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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その6)~女川町を訪問

2013-08-08 02:10:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月2日(金)】

翌朝、ホテルでは朝食代わりに おにぎりを用意してくださいまして、ちょっと疲れもたまっていたので朝10時にチェックアウト。前日ちょっと顔を出した立町ふれあい商店街にご挨拶し、また石巻駅前の観光協会さんにもご挨拶して、これにて帰京。。と行くところですが、ぬえには どうしても気になる場所が。。

それは女川町の野球場仮設にお住まいのミネおばあちゃん。

今から1年前、昨年の6月にはじめてこちらの仮設で能の上演をさせて頂いてから、思わずもミネさんから感謝のお手紙が ぬえの許に届きまして、それから交流が始まりました。またもう一人 英子さんという、やはり野球場仮設にお住まいの住民さんのご協力も頂き、この後プロジェクトとしても女川町で上演させて頂くようになり、また ぬえは家族でも活動させて頂いたこともあります。活動の場も「コンテナ村」「きぼうのかね商店街」と仮設商店街にも広がっていきました。

女川町に行くたびにミネさんに会いに行きます。息子さんとお嫁さん、そしてまだ幼いお孫さんと一緒に仮設にお住まいのミネおばあちゃん。そうだ、女川町で活動がない場合でも、石巻で時間が余ったときは おばあちゃんに会いに行ったこともあったっけ。

そんなわけで今回も帰京の前に女川町に立ち寄って ミネおばあちゃんに会いに行くことにしました。東京都は反対方面ですけどね。

。。とはいえ、ぬえたちも次の公演に向けて準備を進める作業も怠ってはいませんで、この時も女川町には事前に上演のアイデアをお伝えして、それにふさわしい会場を探して頂いていました。そこでこの日も、まず石巻から電話をして、女川町の社会福祉協議会の担当の方にお会いして頂く約束を取り付け、まずはそこに向かうことに。

女川の社協は、万石浦のそばから女川地域医療センター(旧・町立病院)のお隣に引っ越しされたとのこと。ここにお邪魔して、担当の方としばし上演についての相談をさせて頂く。。つもりでしたが、いや、これが大盛り上がりになりまして、かなり長時間。。30~40分もお話し。。というか談笑させて頂き、お祭りなど町の行事への参加まで話題にのぼりました。ぬえも次回の活動について、女川町での実現に確信を持つことができました。今年の秋頃に実施にこぎ着けるのを、とりあえずの目標にしようと考えています。

社協をおいとまして、高台にある医療センターの駐車場から女川町の旧中心部を見下ろしてみると。。



横転した江島共済会館ビルはそのままでしたが、それまで更地だった沿岸の地域は大掛かりな工事が行われていました。コンクリートブロックも並べてあったので、まさかマリンパル女川の再建が始まったのか? と思いましたが、実際には地盤沈下した土地のかさ上げ工事のようです。

高台から下りて近づいてみると。。江島共済会館ビルのそばに祭壇がありました。これは七十七銀行女川支店の犠牲者に捧げられたもの。同支店では大地震の直後に支店長の指示によって行員が高台ではなく2階建ての支店ビル屋上に避難することになり、指示に従った13名の行員・スタッフのうち津波によって4名が死亡、支店長を含む8名が行方不明という大惨事となってしまい、この避難の経緯の是非をめぐって遺族が銀行を相手取って裁判が行われています。。





江島共済会館ビルとともに現在も横倒しのまま残されている女川サプリメントの建物。いつの間にか被害の状況を記した説明板が立てられていました。



これを読むと、建物の中にいまだに車が残されている、とのこと。。知りませんでした。よく中を見てみると。。なるほど。。わかりますか? 建物と一緒に横倒しになったピンク色の小型乗用車が部屋いっぱいになって残されていました。。





この2つの建物と、女川交番の3つが、女川町では「震災遺構」として保存するかどうかの議論が続いています。気仙沼の第十八共徳丸、志津川の防災庁舎ビル、石巻の門脇小学校。。どれも保存の是非が議論され、結論が出たところもあり、まだまだ決着に至らないものもあり。。ぬえはこの女川町で、高台から江島共済会館ビルを見下ろした時、これは残すべきではない、と思い、その気持ちはいまも変わらないのですが、一方 震災の被害が風化してゆく現状や、すべての「遺構」がなくなったら、人がやって来なくなり、それは地域の再生への活力を失うことになる、という意見もあって、現実にそうなってしまった場所も見てしまった ぬえは心が揺れています。

