私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Variationen für Cembalo
Musikproduktion Dabringhaus und Grimm MD+G L 3074
演奏:Waldemar Dölling (Cembalo)


 ハンス・レオ・ハスラー(Hans Leo Haßler von Roseneck, 1564 - 1612)は、ニュルンベルク生まれの作曲家で、両親は早くからオルガニストとしての教育をうけさせた。そしてレオンハルト・レヒナー(Leon(h)ard Lechner, c. 1553 - 1606)の教えを受け、1584年にはヴェネツィアでアンドレア・ガブリエリ(Andrea Gabrieli, c. 1510 - 1586)の教えを受け、甥のジオヴァンニ・ガブリエリ(Giovanni Gabrieli, 1557 - 1612)と知り合った。1585年には、アウクスブルクのオクタヴィアンII世・フォン・フッガー伯爵の宮廷オルガニストおよび聖モーリッツ教会のオルガニストに任命された。ハスラーは、オクタヴィアン伯爵の死後1601年にニュルンベルクに戻り、さしあたって商業と自動オルガンの開発と製作に従事した。1608年からはドレースデンの選帝候クリスティアン・フォン・ザクセンの宮廷オルガニストになった。ハスラーは1595年に2人の兄弟とともに皇帝ルドルフII世から貴族に取り立てられ、1604年には「フォン・ロゼネック(von Roseneck)」と言う称号を与えられた。ハスラーは1612年に皇帝マティアスの戴冠祝いのため、選帝候ヨハン・ルドルフI世に従ってフランクフルト・アム・マインに滞在し、当地で結核のため死亡した。ハスラーは、ルネサンス後期のポリフォニーと初期バロック、ヴェネツィアの簡潔で歌謡的なホモフォニーの転換期にあって、ミサやモテットではオルランド・ディ・ラッソやレオンハルト・レヒナーの後継者としての対位法的模倣の原則を守る一方、複合唱的作品においては、すでにヴェネツィアのバロック風の響きを取り入れている。残っている曲数は少ないものの、ハスラーのオルガン曲も、師匠であるアンドレア・ガブリエリの影響から出発して、独自の様式で、ルネサンスからバロックへの移行を先取りしている。ハスラーの最も重要な器楽曲は、今回紹介するCDに収録されている、チェンバロのための「『私がかって散歩に出かけたときに』に基づく31の変奏曲(Ich gieng einmal spatieren 31 mal verendert durch Herren J. L. H.)」である。この作品は、1637年から1640年の間に、おそらくフッガー家のために作製されたと思われる作者不明の手稿に由来する。従って作曲された時期は不明である。この変奏曲は、17世紀の例えばスウェーリンク、シャイト、パッヒェルベル等の歌謡を主題とした変奏曲に影響を与えている。
 この「私がかって散歩に出かけたときに」は、16世紀のフランスのリュート歌曲集、1603年に刊行されたジャン・バティスト・ベザールの「和声の財宝(Thesaurus harmonicus)」に「アルマンド・ノネット」、「若い女の子(Une jeune fillette)」として掲載されているのが初出である。この旋律は、コラール「私は神の許を離れない(Von Gott will ich nicht lassen)」として、今日も唱われている*。ハスラーの31の変奏曲は、旋律を基にした変奏や定旋律としてそれに装飾声部を加えるなど、基本的な変奏の技法によって展開しており、ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」やモーツアルトの「きらきら星変奏曲」と大きな相違はなく、時代を先取りした作品である。
 ザームエル・シャイト(Samuel Scheidt, 1587 - 1654)については、すでに「 ヨーロッパ各国のオルガン音楽を聴く:(5)ザームエル・シャイトの『タブラトゥーラ・ノーヴァ』」で述べた。1607年から1609年に、アムステルダムの旧教会のオルガニストであったヤン・ピエーテルスゾーン・スウェーリンクのもとで学び、その後マグデブルク大司教、ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ヴィルヘルムの宮廷オルガニストに迎えられた。シャイトが活動していた時期は、30年戦争と重なっており、1628年にはクリスティアン・ヴィルヘルム伯がヴァレンシュタインの軍隊から逃れてハレを去ると失職し、ハレ市がそれを救済するために音楽監督の地位を創設して彼を任命したがその後再び失職するなど、後半生は不安定な地位にあった。シャイトが1624年に出版したタブラトゥーラ・ノーヴァ(Tabulatura nova)は、ドイツで出版された声部ごとに1段の五線譜による総譜形式の鍵盤楽器のための最初の作品集である。3部からなる曲集の第1部と第2部には、コラールや詩編歌の変奏曲、ファンタージアやトッカータ、フーガ、カノン、世俗歌謡や舞曲による変奏曲を含み、第3部は、ラテン語のキュリエやマグニフィカート、聖歌による変奏曲などで構成されている。今回紹介するCDに収録されている「パッサメッツォ(Passamezzo)」は、その第1部に掲載されており、刊行の年以前、おそらくは直前に作曲されたと思われる。
 パッサメッツォというのは、16世紀から17世紀にかけてイタリアで流行した舞曲で、初出は、ノイジードラーの「新訂リュート曲集1536(Ein Newgeordnet künstlich Lautenbuch 1536)」に掲載されている「次はロマン地域の舞曲ワッシャ・メサ(Hie folget ein welscher tanz Waschs mesa)」という標題の曲である。さらに「パッサメサ、ロマン地域の舞曲(Passamesa Ein Welscher tanz)」(1540年)という例もある。パッサメッツォは、パヴァーヌの一種あるいはパヴァーヌより速いテンポの舞曲とされている場合もある。パヴァーヌが速いテンポのガリヤルドと対で奏されるように、パッサメッツォもサルタレッロと対になる事もある。パッサメッツォに特徴的なのは、特定の固執低音上の旋律の変奏である。シャイトのパッサメッツォも、この様な変奏の一種で、12の変奏からなっている。
 今回紹介するCDは、ヴァルデマール・デリンクの演奏によるムジークプロダクツィオーン・ダブリングハウス・ウント・グリム盤である。デリンクについては、チェンバロ、オルガン奏者あるいは通奏低音奏者として、ヘルベルト・フォン・カラヤンの録音に参加しているなどの情報以外見出すことが出来なかった。デリングが演奏しているのは、1640年にヨハネス・リュッカースが製作した2段鍵盤のチェンバロをもとにメルツドルフ社が製作した楽器である。メルツドルフ社は、1920年にザクセンのマルクノイキルヒェンに設立され、当初はリコーダーやギター、ヴァイオリンを製作していたが、やがて歴史的鍵盤楽器の製作をはじめ、1949年にはカールスルーエ=ゲッツリンゲンに工房を開設し、一家が中心となって楽器製作を行っている**。
 このCDでは、チェンバロは当然のことながら中全音律に調律されている。ピッチは記されていない。 1985年に発売されているが録音された年は不明である。ただ、このCDは、残念ながらMD+G盤にしては珍しく、現在廃盤になっているようである。

発売元:Musikiproduktion Dabringhaus und Grimm

* 「私がかって散歩に出かけたときに」の由来については、CDに添付されている小冊子のデリンクによる解説によった。

** メルツドルフ社および製作している楽器については、そのウェブサイトを参照。

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