子供を城好きにしたい。そのため、子供が好きなスタンプラリーで釣って城へ連れて行こうという計画が発動されたのは昨年度のこと。
昨年度は名古屋城と長篠城という近隣の城で済ます。ついでに小牧城にも息子を連れて行く。百名城には撰ばれていませんが、百名城級の価値はあると思うので。
今回訪れたのは、なんと九州。
子供をホテルのプールに泳がせて満足をさせることが主眼。そのついでに近隣の百名城を落とす、ということで最終目的地を熊本城に設定したのです。
別府温泉のホテルでプールと温泉を堪能し、阿蘇へ異動する途中に百名城を発見。わざわざ下道になるが、田舎道。さほど時間はかから無いだろうと踏んで立ち寄ることに。
山道を行くので子供の車酔いが心配でしたが、前日の疲れで眠ってしまいドライバーとしては思う存分カーブを攻めることができました。
この日の目的地は、滝廉太郎がインスピレーションを受けた城。
荒城の月で有名な岡城。
元々は文治元年(1185年)に緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられます。惟栄は嫗岳大明神の霊力を受け継ぎ、背中に鱗があったと伝えられているとか。もっとも義経を迎えに行った船は難破してしまいこなかったようです。
その後、大友宗麟で有名な大友氏の一族である志賀氏の居城となり、天正14年(1586年)の島津対大友の戦いの際に、あの猛将島津義弘の攻撃を凌いだことで一躍堅城として有名になったようです。志賀親次(しがちかよし)は豊臣秀吉や島津義弘から絶賛されるのですが、主君の大友義統が朝鮮出兵時の振る舞いにより秀吉により取り潰され、志賀も浪人してしまったそうです。
最終的には中川清秀の子孫の中川秀成が入城し、その後城の石垣化と城下町整備が行われたそうです。(参考;「豊後岡城物語」吉田健二 PHP研究所、「岡城跡と城下町竹田 歴史の道」大分県竹田市発行)
まぁ、そんな能書きは、まだ3歳児には通用しない。
起きぬけで御立腹の息子。
とりあえずスタンプを押すことで宥める。
やはり幼稚園児と小学一年生を真夏の炎天下の城に連れて行くのは相当辛い。
覚悟の上でしたが、ご機嫌が悪いと本当に叶わない。
※写真左側のかまぼこ型石塁は岡城の特徴だとか。
まぁ、連れて行く親が悪いのですが。。。
とにかくこの城の石垣の凄さに驚く。
父親は一人で興奮しておりますが、妻子は暑さもあって低調気味。
必死にこちらも「これはすごいよね。景色が良いよ」などと言って気を引こうとする。
※入口で言われましたが、石垣の際まで行けてしまうのでくれぐれもご注意を。
子供らも少しご機嫌になる。
ただ、この城、想定してたよりもずっと大きかったのです。
こんな巨大な近世城郭だとは思っていなかったのです。すいません。めちゃくちゃ広い。
徐々に機嫌が悪くなる妻子。
暑さの汗と冷や汗に濡れる私。
子供との百名城には季節を選ぶ必要があるな、と、改めて認識する。そりゃ、7月末の夏休みに九州へ行けば焼け付くような日差しになりますわな。
しかし、城好きの業。この城、大手門が東向きだったのを視察に来た藤堂高虎が朝日が眩しくて敵と戦いにくいという助言をして現在の位置に大手門が変わったそうです。
※旧大手門
伝承では加藤清正が助言したという話らしいですが、実際は藤堂高虎だそうです。実際は、この石垣の積み方は一直線に立ち上がるので藤堂系だよな、と、思う。反りと勾配の清正系ではない。
暑さで熱中症も怖いので大急ぎで本丸まで向かう。
なかなかに立派な城で桝方虎口が尾根状に出てくる様は、なんとなく竹田城を思い出させます。
一人旅ではないのでゆっくりは見れませんが、来れただけでも感謝。
※無事に本丸の神社に到着。
石垣の見事さに惚れ惚れさせられました。
眺めも良くて、案外子供達も暑いながらも頑張ってくれました。
