私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Fitzwilliam Virginal Book (1550 – 1620)
aeon AECD 0865
演奏:Jovanka Marville (Virginal, Clavecin)

ルネサンスからバロック初期にかけての鍵盤楽器のための作品は、1610年頃にイギリスで出版された「パーセニア(Parthenia or the Maydenhead of the first musicke that ever was printed for the Virginalls)」を除いては、演奏者による筆写譜によって伝えられている。それらの中でも特に多くの曲を収録している手稿が「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」と呼ばれる筆写譜である。この手稿は、フランシス・トレギアンII世が、カトリックの信仰故に監獄に収容されていた1609年から1619年の間に作製したものと考えられてる(ただし、これには異論もある)。この手稿はその後、ドイツ生まれでロンドンで活躍した作曲家、ヨハン・クリストフ・ペプシュ(Johann Christoph Pepusch, 1667 – 1752)の蔵書を経て、フィッツウィリアム子爵リチャードが1816年にケンブリッジ大学に遺贈したことにより、その名が付けられた。現在は同年に設立された古美術、絵画などを収納した「フィッツウィリアム博物館」に保存されている。この手稿には、1560年代から1610年代までの298曲が記入されており、この時期の音楽を伝える手稿の中では最大規模のものである*。これらの曲の多くは、ルネサンス末のイギリスの作曲家によるものであるが、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(4曲)、オルランド・ギボンズ(2曲)、オルランド・ディ・ラッソ(3曲、いずれもピーター・フィリップスによる編曲)など外国の作曲家による作品も掲載されている。イギリスの作曲家の中では、ウィリアム・バードが最も多くて70曲、続いてジャイルス・ファーナビーの52曲、ジョン・ブルの44曲、他にピーター・フィリップス(Peter Philips [Phillipps, Phillips, etc.], c. 1560 – 1628)、トーマス・タリス(Thomas Tallis, c. 1505 – 1585)、トーマス・モーリ(Thomas Morley, 1557/1558 – 1602)などの作品が見られ、作者不詳の曲も多い**。手稿への記載は、同一作曲家の曲が連続している場合が多く、それはパヴァーヌとガリヤルドのように通常組になっているものに限らず、また組曲の体裁を取っているわけでもない。これはおそらく、筆写の際の手本に関係しているのではないかと思われる。
 掲載されている曲は、16世紀に広くヨーロッパで流行したパヴァーヌ(pavane, pavan, pavana, padovana, paduana, etc.)とガリヤルド(galliard, gaillarde, gagliarda, etc.)、それにアルマン( alman[d], allemande, allemanda, almain[e], etc.)、コラント(corranto, courante, corrente, coranto, corant, etc.)等の舞曲、様々な標題を持つ曲など、当時のイギリスの音楽的状況を反映するような曲からなり、多くはそれらの曲の変奏からなっている。舞曲でない曲は、平易な旋律の曲で、自身の作曲になるものだけでなく、他の作曲家の曲をもとにした変奏も多い。中でもジョン・ダウランドの「涙のパヴァーヌ(Pavana Lachrymae)」は、ウィリアム・バード、ジャイルス・ファーナビ、トーマス・モーリーの3人による編曲が掲載されている。なおこのダウランドの曲は、ユトレヒトのヤーコプ・ファン・エイクによる「笛の楽園(Der Fluyten Lust-Hof)」(初版1644年)にも掲載されており、さらにスウェーリンクの編曲も存在する。
 この手稿には、楽器の指定はなく、標題が示すようにヴァージナルと呼ばれるチェンバロの一種によって演奏されると限られるわけではなく、各種のチェンバロ、クラヴィコード、ポジティフ・オルガンいずれでも演奏可能である。
 「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」は、ルネサンス末イギリスの鍵盤楽器のための作品を一望できる貴重な手稿であるが、300曲近いその全曲を体系的に演奏することは容易ではなく、今まで試みられたことはなかったようである。現在ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジの音楽監督、音楽学部長のフランシス・ナイツによって、2005年以来全曲演奏が行われており、2012年には完了する予定だそうだ。録音は、ルネサンス後期からバロック初期、エリザベス時代の鍵盤楽器のための作品を紹介する際には、必ずといって良いほど何曲かが含まれているが、この手稿の曲に限ったレコード(CD)は極めて僅かしかない。
 今回紹介するのは、中でも掲載曲数の多い3人の作品とスウェーリンクの1曲を収録した、イオン・レーベルのCDである。イオンはフランスのレーベルで、20世紀、21世紀の作曲家の作品を紹介するシリーズと、より広いレパートリーをレーベル専属の演奏家によって録音したCDを発売している。現在リチェルカールやアルファなどと同様、Outhereグループに属している。
 3人のイギリスの作曲家の内最年長のウィリアム・バード(William Byrd, 1539/1540 – 1623)は、ルネサンス末イギリスの最も重要な作曲家の一人で、カトリックのミサ、モテット、イギリス国教の詩編などの声楽曲、それに鍵盤楽器のための曲など、およそ470曲が知られている。カトリックのモテットやイギリス国教の詩編歌などは自ら出版した作品が有り、鍵盤楽器のための作品は、パーセニアに8曲が収録されており、上述の通り「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」に最も多くの作品が掲載されている。バードの作品は、この手稿の中では、特に長い変奏曲が多い。”Medlay”は120小節、”Jhon come kisse me now”は96小節、”Pavana Lachrymae”は81小節ある。このCDには、その他の曲を含め、8曲が収録されている。
