長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

満光寺の鶏 その2

2015年02月14日 | 日本史
前回からつづく。

元亀年間(1570年~1573年)が厄介、ということで前回は終わりました。
なぜかというと、奥三河を巡る元亀2年(1571年)の武田の動きに議論があるからです。

武田氏は元亀2年に奥三河に侵攻して、足助やら長篠やらを荒らし回り、豊橋の吉田城やら遠江も攻め込んだ挙句に、ぷいっと帰った、と、されていました。この話が本当だとすると、徳川家康がこの時に武田信玄から逃げていった可能性も考えられる。

が、元亀2年(1572年)というのは元亀3年の1年前。(当たり前。)
元亀3年に何があったかというと、この年の12月に徳川家康が小豆餅の食い逃げ未遂や馬上脱糞疑惑を引き起こしたのです。細かすぎて伝わりにくいと思いますが、武田信玄が浜松城まで迫って来たものの、謎の反転をしたため城から出た徳川家康がフルボッコにされた三方原の戦いが発生したということです。小豆餅や脱糞はその際の逸話として有名です。

その翌年元亀4年(1573年。7月から天正に改元。)には、三方原の勢いで野田城を囲んだ武田信玄が鉄砲で撃たれたとか撃たれてないとかの事態が発生します。そして、元亀4年4月に武田信玄は死にます。
「げんき」年間なのに。。。
まぁ、この歳は天正でもあるので、天正に昇天(てんしょうにしょうてん)したのでしょう。

・・・。
皆さんが呆れている顔はよくわかりますが、すごく言いたかったので書きました。お許しください。

さて、市町村史を読んでいると、元亀2年に侵入した割には翌3年の侵入にあたって、前年のことは無かったかのような記述が多いので不思議に思っていたのです。そしたら、2007年に回答を出している人がいました。

東大准教授(当時)の鴨川達夫氏です。

たまたま小和田哲男静岡大学名誉教授の話を聞いていた際、鴨川氏の話が出て「元亀2年の侵攻はなかった。」と言ったことにえらく仰天して、それこそ家康並みに脱糞しそうでした。(「しそう」であって「してません」。)

そのあたりの話は、3年ほど前に一度書いております。

鴨川氏の「武田信玄と勝頼 文書にみる戦国大名の実像」(岩波新書)の174頁に


駿河を手中に収めたあと、元亀二年(1571)の初めから翌年にかけての信玄の行動は、いまひとつはっきりしない。一般には、元亀二年四月に、三河の足助城や吉田城、つまり徳川家康の領国を攻めたとされる。

と、当時の通説に疑問を呈した後、

四月の三河攻めは、天正三年の勝頼の行動なのであって、「元亀二年四月の信玄の三河攻め」は、まったくの虚構なのである。

と、きっぱりと否定しています。その理由として175頁に

「「家忠日記増補」と呼ばれる書物がある。その元亀二年四月の項に、次のような記事がある。
 信玄兵を信州より発して足助の城を攻めんと欲す 
 「四月」と「足助」の二点で、書状と記事がぴったりと一致する。これが根拠となって、元亀二年説が生まれたのだと思う。しかし、「家忠日記増補」という書物は・・・(中略)・・・後世にまとめられた著作物である・・・(中略)・・・作者はそれ(うらにわ注;足助城攻略の書状)を読み、元亀二年のものと判断して、さきほど掲げた記事を書き上げた。ところが、その記事が鵜呑みにされて、今度はまったく反対に、記事をもとにして問題の書状が判断されるようになったのである。


とあります。

要は、徳川家康の配下だった松平家忠の孫が、祖父が関係する古文書を見ながらブログを書く際、ある古文書の年代を間違えてブログに書いた。そしたら、後世の研究者はブログを信じて、ある古文書を孫が間違えて書いた年代のものとして扱うようになった、と、いうことです。
ちなみに、昔の文書は月日は書いても年号は書かないのが一般的なのでこういうことが起こるそうです。そして、

