私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



Johann Sebastian Bach: Das Wohltemperierte Clavier. Faksimile-Reihen Bachscher Werke und Schriftstücke.
Herausgegeben vom Bach-Archiv Leipzig, Band 5, VEB Deutscher Verlag für Musik Leipzig, 1971

―「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の自筆譜表紙に描かれた渦巻き模様を巡る論議について―
<<<前回の続き、IIIの後半)

 同じく2005年にベルギー人でパリ在住のチェンバロ製作者、エミール・ジョバンが、レーマンの論文に応じる形で発表した「バッハと巧みに調律された鍵盤楽器」(注7)において、独自の「解読」を提起している。ジョバンは、左の中にひとつの渦巻を含む3つの渦巻き、それに続く3つの単純な渦巻き、その右の中に2つの渦巻を含む5つの渦巻きに加え、両脇の模様に新たな解釈を加えている。ジョバンは、オルガン製作者のクウェンティン・ブルーメンローダーの記述を引用して、左脇の模様を”f”と読み、音名のFを意味していると考え、右脇の模様は、先ず”C”、末尾に”3”、そしてその間を円が繋いでいると考える。それによって、CとEの音程が純正長三度であることを意味していると解釈している。さらにレーマンと同様、中に2つの渦巻を含む渦巻きの最も右にある渦巻の左にある、下の”C”の大文字のひげ飾りをCと読み、この渦巻きがCであることを示していると解釈している。ジョバンはこの中にある1つの渦巻は右回りの渦で、中にある2つの渦巻は左回りの渦であると記しているが、これは明らかに間違っており(翻訳の問題かも知れないが)、渦巻はすべて右回りに画かれている。ジョバンの解釈によれば、中の渦巻が左回りのC-G、G-D、D-A、A-E、E-H(注8)の5度は、C-Eの長三度を純正にするため、1/4シントニック・コンマ狭くする。そして、H-Fis、Fis-Cis、Cis-Gis(As)は純正、Gis(As)-Dis(Es)、Dis(Es)-B、B-Fは中の渦巻が右回りなので、1/4シントニック・コンマ多く狭めた分を三等分して拡げる。そして最終の5度圏F-Cは純正となる。その結果、C-E、G-Hの長三度が純正になるが、 その分の差が他の音程に割り振られることになり、隔たった調における長三度は、レーマンの音律より響きが劣っているところが多い。完全五度は、3つが純正、5つが中全音律の五度、いわゆるミーントーン五度である。
 2010年2月3日に、ギター製作者田中清人の「ギター工房Kiyondo」のウェブサイト内に公開された鈴木勝による「 バッハの音律はこれだ!渦巻模様の謎が解けた」(注9)において、鈴木が独自に考案したという「解読」が披露されている。鈴木の説明によると、橋本絹代の「やわらかなバッハ」によって、この問題を知り、この装飾模様が、実際に音律を示しているものかどうかを考え、独自の「解読」に到達したという。バッハがこの渦巻き模様をなめらかに躊躇無く画いていることは、すでに弟子達などに教える際に画いていたためではないかと鈴木は考える。そして鈴木は、右端の装飾を加えて、1-3-3-5の異なる渦巻き模様が合計12個あることによって、1オクターヴの12音を意味しており、 それをつなぐ弧が音と音を繋ぐスラーを表したもので、 単なる偶然ではなく、意図して画いたものにしか思えないと主張する。それに加え、右端の部分は2つの一重の渦と考えている。続いてレーマンとジョバンの説を批判的に紹介した上で、上部渦巻き模様の中に2重の渦巻を持つ5つの内の最も右の渦巻の左に接するように書かれている”C”のひげ飾りをCと読んで、この渦巻がCの位置を示していると、レーマンやジョバンと同じ考えを示している。左の中に一重の渦を含む3つの渦巻きは、中の渦が右寄りに画かれているので、純正より高く、右の中に二重の渦を含む5つの渦巻きは、中の渦が左寄りに画かれているので、純正より低くすると読む。さらに、右端の模様は、「CとEと純正の一重丸」であると推理して「C-Eは純正」と読む。鈴木はここで、中全音律がいまだに支配的であった当時、「バッハは純正5度だけでなく純正3度が含まれない音律は認めていなかった」と推理し、C-Eが純正になるには、C-G、G-D、D-A、A-EにE-Hを加えた5つの渦巻き模様は、1/4シントニック・コンマ減でなければならず、これは中全音律の調律と同じで、バッハがこの音程にこだわった理由であると主張する。単純な一重の渦巻を純正5度と解釈する点は多くの「解読」と同様であるが、中に一重の渦を持つ3つの渦巻は、E-H間で1/4シントニック・コンマ余計に狭めたために生じた分を、単に「純正より少し広い5度音程」に調律することを意味するとだけ述べて、具体的な調整法や幅は述べていない。問題は、通常左から右に向かって順次高くなる音程、あるいはCを頂点とした右回りの円で五度間隔を表す慣習と、左から右へ読む方向との矛盾をどう解決するかであるが、鈴木はCを頂点として、右回りにC-G、G-D、D-A、と五度間隔に取って行く円を最後のFとCの間で切って、その両端を持って左右に拡げると、バッハの渦巻き模様になると説明している。この円を切って左右に拡げるという発想は、右から左へ五度圏を読むという不都合を解消するために考えあぐねた末に見出した手段と思われ、これはレーマンの渦巻き模様を天地逆にするという発想と基本的には同じである。この様にして得られた鈴木の「解読」は、結果的にジョバンの「解読」と一致している。
 このほかにも、フランシスとレーマンの「解読」案が提起された同じ2005年に、T.デントが「ザップ、レーマン並びに他の巧みな音律」(注10) において、ザップとレーマンの「解読」が基本的には一致していると言う観点から論じながら、この2人の「解読」を分析し、最後に自らの「解読」案を提起している。また、音楽学者で鍵盤楽器奏者のロバート・ヒルが、彼のウェブサイト(注11)で、この問題について自らの「解読」を含め触れているなど、様々な「解読」案や補足的な論議がされているが、それらの個々の細部には、ここでは触れない。
 以上で紹介した「解読」説によるオクターヴの12音の音程を、中全音律など主な音律及び平均律とともに下の表で示す。


