私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Johann Sebastian Bach: Pièces pour clavecin
Virgin Veritas 7243 5 45322 2 1
演奏:Pierre Hantaï (clavecin)

ピエール・アンタイ(Pierre Hantaï)は、1964年生まれのフランス国籍のチェンバロ奏者、指揮者である。父親はハンガリー生まれの画家、シモン・アンタイ(Simon Hantaï, 1922 - 2008)で、抽象画、特にカンバスを丸めて、それによって絵の具が広がり、転写される技法で知られている。ピエール・アンタイは、チェンバロをアーサー・ハースに習った後、2年間アムステルダムでグスタフ・レオンハルトの教えを受け、自身の模範とし、1980年代中頃から師の指揮の下で演奏活動を始めた。また、ジギスヴァルド・クイケンやフィリップ・ヘレヴェーともしばしば共演した。1990年代からは、独奏者、小規模のバロック音楽アンサンブルの指揮者としての活動を行っている。
 今回紹介するCDは、バッハの若い時代のチェンバロ作品を収録したヴァージン・レーベル盤である。演奏されている曲は、トッカータハ短調(BWV 911)とニ長調(BWV 912)、半音階的幻想曲とフーガニ短調(BWV 903)、幻想曲とフーガイ短調(BWV 944)、前奏曲とフーガイ短調(BWV 894)、前奏曲ハ短調(BWV 999)、前奏曲(BWV 923)とフーガ(BWV 951)ロ短調の7曲である。
 バッハのチェンバロのためのトッカータについては、「 バッハの7曲のトッカータ、バッハの初期の鍵盤楽器のための作品を聴く(その3)」で述べたように、いずれもバッハのヴァイマール時代(1708 - 1717)に作曲されたものである。特にニ長調のトッカータはその古い形(BWV 912a)が「メラー手稿」に含まれており、1703年から1707年の間、すでにアルンシュタット時代に記入されたものと考えられている。それに対してハ短調のトッカータは、1708年以降の作と思われる。
 半音階的幻想曲とフーガニ短調は、膨大な数の写譜が残っており、その中には相互の依存関係を判断することが困難な相違が多数存在する。さらに自筆譜が残されていないため、正確な作曲時期、その後のバッハによる加筆の経過を推定することが困難になっている。最も初期の状態を示すと思われる写譜には、ダルムシュタットの宮廷楽団の1730年代初めの多くの手稿に用いられていた用紙に記入された手稿と、かつてヴィルヘルム・ルストが所有していて現在は失われてしまった手稿がある。さらにヨハン・ルートヴィヒ・クレープスに由来する手稿の一つ(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 803)にヨハン・トービアス・クレープスによって記入された写譜が存在し、これがこの作品の作曲時期をヴァイマール時代にまで遡るのではないかとする根拠となっている。しかし、新バッハ全集の第V部門第9-2巻が校訂の基本としたのは、バッハの弟子であったヨハン・フリートリヒ・アグリコーラによる、おそらく1738年から1740年の間に作製されたと思われる写譜、同じくバッハの弟子であったヨハン・ゴットフリート・ミューテルによる写譜など、バッハのライプツィヒ時代に作製されたと思われる複数の手稿である。これらの現存する様々な写譜を比較すると、バッハは、何度もこの曲に手を加え、修正を加えていたように思われ、最終的な形になったのは、おそらく1730年代ではないかと思われる。新バッハ全集の校訂報告書には、かつて存在していたが現在は紛失してしまったものを含めて50以上の手稿が挙げられているが、これはかつて存在した写譜のほんの氷山の一角に過ぎないと、編纂を担当したウーヴェ・ヴォルフは記している*。バッハはこの作品を教材として弟子達に提供し、弟子達はまたその弟子達に伝えるという風にして、筆写譜が作製されていったのであろう。それは高度に技巧的であるのみならず、劇的なこの曲が広く愛好された結果であろう。
 幻想曲とフーガイ短調(BWV 944)は、多くの写譜の中で、アンドレアスバッハ本に含まれていることによって、遅くとも1710年から1714年の間に作曲されたものと推定され、様式的には1712年頃の作と考えられている。前奏曲とフーガイ短調(BWV 894)は、ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスに由来する手稿の一つ(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 801)にヨハン・トービアス・クレープスによって記入された写譜が存在し、これによってこの作品の作曲時期もヴァイマール時代にまで遡るのではないかと考えられる根拠となっている。すでに「リナルド・アレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノの演奏で聴くバッハの協奏曲」で述べたように、この曲は「フルート、ヴァイオリン、チェンバロと弦楽合奏のための協奏曲イ短調」(BWV 1044)の第1楽章と第3楽章の原曲となっている。
