木村重成は大坂の陣で豊臣方の有力武将。
父親は殺生関白羽柴秀次の家臣で謀叛事件に連座しています。
大坂の陣における豊臣方は、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛などが有名ですが、この重成も最期華々しく散り、首になったときの処置の見事さに家康が感心した、というのが最も有名なエピソードかと。
この名場面について名将言行禄にありましたので見てみましょう。
○焚きこめた香
重成は長い間風邪をひき、月代(ちょんまげの頭剃った部分)を剃らずに長髪でいたが、討死の前日、湯に入り髪を洗い、香を炊き込め、能の一曲を静かに謡い、小鼓を撃った。
翌日、井伊直孝と戦い討死した。
家康が重成の首を見た際、髪に炊き込めた香が薫っていたことに大いに感じ入り、
「今は5月の初め(旧暦のため大体7月頃)だというのに、いささかも首に臭気が無く、香を炊き込めたことは勇士の嗜みといえる。皆、近寄って首の匂いをかいでみよ。」
と、いうので、皆匂いをかいで褒めた。
また、冑の結び目の端が切ってあるのを見て、
「討死を覚悟した天晴れなる勇将だ。」
と、賛美された。
ある人が、
「これほど最期を覚悟した素晴らしい人であるにもかかわらず、月代部分の髪が伸びてるのはなぜなんでしょう?」
と、呟いたところ、家康が聞きつけ、
「これほど最期を覚悟した木村の月代が伸びているのは、何か事情があるのだろう。まぁ、月代の剃りたては冑かぶる時にあまりよろしくないものだ。ひょっとすると、そんなあたりじゃないか。稀代の壮士の討死について、ちょっとしたことでクサすものではない。」
と、言った。
なるほど。
戦国最後の生き残りだけあって、家康も死者への礼儀を指導しています。
が、このエピソードから判るのは『夏場の戦場は相当臭う』ということ。
木村重成の行動を今風に解釈すると、風呂入って香水つけて、という感じなんでしょう。
ところで、このエピソードの場面情景を見てみると、
「おいお前ら。この首臭くないからかいでみろよ。」と、大将が言って、皆が匂いをかいで「おお、ほんとに臭くないですね。」と、言ってるわけなんです。
もっとも、家康のように戦場経験が豊富な武将からすると、相対的な比較評価として『臭くない』と言っているだけの可能性もあります。なので、実際かいでみて『うっ・・・』という人もいたのではないかと。
特にこの大坂の陣はしばらく平和が続き、戦国時代真っ只中の世代と次世代が丁度世代交代をする時期だけに、修羅場をくぐってない若者なんかもいたことでしょう。そういう若者への指導の一環だったのかもしれません。しかし、そんなときに、鼻を手で覆ったりしようもんなら家康からど叱られるでしょうし、ましてえづこうものなら一生冷や飯喰わされそうです。
風呂入って香を炊き込めて、という他に臭気が漂わない理由として、その直前のエピソードもヒントがありそうです。
○妻の自害
重成は5月の初めから(討死は5月6日)食事が進まなかった。妻は之を憂いて今回は落城が近いと噂されているので食が進まないのでしょうか、と、言うと、重成が聞きつけ、
「そうじゃない。昔、後三年の役で瓜割四郎と言う人が、ひどく臆病で朝の食事が喉を通っておらず、敵陣で首を射切られたとき、その疵口から食事が出てきて恥を曝したという。我らも敵に首をとられる。死骸が見苦しくないように心がけて食事を控えておるのだ。」
と、答えた。
妻はこれを聞くとさっと立ち退き、遺書をしたため寝室に入って自害した。時に18歳であった。
このように、死の直前の食事に気を使っているのです。
食事が体臭に影響することを考えると、食事が控えられているので死臭もきつくなかった、と、考えられます。
しかしまぁ、この瓜割四郎さん、こんなことで死してなお、恥の見本としてばらされてしまう訳ですから、木村重成も「あいつさぁ、首とったら、もう酷くて酷くて・・・。」と後々まで言われ続けることを警戒したのでしょうねぇ。
実際、その処置の見事さで、現在にもエピソードが残っているわけですから、当時の武将としては、死んだ後のことにも気を配らざるをえなかったのでしょう。
話は木村から逸れますが、瓜割さん『首を射切られ』ているんですよね。
後三年の役は平安時代。当時は騎馬武者が弓で戦っており、戦国時代のように鑓や鉄砲での戦闘が主ではなかったといわれております。そんなこともちょっと考えられます。
しかし、瓜割四郎氏。
緊張で飯が食べられない、というのは判るのですが、食事が喉を通らずに戦い続けるって、喉にモノが詰った状態で戦ってたんでしょうか?
