私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Bach: 6 Solo Sonatas & Partitas
Onyx 4040
演奏:Viktoria Mullova (Violin)

バッハの「無伴奏ヴァイオリンのための3ソナタとパルティータ」(BWV 1001 - 1006)の自筆譜と作品の成立については、すでに「無伴奏ヴァイオリンのための作品の最高峰、バッハのソナタとパルティータ」で触れた。3つのソナタは、いわゆる「教会ソナタ(Sonata da chiesa)」形式で、緩-急-緩-急の4楽章構成、さらに第2楽章はフーガ、第4楽章はAABBの2部形式を取っている点でも一貫している。第2楽章のフーガは、旋律楽器での演奏という高度の技巧を要する曲で、3弦、時には4弦で、各声部の動きを表現することを求められる。一方3曲のパルティータは、それぞれ異なった楽章構成を取っている。パルティータ第1番は、アレマンダ、コレンテ、サラバンデ、テムポ・ディ・ボレア(ボレアはイタリア語でブレーを意味する)の4曲の舞曲にそれぞれドゥーブルと言う変奏が添えられている。パルティータ第2番は、アレマンダ、コレンテ、サラバンダ、ジガに続いて、有名なシャコンヌが来る。パルティータ第3番は、プレルーディオ(前奏曲)、ルール、ガヴォット・アン・ロンドー、メヌエットI & II、ブレー、ジーグと言う楽章構成である。ちなみに、6曲の無伴奏チェロ組曲は、このパルティータと同じ舞曲によって構成されている。
 今回紹介するCDは、現在世界有数のヴァイオリン奏者の一人、ヴィクトリア・ムローヴァによる「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の全曲を収録したオニックス版である。ヴィクトリア・ムローヴァは、1959年ロシア生まれのヴァイオリン奏者で、モスクワ中央音楽学校に学び、モスクワ音楽院でレオニード・コーガンに師事、1980年にヘルシンキでのシベリウス国際ヴァイオリン・コンクールで、1982年にチャイコフスキー・コンクールでそれぞれ優勝した。1983年にフィンランドでの演奏旅行中にソ連から亡命し、現在はロンドンに住んでいる。ムローヴァは、現在のトップクラスのヴァイオリニストとして、世界有数のオーケストラと共演するなど、国際的に活躍している。ムローヴァの録音は、これまでにも多くの賞を受賞している。
 ムローヴァがこの録音を行うまでの経過は、CDに添付されている小冊子に自身で書いている*。それによると、ムローヴァはバッハの音楽との間には非常に強い絆を感じていて、自分の人生に於いて中心的な役割を演ずることになると感じていた。しかし、実際にバッハの世界に近づき、真に理解するには長い期間にわたる挫折を経験することとなった。モスクワ音楽院に於いては、バッハの音楽を演奏するための厳格な規則を教えられ、その当時広く行われていたアプローチを基礎とした、規格化された美しい音、広く一貫した長音、長いフレージング、そして可能なら継続的な、一定のヴィブラートをすべての音に付ける、まるでオルガンのような音を求められた。この様な教育にもとづいた彼女の無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータの演奏は、硬直した、単調なものとなり、バロック音楽の基本的な原理を理解する備えが出来ていない故に、演奏する事が困難であった。1983年に西側に亡命した後は、各国の一流オーケストラとの共演や自身の演奏会に追われ、新しいレパートリーや音楽の理解を深める時間を見いだすことが困難な状態であった。この様なとき、パリにおけるリハーサルで、マルコ・ポスティンゲール(Marco Postinghel)という若いファゴット、通奏低音奏者に出会った。ムローヴァの文章では、それが何時のことかは書かれていないが、ジョン・シグウィックによるインタヴューによると1992年頃のようだ**。ムローヴァが書いているところによると、最初にポスティンゲールに会った日、彼は数時間の間に今まで聴いたことも想像したことも無かった古楽の真髄を話してくれて、それによってムローヴァは、今までバロック音楽に抱いていた観念を根底から覆された。ムローヴァは、すぐにバロック音楽を演奏するには何の準備も出来て居らず、そのために学ぶ時間が必要なことを悟り、予定していたバッハのヴァイオリンとチェンバロの為のソナタの録音を取りやめ、ポスティンゲールの案内を受けながら、古楽についてのあらゆる事の研究に熱中した。そしてバッハの音楽をより深く理解するために、ビーバー、ルクレール、タルティーニ、コレッリ、ヴィヴァルディなど多くの作曲家について読み、ハルノンクール、ガーディナー、ジオヴァンニ・アントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコ、オッターヴィオ・ダントネ等の演奏をコンサートや録音で聴き、それらにすっかり魅了された。そしてさらに、ポスティゲールの助力を受けながら、バロック音楽のレパートリーを新たに、そして体系的に学んだ。最初はモダン楽器を用いていたが、18世紀の美的感覚への理解が深まるに従って、羊腸弦とバロック式の弓に変える必要を感じるようになった。やがて知らないうちに彼女の探求を助けてくれた音楽家達が、演奏会への共演の話を持ちかけてくれるようになり、ますますバロック音楽の研究に熱中し、バロックのレパートリーが、彼女の芸術家としての生活の中心的位置を占めるようになったという。