あけぼの

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妻の母堂逝去

2010-02-10 11:35:54 | ブログ

妻の母、八重子さんは誕生日24日の1日前、老衰のため郷里の老人ホームで逝った。122日お見舞いに行き、軽い寝息をかいておられたベッド上のお姿から拝顔し、忍びよる臨終を見た。96歳の生涯、「有難う!」を唱えて合掌した。賢い昭和の母だった。奇しくも彼女にとって私が最後に会った親族だったようだ。わが心中に存在する母、綾子への思いと去来する母への慕情が、「親が生きているうちに会うべきだ」という信念に通じ、我が母の死に目に会えなかった代わりだったろうが、八重子さんの死の直前に、アメリカで教職についている妻の代わりに妻の母に会っておけたのだった。

八重子母堂に対して思い出せば私は結婚当時から辛酸を舐めさせた娘の連れ合いであったはず。「こんなはずではなかった、この結婚は失敗だった!」と思われたに違いない。最初の賞与は5000円と餅代だけ。翌年から給料遅配が3カ月続いた。中小企業勤めの相手に嫁がしたことに後悔の念に駆られたことだろう。1年後、長男(初孫)が生まれ、手伝いに東京に行ってみたら6畳のアパート一間、台所、便所は共同。勿論、風呂などない。井戸端で子どものおしめを洗濯しても雨ふりは乾かす場所もない。部屋で石油ストーブを使ったら大家が飛んできて、「危ないから禁止している」という。仕方なくおしめの1枚、1枚をアイロンを当てて乾かす始末だった。その折、余りにも情けなかったのか涙がアイロンの上にポタリ、ポタリと落ちた。その都度、ジュン、ジュンと音がしてワイフがそれに気づいたという。大学へ進学する女子が少なかった当時の大学卒の娘の親として、新婚の娘の生活の現実に耐えられない心境であったことだろう。

子どもを連れて里帰りした折、洗濯した子どもの下着や服が買ったものでなく、全部、娘が自分の服地や下着をほどいたり、夫の股引のすそが子どもの袖になっている手作りで情けながったそうだ。隣に干してある兄嫁の同い年の子どもの衣類は既製品のピカピカ。比較して余りにもみすぼらしかったことから、「こんなところに娘を嫁がしたのか」と思われたくないので、多くの運転手の手前「見えないところに干してくれ」と言われたとワイフが後に語っていた。

時は過ぎ、老いた母が自慢出来たのは娘がUSで学位をとり、故郷で講演会をやり、郷里の同級生主催で博士号取得パーティをやってもらったことだった。「その母ここにあり」と主役になれて溜飲をさげ、晴れ晴れとした気分になられたと思う。(自悠人)