小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



江戸時代、庶民の間に普及していた信仰の一つに富士講がある。富士講は富士山の信仰団体で、この小田原にも数多くの講が存在していたようで、散策の途中に富士講の石塔を見かけることも多い。小田原市小船の白髭神社には小田原最古の富士講碑が残っている。小田原市小船の白髭神社。橘地区の鎮守でこの正月7日には小田原の無形民俗文化財に指定されている奉射祭が行われる。鳥居をくぐり石段をあがると正面に拝殿、右手に神楽殿、左手には鐘楼がある。神社に鐘楼があるのは珍しい。拝殿の右裏手に行くと3基の石塔と石仏が置かれている。その左側の奇妙なデザインの石塔が小田原最古といわれている富士講碑。小田原市発行の資料には富士山祭祀碑と記載されている。最初にこの石塔を見たときに何が彫られているのか分からなかったが、色々調べたところ富士講碑だと判明した。右側面には造立の年代が刻まれている。「文化九壬申五月吉日」。文化九年は1812年なので今からちょうど200年前。左側面には願主の名前が刻まれている。「願主當村 露木伊兵衛」。當村はおそらく小船村のことを指すと思われる。結構肉厚に彫られた石塔はかなり奇妙な形に見える。石塔正面の上部は中央に富士山。噴火口の左は月で右は太陽。富士山の下のモコモコした部分は雲のようだ。その下の2つ球体は神具の水玉か徳利、もしくは榊立てかもしれない。石塔正面下部は恐らく供物を載せた三宝。一番下のモコモコした部分は良く分からない。個人的な見解としては願主の露木伊兵衛さんは、富士山を望む曽我丘陵で三宝の上に徳利を乗せ富士を拝していて、その儀式の一場面を石塔に刻んだのではと思う。また違った見方をすると富士山の地中深くからマグマとも霊気とも思えるものが立ち上っているようにも見えて面白い。この富士講は江戸時代かなり盛大になったので幕府も何度か禁令を出しており、嘉永2年(1849年)には個人的な信仰も禁止されてしまった。白髭神社にはイチョウの黄葉の頃訪れては、この不思議な形の富士講碑を眺めている。まだ奉射祭は見たことがないので、今週末は出かけてみようかな。

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