 前奏曲ハ短調(BWV 999)は、ヨハン・ペーター・ケルナーによるバッハの作品を多く含んだ重要な筆写譜(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 804)に含まれ、この手稿が唯一の原典となっている。このケルナーの写譜には、「ヨハン・ゼバスティアン・バッハのリュートのための前奏曲ハ短調(Praelude in C mol. pour La Lute. di Johann Sebastian Bach)」と記されているが、しばしば鍵盤楽器のための作品として出版されている。しかしその曲自体は、鍵盤楽器のための作品としては単純すぎるように見える。技巧的に鍵盤楽器には優しすぎ、音域も狭く、アルペジオ風の音型からなる全体が、むしろリュートでの演奏を想定して作曲された事を示しているように思える。CDに添付の小冊子に掲載されているデニス・コリンズの解説によると、ここではロ短調で演奏されているという。ケルナーの筆写は1727年以降に行われたが、様式的にケーテン時代(1717年-1723年)の作とも考えられている。
 前奏曲ロ短調(BWV 923)とフーガロ短調(BWV 951)は、しばしば一組の作品として筆写譜に掲載されている一方で、それぞれ別の写譜も多く存在する。フーガはトマソ・アルビノーニの1694年にヴェネツィアで出版されたトリオソナタ作品1の第8番の第2楽章の主題にもとづいている。従って本来このフーガは独立して作曲された可能性が高い。フーガの最も古い写譜は、ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスに由来する手稿の一つ(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 801)に、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによって記入されており、その作成時期は1714年から1717年の間と考えられている。
 これらの作品は、元はバッハのアルンシュタット、ヴァイマール時代に作曲され、その後手を加えられて最終的な形になったものもあるが、全体として見れば、若い時代の作風を持った作品と言えるだろう。バッハはその後、「インヴェンションとシンフォーニア」や「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」あるいは「イギリス組曲」、「フランス組曲」など、教育目的で作曲された作品を多く生み出し、やがて「6曲のパルティータ」や「イタリア風協奏曲」と「フランス風組曲」などを「クラフィーア練習曲集」として出版するようになる。
 ピエール・アンタイは、第2世代の演奏家に属し、全体として速いテンポを特徴としているが、演奏様式は、師と仰ぐグスタフ・レオンハルト同様、一音一音を克明に刻んで作品の本質に迫るものである。このCDに収録されている曲すべてに於いて、そのような入念な演奏解釈が聴き取れる。アンタイが演奏しているチェンバロは、ジョエル・カッツマンが1997年に製作したリュッカース・モデルである。録音は1997年11月にオランダ、ハールレムのバプティスト派教会で行われた。チェンバロの調律、ピッチは記されていない。なお、このCDは現在、他の3曲のトッカータや組曲ニ短調(BWV 996)、ソナタニ短調(BWV 964)等を収録したCDと2枚組で0724356247321の番号で販売されている。

発売元:Virgin


Virgin VERITAS 0724356247321

* Johann Sebastian Bach: Neue Ausgabe sämtlicher Werke Serie V Band 9,2 Sechs kleine Präludien, einzeln Überlieferte Klavierwerke I, kritischer Bericht von Uwe Wolf, Bärenreiter Kassel - Basel - London - New York - Prag, 2000 p. 141: このCDに収録された作品の原典や作曲年代については、この校訂報告書を参考にした。

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