入っているが、具合が悪くなり緊急入院なども多い。そのとき、仮設に帰すというわけにもいかない。
原発事故で市内に精神科の体制が全くなくなり、市にさんざん言って、全国から医師を呼びアウトリーチ型で福祉とも連携するしくみをつくった。日本初。
見学、視察など、小さなまちおこしにつながればと思う。行政だけではできない。私がやらねばならない。
地元に帰っても、思い出してもらって、1回だけでなく2回3回と相馬に来てほしい。
続きはまた。
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