そりゃ、実力も発揮できなかったことでしょうねぇ。
なんにせよ、首の取り扱い一つで評価が変わるんですねぇ。
父親は殺生関白羽柴秀次の家臣で謀叛事件に連座しています。
大坂の陣における豊臣方は、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛などが有名ですが、この重成も最期華々しく散り、首になったときの処置の見事さに家康が感心した、というのが最も有名なエピソードかと。
この名場面について名将言行禄にありましたので見てみましょう。
○焚きこめた香
重成は長い間風邪をひき、月代(ちょんまげの頭剃った部分)を剃らずに長髪でいたが、討死の前日、湯に入り髪を洗い、香を炊き込め、能の一曲を静かに謡い、小鼓を撃った。
翌日、井伊直孝と戦い討死した。
家康が重成の首を見た際、髪に炊き込めた香が薫っていたことに大いに感じ入り、
「今は5月の初め(旧暦のため大体7月頃)だというのに、いささかも首に臭気が無く、香を炊き込めたことは勇士の嗜みといえる。皆、近寄って首の匂いをかいでみよ。」
と、いうので、皆匂いをかいで褒めた。
また、冑の結び目の端が切ってあるのを見て、
「討死を覚悟した天晴れなる勇将だ。」
と、賛美された。
ある人が、
「これほど最期を覚悟した素晴らしい人であるにもかかわらず、月代部分の髪が伸びてるのはなぜなんでしょう?」
と、呟いたところ、家康が聞きつけ、
「これほど最期を覚悟した木村の月代が伸びているのは、何か事情があるのだろう。まぁ、月代の剃りたては冑かぶる時にあまりよろしくないものだ。ひょっとすると、そんなあたりじゃないか。稀代の壮士の討死について、ちょっとしたことでクサすものではない。」
と、言った。
なるほど。
戦国最後の生き残りだけあって、家康も死者への礼儀を指導しています。
が、このエピソードから判るのは『夏場の戦場は相当臭う』ということ。
木村重成の行動を今風に解釈すると、風呂入って香水つけて、という感じなんでしょう。
ところで、このエピソードの場面情景を見てみると、
「おいお前ら。この首臭くないからかいでみろよ。」と、大将が言って、皆が匂いをかいで「おお、ほんとに臭くないですね。」と、言ってるわけなんです。
もっとも、家康のように戦場経験が豊富な武将からすると、相対的な比較評価として『臭くない』と言っているだけの可能性もあります。なので、実際かいでみて『うっ・・・』という人もいたのではないかと。
特にこの大坂の陣はしばらく平和が続き、戦国時代真っ只中の世代と次世代が丁度世代交代をする時期だけに、修羅場をくぐってない若者なんかもいたことでしょう。そういう若者への指導の一環だったのかもしれません。しかし、そんなときに、鼻を手で覆ったりしようもんなら家康からど叱られるでしょうし、ましてえづこうものなら一生冷や飯喰わされそうです。
風呂入って香を炊き込めて、という他に臭気が漂わない理由として、その直前のエピソードもヒントがありそうです。
○妻の自害
重成は5月の初めから(討死は5月6日)食事が進まなかった。妻は之を憂いて今回は落城が近いと噂されているので食が進まないのでしょうか、と、言うと、重成が聞きつけ、
「そうじゃない。昔、後三年の役で瓜割四郎と言う人が、ひどく臆病で朝の食事が喉を通っておらず、敵陣で首を射切られたとき、その疵口から食事が出てきて恥を曝したという。我らも敵に首をとられる。死骸が見苦しくないように心がけて食事を控えておるのだ。」
と、答えた。
妻はこれを聞くとさっと立ち退き、遺書をしたため寝室に入って自害した。時に18歳であった。
このように、死の直前の食事に気を使っているのです。
食事が体臭に影響することを考えると、食事が控えられているので死臭もきつくなかった、と、考えられます。
しかしまぁ、この瓜割四郎さん、こんなことで死してなお、恥の見本としてばらされてしまう訳ですから、木村重成も「あいつさぁ、首とったら、もう酷くて酷くて・・・。」と後々まで言われ続けることを警戒したのでしょうねぇ。
実際、その処置の見事さで、現在にもエピソードが残っているわけですから、当時の武将としては、死んだ後のことにも気を配らざるをえなかったのでしょう。
話は木村から逸れますが、瓜割さん『首を射切られ』ているんですよね。
後三年の役は平安時代。当時は騎馬武者が弓で戦っており、戦国時代のように鑓や鉄砲での戦闘が主ではなかったといわれております。そんなこともちょっと考えられます。
しかし、瓜割四郎氏。
緊張で飯が食べられない、というのは判るのですが、食事が喉を通らずに戦い続けるって、喉にモノが詰った状態で戦ってたんでしょうか?
そりゃ、実力も発揮できなかったことでしょうねぇ。
なんにせよ、首の取り扱い一つで評価が変わるんですねぇ。