
Works for 2 harpsichords
Globe GLO 5179
演奏:Richard Egarr & Patrick Ayrton (harpsichord)
バッハのチェンバロ協奏曲は、いずれも一つないしは複数の楽器のための協奏曲の編曲と考えられている。その内5曲は原曲が存在する。その外にも、自筆譜が存在する曲の場合、その記譜法などから原曲の存在が推定出来、実際に原曲の復元も行われている。その中で、2台のチェンバロのための協奏曲ハ長調(BWV 1061)は、自筆譜が存在せず、バッハの死後に作製された写譜が、複数存在するだけである。それに対して、バッハとアンナ・マグダレーナ・バッハによって作製されたチェンバロ1、チェンバロ2のパート譜には、バッハの自筆の「J. S. バッハの二つのチェンバロのための協奏曲(Concerto, a due Cembali. di J. S. Bach)」という標題が記されており、さらにこれとは別系統の1850年以降に作製された総譜の写譜も存在する。この様な原典の状態から、この協奏曲に関しては、伴奏のない2台のチェンバロのための協奏曲(BWV 1061a)が原曲ではないかと考えられるようになった。さらにこれを補強するのは、この協奏曲の場合、弦楽合奏による伴奏には、独自の旋律や楽句が無く、いずれかのチェンバロが常に演奏しており、伴奏なしでも成立するという事実である。
このオリジナルのパート譜は、バッハが曲の標題や楽章の表示、第1楽章165小節のアダージョの指定、楽譜の部分的は修正を行った以外は、アンナ・マグダレーナ・バッハの手になる。その事により、これに先行し手本となった自筆の総譜があったことが分かる。パート譜の作成時期は、両者の筆跡や用紙から1732年か1733年と考えられている。このパート譜は、管弦楽伴奏付きの、1800年頃に作製され、かつてバッハの最初の伝記作者ヨハン・ニコラウス・フォルケルが所有していた総譜の写譜とともに伝承されている。しかしこの総譜の2台のチェンバロのパートは、オリジナルのパート譜を手本に作製されたもので、この写譜を含む伴奏付きの協奏曲(BWV 1061)の写譜の手本となったオリジナルの総譜(自筆譜)の存在が不明で、管弦楽伴奏が果たしてバッハによるものかどうかの疑問も提起されているが、おそらくこれは根拠のないものであろう。伴奏付きの協奏曲の作曲時期は、伴奏なしの曲より後であること以外は不明であるが、おそらく1729年からバッハが指揮を引き受けていた、ライプツィヒ大学の学生からなるコレーギウム・ムジクムの、ツィンマーマンのコーヒーハウスにおける演奏会のためであったと思われる。
全曲にわたって2台のチェンバロによる合奏と対話からなり、特に第3楽章のフーガは、弦楽伴奏のない方が、より緊張感に富んで劇的である。交互に独奏で奏される展開部には、時折掛け合いを交わす部分があり、これらが弦楽伴奏の必要がないことを特に感じさせる。
今回紹介するCDは、リチャード・エガーとパトリック・アイルトンのチェンバロ演奏による「2台のチェンバロのための作品集」と題するグローブ盤である。バッハの協奏曲の他に、ヨハン・マッテゾン(Johann Mattheson, 1681 - 1764)の「ソナタと組曲ト長調」、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710 - 1784)の「2台のチェンバロのための協奏曲ヘ長調」(F. 10)それにヨハン・ルートヴィヒ・クレープス(Johann Ludwig Krebs, 1713 - 1780)の「2台のチェンバロのための協奏曲イ短調」が収録されている。ヨハン・マッテゾンは、ハンブルクの裕福な商人の家に生まれ、広範囲の教育を受け、語学も堪能で、鍵盤楽器、ヴァイオリンなど音楽の教育も受けた。マッテゾンは、1703年から1707年までハンブルクにいたヘンデルと出会い、親しい交際を続ける一方、1704年12月にはマッテゾンのオペラ「クレオパトラ」を巡って論争になり、決闘にまで発展したが、幸いマッテゾンの撃った弾がヘンデルの上着のボタンにあたり、事なきを得た。その後二人は生涯にわたる友人関係にあった。マッテゾンは1715年にマリア聖堂の副牧師、1718年には音楽監督に就任し、1728年までその地位にあった。後年難聴に陥りその後はもっぱら音楽関係の著作を多数出版した。中でも「完全なる楽長(Der vollkommene Capellmeister)」(1739年)や音楽家達の生涯、作品、活動を紹介した「栄光の門の礎(Grundlage einer Ehren-Pforte)」(1740年)は、当時の音楽事情を伝える貴重な著作として、今日に至るまで高く評価されている。マッテゾンの音楽作品は、6つのオペラ、33のオラトーリオ、それに管弦楽や室内楽作品がある。「ソナタと組曲ト長調」は、1705年にハンブルク駐在のイギリス公使の息子、シリル・ウィッチに献呈された。ウィッチはおそらくマッテゾンの教えを受けていたのであろう、技巧的に対等な二人の奏者による合奏の形式で書かれている。「ソナタ」と題する長い楽章の後に、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジークが続く。
バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの「2台のチェンバロのための協奏曲ヘ長調」は、ドレースデンのソフィア教会のオルガニストであっ1733年から1746年までの間に作曲された。第1楽章と第2楽章は、バロックの協奏曲の要素とギャラント様式が混合しており、その一方第3楽章はソロとテュッティからなるバロックの協奏曲様式が支配的である。
ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスは、1714年頃から1717年までバッハの教えを受けていたヨハン・トービアス・クレープスの息子として1713年に生まれ、1726年にライプツィヒのトーマス学校に入学してから、1737年にライプツィヒ大学を修了し、ツヴィカウのマリア教会のオルガニストに就任するまで、バッハの弟子として多くの写譜にも従事していた。クレープスは、オルガン奏者、作曲家として高く評価されていた。「2台のチェンバロのための協奏曲イ短調」は、ドレースデンの宮廷のために作曲され、1753年に演奏された。フリーデマン・バッハの作品同様、3つの楽章はそれぞれ異なった様式で、第1楽章はヴィヴァルディの様式で、第1チェンバロは独奏、第2チェンバロが伴奏という役割が明確に分かれている。第2楽章はギャラント様式の、全く異なる世界を描く。第3楽章は、2台のチェンバロが対等に対話する生き生きとした曲となっている。
バッハとマッテゾンが同世代、そしてヴィルヘルム・フリーデマン・バッハとヨハン・ルートヴィヒ・クレープスが同世代で、後者は前者の一世代後と言うことになり、これら4曲の2台のチェンバロのための作品は、二つの世代の音楽様式の相違を比較するに都合の良い選曲である。
リチャード・エガーは、イギリス生まれの鍵盤楽器奏者、指揮者で、イギリスで音楽教育を受けた後、グスタフ・レオンハルトの教えを受けている。鍵盤楽器奏者として活躍する一方、ロンドン・バロックに通奏低音奏者として加わっていたり、ヴァイオリニストのアンドリュー・マンゼと共演している。2006年からは、クリストファー・ホグウッドの後任として、アカデミー・オヴ・エインシェント・ミュージックの音楽監督の地位にある。パトリック・アイルトンは、1961年イギリス生まれの鍵盤楽器奏者で、スイス、オーストリアで学んだ後チェンバロをトン・コープマンに学び、その後ヨーロッパ各国、日本、アメリカ等で幅広く活動している。エガーが演奏しているチェンバロは、以前に「バッハのゴルトベルク変奏曲の『完全版』を聴く」で紹介しているCDで演奏している1638年アントワープのリュッカース作になるチェンバロをジョエル・カッツマンが1991年に製作した複製である。エガーはこの楽器を多くのCDの演奏で使用している。アイルトンが演奏しているチェンバロも、同じくジョエル・カッツマンが1997年に製作した、1638年リュッカース作の楽器の複製である。
録音は1998年3月にオランダのユトレヒトで行われた。演奏のピッチや調律については、何も書かれていない。
発売元:Globe
注)バッハのチェンバロ協奏曲(BWV 1061, 1061a)については、新バッハ全集第II部門第5巻、2台のチェンバロのための協奏曲のカール・ヘラーとハンス=ヨアヒム・シュルツェによる校訂報告書を参考にした。ヨハン・マッテゾン、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハおよびヨハン・ルートヴィヒ・クレープストその作品については、CDに添付の小冊子に掲載されている、リチャード・エガーとパトリック・アイルトンによる解説およびウィキペディアドイツ語版のそれぞれの作曲家の項目を参考にした。

クラシック音楽鑑賞をテーマとするブログを、ランキング形式で紹介するサイト。
興味ある人はこのアイコンをクリックしてください。
| Trackback ( 0 )
|
|