 ジャイルス・ファーナビー(Giles Farnaby, c. 1563 – 1640)は、バードより約20年後に生まれ、その活動期間はバロック時代に及んでいる。ファーナビーは生涯職業音楽家ではなかったようであるが、バード、ブルなどと並んで、16世紀末から17世紀初めのイギリスにおける鍵盤楽器のための作品の代表的作曲家と見なされている。「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」におけるファーナビーの曲は、比較的短い曲が多く、”Tower Hill”は13小節しかない。最も長い”Loth to Depart”は、8小節の主題と5つの変奏からなっている。このCDには上の2曲を含め、7曲が収録されている。”The old Spagnoletta”は、レスピーギの組曲「リュートのための古風な舞曲とアリア」の第3組曲の「シチリアーナ」と同一曲で、以前に紹介した「レスピーギの組曲『リュートのための古風な舞曲とアリア』の原曲を聴く」 http://blog.goo.ne.jp/ogawa_j/e/5b8c5732dce5934809677e86b8226895 では、17世紀を通じてイタリアやスペインで広く知られた作者不詳の”Spagnoletta”と題する曲と紹介している。このことから推察するに、他の作者の曲も含め、イギリスだけでなくヨーロッパ各国で当時流行していた曲を題材としている曲が他にもあるのではないかと思われる。
 ジョン・ブル(John Bull, 1562 /1563 – 1628)は、ジャイルス・ファーナビと同年頃の生まれで、1591年に王室礼拝堂のオルガニストに任命され、エリザベスI世に高く評価されていた。エリザベスI世の死後はジェームス王に仕え、作曲家、鍵盤楽器奏者、即興演奏家としての名声を確立した。その一方で様々な揉め事に巻き込まれ、1613年にイギリスを離れ、フランドル地方に滞在し、1615年にアントワープの聖堂の副オルガニスト、1617年には正オルガニストに任命され、1628年に死亡するまでアントワープにとどまった。ブルの鍵盤楽器のための作品は、パーセニアに掲載された7曲が唯一の同時代の出版譜で、その外は「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」などの手稿に含まれている。他にアンセムやカノンなどの作品があるが、イギリスを離れたことにより失われたり、他の作曲家に盗用されたものもあるそうだ。このCDに収録されている7曲の内、最も長いのは”In Nomine (IX)”で127小節あるが、他の6曲は短い曲である。「ブランズウィック公爵夫人のおもちゃ(The Duchesse of Brunwick’s Toye)」は4小節の主題(A)とその変奏(A’)、応答主題(B)とその変奏(B’)に終結和音の合計17小節という簡潔な作品である。
 今回紹介するCDで演奏をしているのは、スイスのチェンバロ等の鍵盤楽器奏者、ジョヴァンカ・マーヴィルである。クリスティアーヌ・ジャコテやアンドレアス・シュタイアー等に歴史楽器や通奏低音などの教育を受け、1989年のブリュージュ国際コンクールで受賞して以降、演奏家として活動している。これまでにフランソア、ルイ・クープランの作品などの録音がある。
 先にも述べたように、「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」に掲載されている曲は、チェンバロやクラヴィコードあるいはオルガンで演奏する事が出来るが、世俗的作品が主であることから、このCDでマーヴィルが演奏している楽器は、ヴェネツィアの鍵盤楽器製作者、ドミニクス・ピサウレンシス(ドメニコ・ダ・ペサーロ、Dominicus Pisaurensis, Domenico da Pesaro)が1533年に製作した、現在ライプツィヒ大学の楽器博物館に所蔵されているイタリアン・チェンバロを1989年にトーマス・シュタイアーが複製したものと、1620年にアンドレアス・リュッカースが製作したミュスラールを2003年にアラン・デューが複製したものである。イタリアン・チェンバロは、薄い板で出来ており、弦はエンドピンの近くで弾かれるため、立ち上がりの鋭い明快な音がする。このチェンバロはa’ = 460 Hzのヴェネツィアン・ピッチが採用されている。一方リュッカースのミュスラールは、箱形の本体の長辺の右寄りに鍵盤があり、特に低音部の弦は、張られた弦の中央付近で弾かれるため、柔らかい音がするが、その一方で弦の振動の大きな箇所を弾くため、速い連弾は困難である。なおこの「ミュスラール」は、今日「ヴァージナル」と呼ばれることが多いが、ルネサンス末からバロック時代におけるイギリスでは、「ヴァージナル」は様々な形態の鍵盤楽器、チェンバロやクラヴィコードそれにミュスラールなどを含めて用いられていた概念であった。そのためここでは、楽器の種類としての厳密さを期すため、「ミュスラール」を用いた。この楽器はa’ = 415 Hzの低いピッチが採用されている。調律はいずれも当然のことながら中全音律である。録音は、2006年7月にスイスのグリミジュアで行われた。
 今回紹介するCDに収録されているのは23曲で、「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」の掲載曲の一割にも満たないが、最も掲載曲の多い3人の曲は、手稿全体の半分以上を占めており、ある意味でこの手稿の代表的な作品であるとも見ることが出来る。将来的には、現在進行中のフランシス・ナイツによる全曲演奏がCD化される可能性もあるが、現在のところ、この様なCDによって当時のロンドンにおける鍵盤楽器音楽の状況、当時のイギリスの世俗音楽の様子を瞥見するしかないようだ。
 イオン・レーベルのこのCDは現在も販売中で、購入可能である。

発売元:aeon

* 1899年にライプツィヒのブライトコプ・ウント・ヘルテルより、フラー・メイトランドとバークレイ・スクワイアの編纂で出版された出版譜では、297(CCXCVII)番までの番号が付けられているが、182(CLXXXII)番が重複しているので、298曲になる。

** 筆者がブライトコプ版のリプリントであるドーヴァー社版を実際に数えた曲数。ウィキペディア英語版や、ドーヴァー版のインデックスによる曲数とは異なっている。それは、原曲と編曲者の扱いなどによる違いと思われる。

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