IV
 このようなスパシューによる「解読」が公表されて以来続出した諸説を眺望してみると、その発端となったスパシューの場合は、ゼバスティアン・バッハの描いた装飾模様を、左から右へ素直に読んで解釈しており、その結果として得られる音律が妥当なものであるかどうかは別として、「解読」と主張することは可能だが、これを受けてザップが行った修正になると、音律の実用性が意識されるようになり、そのために様々な付随的な解釈が入り込むこととなって、もはや素直な「解読」とは言えなくなっている。フランシスの144通りもの音律の中から、渦巻き模様の組み合わせに合致するものを当てはめる「解読」や、レーマンのように、天地をひっくり返したり、装飾文字Cのひげ飾りを音名のCと読むという奇策を講じたり、あるいはジョバンや鈴木のように、左右の模様の新たな読み方を導入するようになると、その結果を果たして「解読」と読んで良いのかどうか疑わしくなってくる。むしろ、これらの諸説を並べてみると、「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の自筆譜の表紙に画かれた装飾模様は、単なる装飾模様以上のものではなく、バッハがこの作品を演奏するための音律を暗号化して示したとは思えなくなってくるのである。
 そして、ゼバスティアン・バッハは、日常的に身近な楽器を調律していたと思われ、その音律を秘儀的に暗号化して書き留める必要はなかったと考えるべきであろう。1999年のスパーシューの論文以来、様々な「解読」が発表されてきたが、その何れも数学者や数学に通じた音楽家達の間だけで交わされている、一種の知的遊びの域を超えていないというのが、筆者の結論である。
 なお、この項の内容の一部をもう少し詳細に論じ、バッハの渦巻き模様が、単なる装飾に過ぎないことを証明し、さらにバッハの採用していた音律がどのようなものであったかを考察したエッセイを、筆者のウェブサイト「湘南のバッハ研究室」内の「バッハ関連エッセイ集」のひとつとして公開しているので、興味のある方は参照されたい。PDFファイルとしてダウンロードの可能である。

* John Charles Francisのウェブサイト、”Keyboard Tuning of Johann Sebastian Bach"は、この問題に関しての概要、様々な説へのリンクなど、非常に有用なサイトである。


注7 Emile Jobin, “Bach et le Clavier bien Tempéré”, Association Clavecin en France、ここでは綿谷優子の要約 に基づいて紹介する。

注8 ここでは、ドイツ語の音名読みに従って記している。Hは英語の場合Bとなる。

注9 この鈴木の論文「バッハの音律はこれだ!渦巻模様の謎が解けた」は、日付がそのままではあるが、何度か内容が修正されており、ここで紹介した鈴木の主張は、2010年5月20日現在の内容に基づいている。

注10 T. Dent, “Zapf, Lehman and other Clavier-Well-Temperaments”, July, 2005

注11 ROERT HILL LIVEの"Bach!s Temperament?"参照

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