荒城の月を学校で習った際に、思い出してくれると良いのですけどねぇ。。。
※滝廉太郎銅像と。
昨年度は名古屋城と長篠城という近隣の城で済ます。ついでに小牧城にも息子を連れて行く。百名城には撰ばれていませんが、百名城級の価値はあると思うので。
今回訪れたのは、なんと九州。
子供をホテルのプールに泳がせて満足をさせることが主眼。そのついでに近隣の百名城を落とす、ということで最終目的地を熊本城に設定したのです。
別府温泉のホテルでプールと温泉を堪能し、阿蘇へ異動する途中に百名城を発見。わざわざ下道になるが、田舎道。さほど時間はかから無いだろうと踏んで立ち寄ることに。
山道を行くので子供の車酔いが心配でしたが、前日の疲れで眠ってしまいドライバーとしては思う存分カーブを攻めることができました。
この日の目的地は、滝廉太郎がインスピレーションを受けた城。
荒城の月で有名な岡城。
元々は文治元年(1185年)に緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられます。惟栄は嫗岳大明神の霊力を受け継ぎ、背中に鱗があったと伝えられているとか。もっとも義経を迎えに行った船は難破してしまいこなかったようです。
その後、大友宗麟で有名な大友氏の一族である志賀氏の居城となり、天正14年(1586年)の島津対大友の戦いの際に、あの猛将島津義弘の攻撃を凌いだことで一躍堅城として有名になったようです。志賀親次(しがちかよし)は豊臣秀吉や島津義弘から絶賛されるのですが、主君の大友義統が朝鮮出兵時の振る舞いにより秀吉により取り潰され、志賀も浪人してしまったそうです。
最終的には中川清秀の子孫の中川秀成が入城し、その後城の石垣化と城下町整備が行われたそうです。(参考;「豊後岡城物語」吉田健二 PHP研究所、「岡城跡と城下町竹田 歴史の道」大分県竹田市発行)
まぁ、そんな能書きは、まだ3歳児には通用しない。
起きぬけで御立腹の息子。
とりあえずスタンプを押すことで宥める。
やはり幼稚園児と小学一年生を真夏の炎天下の城に連れて行くのは相当辛い。
覚悟の上でしたが、ご機嫌が悪いと本当に叶わない。
※写真左側のかまぼこ型石塁は岡城の特徴だとか。
まぁ、連れて行く親が悪いのですが。。。
とにかくこの城の石垣の凄さに驚く。
父親は一人で興奮しておりますが、妻子は暑さもあって低調気味。
必死にこちらも「これはすごいよね。景色が良いよ」などと言って気を引こうとする。
※入口で言われましたが、石垣の際まで行けてしまうのでくれぐれもご注意を。
子供らも少しご機嫌になる。
ただ、この城、想定してたよりもずっと大きかったのです。
こんな巨大な近世城郭だとは思っていなかったのです。すいません。めちゃくちゃ広い。
徐々に機嫌が悪くなる妻子。
暑さの汗と冷や汗に濡れる私。
子供との百名城には季節を選ぶ必要があるな、と、改めて認識する。そりゃ、7月末の夏休みに九州へ行けば焼け付くような日差しになりますわな。
しかし、城好きの業。この城、大手門が東向きだったのを視察に来た藤堂高虎が朝日が眩しくて敵と戦いにくいという助言をして現在の位置に大手門が変わったそうです。
※旧大手門
伝承では加藤清正が助言したという話らしいですが、実際は藤堂高虎だそうです。実際は、この石垣の積み方は一直線に立ち上がるので藤堂系だよな、と、思う。反りと勾配の清正系ではない。
暑さで熱中症も怖いので大急ぎで本丸まで向かう。
なかなかに立派な城で桝方虎口が尾根状に出てくる様は、なんとなく竹田城を思い出させます。
一人旅ではないのでゆっくりは見れませんが、来れただけでも感謝。
※無事に本丸の神社に到着。
石垣の見事さに惚れ惚れさせられました。
眺めも良くて、案外子供達も暑いながらも頑張ってくれました。
荒城の月を学校で習った際に、思い出してくれると良いのですけどねぇ。。。
※滝廉太郎銅像と。