「元亀二年の段階では、信玄は依然として上杉謙信とも北条氏康・氏政とも敵対していた。その上さらに家康・信長とも敵対し、進んで三方を囲まれるような状況に陥ることは、さすがの信玄も避けざるを得なかっただろう。」
「もっとも、北条氏との敵対関係はまもなく解消され、元亀三年に入ると、三河や遠江に攻め込むことも、比較的安全に実施できるようになった。」
「元亀三年十月五日付けで、信長が信玄に届けた書状が残っているが、その文面にはまったく異常がなく、信長が信玄とはなお友好関係にあると認識していたことを示している。
」(以上176頁)

信玄は永禄11年(1568年)に、それまで同盟を結んでいた今川氏と同盟を破棄。駿河に侵攻します。
これにより武田、今川、北条の三者間同盟が破れ、小田原を根拠に関東地方を抑えていた北条氏が敵になります。元亀2年の年末に北条と和睦して再度同盟を結ぶことで、信玄は東が安全になり西に向かうことができる状況ができると言ってます。
なので、元亀2年の2月に信玄が三河などを攻めていると、北条は容赦なく信玄の領国である甲斐や駿河に攻め込んでくるので、状況的に無理でしょう、と、いう解釈です。

さすが東大の先生だけあって、明快です。私のようなものでも大変わかりやすい。

ところで、面白いのはこの説が発表されると、研究者の皆さんが元亀2年を否定した場合の論文を発表し始めます。と、いうことは、きっと誰もが

「元亀2年の武田の三河侵攻は変。」

と、うすうす感じていた、ということでは無いかと思います。笑。

まぁ、戦国遺文武田氏編や愛知県史資料編が編纂されたことで、古文書が年代毎に整理され、比較できるようになったことから辻褄が合わない部分が昔よりもわかりやすくなったことも研究が進んだ一因では無いかと思われます。

そして、改めて自分の目で元亀2年とされている文書を戦国遺文武田氏編3から読んでみる。
遠州・三河に侵攻したことが書かれている文書は文書番号1702~1705と1710、1725です。
特に1703と1704には山家三方衆が武田方の案内者として記載されているうえ、作手を拠点に武田軍が出発している様子が記載されています。
1702~1704の文書は内容が鴨川氏の言うように長篠の戦い直前の状況と酷似。天正3年の文書と考えると確かにすっきりする。(1702は勝頼、1703は信豊、1704は山県が発給者)

が、信玄が発給している1705、1710、1725は元亀3年の三方原の後の文書のように読めます。
これらが多分ごっちゃになっているのも混乱の原因かもしれません。

そして1775の元亀3年1月28日文書では、信玄から信長の秘書武井夕庵あてに「北条と私は和睦になりました。三河とか遠江に関して噂があるようですが、たとえ日本の半分が自分のものになっても、なんで信長さんを裏切るようなことがあるでしょうか。変な人の噂を信じないように取り成してください。」などと言ってます。
もし、元亀2年に三河と遠江に侵攻していたら、こんな文書を出す事自体がありえない。攻めておいて家康の兄貴分の信長に「いや、噂ですから。信じないで。」というのはいくらなんでも無理があるでしょう。て、いうか、そんな気を使う必要が信玄にあるとは思えないし、信長が「そうですね。」と信じたら戦国大名失格でしょう。

と、いうことで、武田信玄の軍勢に徳川家康が山吉田近辺で追い回される事態は、元亀元年と元亀2年にはなさそうだ、ということはわかりました。

では、次は実際に追い回されたと思われるところへ話が進みます。
つづく。

2 コメント

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すごいですね! (きっと)
2015-02-15 09:00:19
熱い想いが伝わってきます。

ワクワクしながら読ませていただいております。
歳のせいか、年表と年号を照らし合わせながら(誰かつくってー)読みませんと
さっぱりすっかり忘れてしまった身としては焦りを覚えております。

30年近く離れてしまっていた間にどんどん新しい研究者が現れ
資料の発見や解読がすすみ、こうして長篠関連の新しい知識を瞬時に教えていただける、
こんな時代がやってくるとは夢にも思っておりませんでした。

続きが楽しみです。


また、井伊家の出身地井伊谷から山吉田って意外と近いのも面白いです。
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元亀2年 (うらにわ)
2015-02-15 12:46:59
色々と調べて、色々と書こうと思ったのですが、煩雑になってしまい、結果的に鴨川説の紹介で終わってしまいました。この辺り調べていますと、次から次に疑問が湧いてきて収集つきません。笑。
ネタには事欠きませんのでありがたいですが。
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