普天間問題についてJ-Angleに書こうと5月、那覇へ、続いてサイパンへ飛んだ。マリアナ諸島の一つ、テニアン島が基地誘致に手をあげているということで見ておきたいと思ったのだ。テニアンについては後日に投稿するとして沖縄についてちょっとご報告。まず訪問したのはひめゆりの塔、そして普天間基地だった。
季節は春と夏だけの緑濃き沖縄、エメラルドの水淡き沖縄の海、桃色珊瑚の砕片が打ち寄せられるきれいな浜辺。この美しい沖縄の島に1945年3月、米軍が上陸作戦を開始した沖縄戦では昼夜の区別なく村は焼かれ、地面は数十万人の鮮血で染められた。首里城から死の道をさ迷い歩き、降り続く豪雨で包帯には蛆が涌き、20万人もの人々が戦死したという。ひめゆり資料館によると、ひめゆり学徒隊は沖縄陸軍病院に配属され、負傷兵看護や死体埋葬に追われたが、5月下旬、日本軍と共に島の南端部に向かい、激しい砲爆撃の中、6月18日、米軍が包囲する戦場を逃げまどい、砲弾で、ガス弾で、また自らの手榴弾で命を絶った。240人中136人が死亡したが日本軍は女子学生を助けるどころか冷酷な行為もあったという。
日本の基地の75%が沖縄にあることは皆さんご承知だ。沖縄の中に基地があるのか、基地の中に沖縄があるのかわからないと言われるが、普天間に向かう途上でバスから嘉手納基地の施設を眺望し、面積の殆んどが基地であると実感した。嘉手納市は80%が基地で、世界で3番目に忙しい飛行場だそうだ。那覇市では沖縄一の繁華街、活気溢れる国際通りを歩き、牧志駅から儀保駅までモノレールを楽しみ、タクシーで普天間基地へ。嘉数の高台から普天間基地が一望出来、滑走路までよく見えると聞き、はやる心で展望台へ上がった。だが普天間は生憎の雨、筆者の身体も心も沖縄の人々の涙雨で濡れそぼった。基地の隣の学校で騒音と不安の中学ぶ子どもやその母親たちの心情を慮って。沖縄戦慰霊塔近くにガジュマル、デイゴ、夕顔が咲き競っていた。 長く沖縄で教師をしてきた友人に話を聞いた。沖縄の地で学ぶ生徒の辛さ、教師や親たちの心労を語ったあと、「鳩山首相は今コテンパンに批判されているが、沖縄の基地の問題は故橋本総理時以来14年間放置され、当時から何も全く変わっていない。鳩山さんがやろうとしたことは秘密文書公開、仕分け等、評価できる。政権が変わって明らかになったことが多いのだから。5月末決着と限定せず、時間がかかっても公約を守る努力をしてほしい」だった。筆者も同感だった。戦後65年、沖縄の基地にはアメリカは「余りにもお金をかけ過ぎているので、手放さないだろうから鳩山氏の談判は難しいだろう」とは友人も筆者も予想していたが、談判どころか逆だった。5月末に辺野古移設が閣議決定され、日米合意に辺野古の名前が盛り込まれた。「少しずつでも沖縄の負担を軽減してほしい」という沖縄の願いをよそに。「沖縄の心よりアメリカの声に耳を傾けた」と思われている鳩山さん。彼が沖縄県民の意見を代表してアメリカと談判したなら多くの人々に感謝・評価されたであろう。 杭打ちで美しい珊瑚礁、淡いエメラルドの海、可愛いサンゴが打ち上げられる白い砂浜が泣く。基地を撤去して沖縄を元の姿に戻してもらって初めて沖縄の戦後が終わるのです」と沖縄の人々が語っている。日本中が政党を超えてもっともっと沖縄県民の苦悩に心を寄せ、沖縄の負担軽減に問題意識を持たなければならない。(彩の渦輪)
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