ぬえの能楽通信blog

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陸奥への想い…『融』(その7)

2013-09-07 17:25:59 | 能楽
シテが幕に中入りすると、後見が田子を引き、囃子方がクツロギ(大小鼓は床几から下りて正座し、4人の囃子方が向き合うように横を向いてしまうこと)、そしてそれまで狂言座(橋掛リ一之松の裏欄干)に控えていた都の者(間狂言)が立ち上がって舞台に入り、謡い出します。

間狂言「これはこの六条辺に住まひする者にて候。今日は東山へ罷り出で、心をも慰まばやと存ずる。
いや、これなるお僧は。このあたりにては見慣れ申さぬお僧なるが、何処より御出であって、この所には休らひ給ふぞ。
ワキ「これは諸国一見の僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間狂言「なかなかこの六条辺に住まひする者にて候。
ワキ「さように候はば、まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間狂言「心得申し候。さてお尋ねありたきとは、。如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども、古融の大臣、陸奥の千賀の塩竃を。この所に移されたる様態。ご存知に於ては語って御聞かせ候へ。
間狂言「我等もこの辺りには住まひ申せども、詳しき子細は存知も致さぬさりながら。初めて御上りあってお尋ねあるを、何をも存ぜぬと申すも如何なれば。大方承り及びたる通り。御物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。

間狂言「さる程に融の大臣と申したる御方は。人皇五十二代嵯峨天皇の末の御子にて御座ありたると申す。人皇五十六代清和天皇の御宇。貞観十四年八月に左大臣に任ぜられ。仁和三年には従一位に昇り。寛平元年には御年六十七にて輦車の宣旨を蒙り給ひ。誠に官位俸禄までも類ひ少く。優にやさしき御方にて御座あると申す。又大臣は世に優れたる御物好みにて。色々の御遊数を尽し給ふが。御前にてある人の申し候は。陸奥の千賀の塩釜の眺望面白き由。御物語聞し召し。御下向あつて御覧ありたく思し召せども。余り遠国の事なれば。都の内へ移し御覧あるべきとて。絵図を以てこの所へ塩釜を移し。賀茂川の水を引下し。遣水泉水築山の様体を夥しくなされ。潮は難波津敷津高津この三つの浦より潮を汲ませ。三千人の人足を以て営む故。潮屋の烟などの気色。御歌に詠み給ふに少しも違はず。これほど面白き事はあるまじきとて。一生の御遊の便りとなされ。あれに見えたるを籬が島と申して。あの島へ御出であつて。御遊さまざまありし折節。音羽の山の峯よりも出でたる月の。籬が島の森の梢に映り輝く有様。見事なる様体。貴賎群集をなし見物仕り候頃は神無月晦日がたに。菊紅葉の色づき。千種に見えて面白き折節は。この所へ親王上達部などおはしまし。心ばへの御歌などあまた遊ばし候。中にも在原の業平は。皆人々に詠ませ果てて。塩釜にいつか来にけん朝なぎに。釣する舟はこゝに寄らなんと。かやうに詠ぜられたる御歌。誠に殊勝なる由承り候。されば年月の過ぐるは程もなく。大臣薨じ給ひて後は。御跡を相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となり。名のみばかりにて御座候。又かやうに荒れ果てたる所を。貫之の御歌に詠ぜられたると承り候。

間狂言「最前申す如く、融の大臣の御事、塩竃を移されたる謂れ、詳しくは存ぜねども、我等の承り及びたる通り御物語申して候が、さてお尋ねは、如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず御身以前に、老人一人汐汲みの体にて来たられ候ほどに、すなわち言葉を交して候はば、塩竃の子細懇ろに語り、所の名所などを教え何とやらん由ありげにて、汐曇りにて姿を見失いて候よ
間狂言「これは奇特なる事を仰せ候ものかな。さては融公の現れ出で給ひたると存じ候。それをいかにと申すに。今にも月の明々たる折節は古塩を焼かせられたる様体。御沙汰ある由申し候が。御僧貴くましますにより。汐を汲む様体にて現れ給ひ。御言葉をかはされたると存じ候間。暫く御逗留ありて。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不審なる事にて候程に。暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見やうずるにて候。
間狂言「ご逗留の間は御用も承り候べし
ワキ「頼み候べし
間狂言「心得申して候


間狂言の長大な語りが済み、再びワキとの問答となると、大小鼓は床几に腰掛け、囃子方は正面に向き直ります。間狂言とワキとの問答の中で先ほどの老人が融の霊であろう、と思い至るあたりは常套なのではありますが、面白いことにはその霊を弔おう、という文言が『融』には出てきませんね。大概、能に登場する幽霊(シテ)は現世に思いを残していて、その執心のために成仏できずにいる事が多く、能の後半では霊が本性を現し、ワキの弔いによって救済を得る、という形が多いのです。さればこそワキは多くの場合、僧の役なのですね。

『融』でも、言ってみれば融の霊は生前の遊楽の生活を懐旧し、荒れ果てた河原院の有様を悲しんでいるのだから、現世への執着があるはずなのですが、この場面の次に登場する後シテの様子を見ると、どうも彼は僧の弔いを彼は必要としていないようです。それほどまでに明るく、爽やかに。。は言い過ぎか。どうもデカダンスな雰囲気も漂わすシテではありますが、前シテでもワキが僧であることにも関心を向けず、むしろワキが賈島の詩や和歌に造詣を持っている、という点に心引かれるのでした。その契機となった、ワキが賈島の詩を口ずさむ場面でもシテは「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは」と言いますが、「坊さんなんて辛気くさい仕事をしているのに風流心を持っているなんて…意外」という印象があって、どこか「遊び」を知らない人間をつまらない、と思っている風情も。

これもよく言われる事ですが、そういう曲だからか、ワキは待謡でも読経をしていませんね。間狂言との問答の中でわずかに「暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し」と経を読み霊を供養する文言が入っていますが、このあたりは後世に類型化された可能性がありますし、またおワキの流儀によってはこの場面でも「ありがたき御経を読誦し」と言わない場合もあるようです。

間狂言が再び狂言座に戻って着座するとワキは待謡を謡い、それにつけて登場囃子の「出端」の演奏が始まって、後シテが姿を現します。

ワキ「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。