ムローヴァは、やがてジオヴァンニ・バッティスタ・グアダニーニ( Giovanni Battista Guadagnini, 1711 - 1786)の1750年作のヴァイオリンを購入し、従来から使用していた1723年ストラディヴァリウス作の「ジュール・フォーク」という名のヴァイオリンとともに使用するようになった。しかしムローヴァはそれ以前にも、ストラディヴァリの羊腸弦を張り、バロック式弓を用いて、オーケストラ・オヴ・ジ・エイジ・オヴ・エンライトゥンメント、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮のオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク、ジオヴァンニ・アントニーニ指揮のイル・ジャルディーノ・アルモニコと共演をして、録音も行っていた。
 今回紹介する「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲の録音は、2007年3月18日から19日と2008年10月20日から22日にイタリアのボルツァーノで行われた***。したがって、ムローヴァがポスティンゲールに出会って、本格的にバロック音楽の研究を始めてから15年の年月を要したことになる。演奏しているヴァイオリンは、上述の1750年G. B. グアダニーニ作、羊腸弦を張り、イタリアの製作者ワルター・バルビエロ作のバロック式弓を用いている。ピッチは a’ = 415 Hz である。
 ムローヴァは、もともと曲を主観的に解釈したり、劇的に盛り上げたりする奏者ではないようだ。このことは、モダン楽器だが、1992年1月に東京のサントリーホールで行われた演奏会の録音によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のCDや、1992年8月と1993年6月に録音されたバッハのパルティータ3曲のCDを聴いても分かる。ブラームスのヴァイオリン協奏曲に於いても、楽譜を徹底的に研究し、いかなる細部もおろそかにせず、それでいて杓子定規で表情に乏しい演奏になることなく、曲の本質をとらえたそして徹底して美しい音による演奏を行っている。バッハのパルティータに於いても同様で、決して従来の演奏にありがちな、自己主張の強い演奏になっていない。それは、彼女の演奏が「冷たい」と評される事にもなっているようだが、今回の録音を聴いて、それは見当違いに思えた。ムローヴァの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の演奏は、全く気負いや演出を排除したもので、音楽そのものを自然の流れに任せて展開しているように思える。全曲を通じてその音はあくまでも美しく、耳障りな響きは聞かれない。緩急のテンポの対比を明瞭に付けて、最近のオリジナル楽器の奏者に多い、速いテンポでアクセントを強調して演奏する事はない。ソナタ第1番の第1楽章から、自然に音楽が流れて行く。第4楽章のプレストは、まさしくプレストのテンポ指示通りの演奏である。ソナタ第3番の第4楽章アレグロ・アッサイも同様である。この全曲録音に向けて、長年積み重ねてきた研究は、決して細部にとらわれる演奏とはならず、あくまでも自然な音楽の流れとして表現され、極端に当時の奏法を意識した、強調した強弱や音価の延び縮みとなることはない。パルティータ第2番のシャコンヌを例に取ると、全体に僅かな強弱の陰影を付けながら、4小節単位の変奏が積み重ねられ、最後を劇的に盛り上げることもなく、曲そのもののすばらしさが浮き上がってくる演奏である。
 オニックスは、2005年にソニーBMG. UKのクラシック責任者クリス・クラッカーと前のデッカの副社長ポール・モズレーによって設立されたイギリスのレーベルである。CDの販売の減少によって、弱体化したメジャー・レーベルに代わって、国際的な名声を有する音楽家達を起用したCDを企画販売する企業である。発売枚数は毎月1枚程度で、現在およそ100枚が発売されている。今回紹介するCDでは、ムローヴァ自身が制作者になっており、演奏の全責任を負っているようだ。この演奏を聴いて、「ヴァイオリンとチェンバロのための6曲のソナタ」など、バロック・ヴァイオリンによる他の演奏も聴いてみたくなった。
 バロックヴァイオリンによるバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の録音は、現在ではヤープ・シュレーダーやジギスヴァルト・クイケン、寺神戸亮、レイチェル・ポッジャーなど多数に上るが、今回のムローヴァによる録音は、さらに選択の幅を拡げる事となった。

発売元:Onyx

* この文章は、オニックスのサイトにおけるこのCDの紹介ページに英語原文、独、仏、伊訳が掲載されていて、読むことが出来る。

** このインタヴューは、”CultureKiosqu Klassik Net”と言うサイト内の”Mulling over Mulova by John Sidgwick“で読むことが出来る。

*** この2007年3月18日から19日の録音と同時に、3月16日から19日にかけて、同じくバッハの「ヴァイオリンとチェンバロの為の6曲のソナタ」(BWV 1014 - 1019)他の録音も行われている。

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