こちらは残されている3つめの建物、女川交番。



このあたり、道路も大規模な工事が進行中で、現在はこの交番の周囲は立ち入り禁止となって近づけない状態になっていました。前述の英子さんは、この交番の まさにお隣で釣具店を経営されていた方。よくまあご無事だったと思いますが、高名なご主人は震災の犠牲となってしまわれました。英子さんの釣具店はいま、仮設商店街の中で営業を再開し、また英子さんもご主人の遺志を継いで活動されたり、ご主人の業績をまとめる作業で忙しくしておられます。それからこの流された交番も、現在は仮設商店街の中に「仮設の交番」として再開しています。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その5)~花火サミット・レセプションにて上演

2013-08-04 15:54:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻グランドホテルに到着。立町通りは川開き祭りのため車両通行止めになっていたので、手作業で装束を運んでの楽屋入りです。今夜だけグランドホテルに近い宿にしておいてよかった~。

この夜の出演は「全国花火サミット」のレセプションでの上演でした。「花火サミット」というのは全国各地の花火大会を催行する自治体の関係者が集って情報交換や交流をはかるもの。現在のところ11団体が加盟しているそうですが、実際には全国では数千という数で花火大会が行われているそうなので、団体の規模としてはそれほど大きいわけでもないようですが。

ともあれ、問題はこの「花火サミット」の集まりは加盟団体のそれぞれの花火大会にあわせて持ち回りで開かれるそうで、なんと震災の年が石巻で行われるはずだったのだそうです。それでも実施に向けて関係者は努力を重ねたそうですが、やはり無理だったようで、中止になりました。それはそうでしょう、ぬえが石巻で見ていても、このグランドホテルも津波による浸水で被害を受けて、ずっと休業中でしたから。たしか営業を再開したのは夏の終わりか秋のことだったのではないかと思います。じつはこのグランドホテル、震災の2年ほど前に学校公演で ぬえの師家一行が石巻に滞在した際に宿泊したホテルでした。それ以来、ロビーで人と会ったりしたことはありましたが、施設を利用するのは ぬえにとっても震災後はじめてでしたので、ちょっと感慨がありました。

さて、そういうわけで、今年石巻ではまさに「満を持して」、「花火サミット」が開かれるのでした。そこで石巻商工会よりオファーを頂きまして、サミット加盟団体の歓迎レセプションでの能の上演をさせて頂くことになりました。グランドホテルの控室に開演2時間前に入りまして装束の準備をしていると、やがて花火が打ち上がる音だけが聞こえてきます。残念ながらホテルからは花火は見えない(あらかじめそう言われてはいました…)のですが、たまに1階の正面玄関に行って建物の向こうに見える花火を見ました。

花火が終了する頃を見計らって装束を着け、サミットのために集まったみなさんがホテルに戻ったところでレセプションの開始となります。加盟団体のみなさんは花火はどこで見るのかというと、中央の被災ビルの屋上なのだそうです。この日のために電源を引き込み照明を用意し。。それでも被災の実態を見て頂くことで新たな支援にもつながるのだから必要なことですね。ちなみに石巻中心部から花火を見るには、北上川の対岸に渡った湊からの方が断然有利です。北上川に架かる橋は、中心部からすぐの内海橋が、打ち上げ会場の中瀬を通るため通行止めになっており、打ち上げの時間が迫ると対岸に渡るためにはずっと遠回りをした石巻大橋か日和大橋を渡るしかないため、湊地区には人が少ないこと、そして湊地区は被害が大きかったため、震災から2年を経て、被災家屋は多くが撤去されて視界を遮るものが少ないこともその理由ですが。。

やがてレセプションが開会となり、市長さんらの挨拶のあと、ぬえらは能『猩々』を勤めました。グランドホテルの大きな会場での上演は、被災地での活動の中でも最も条件の良かった上演ですね。ステージも用意されていましたが、ぬえは途中からステージを降りて会場を広く使って勤めさせて頂きました。

それにしても商工会の佐藤さんはこの日大活躍。花火大会でも打ち上げの指揮にあたり、レセプションでも司会を務められ。いや、その司会が上手でしたね~。ぬえが書いたプロジェクトの紹介や上演曲のあらすじなどもパッと端折って、聞きやすい長さにまとめます。『猩々』のあらすじが「ええと。。昔の中国の揚子江の。。お話です。ではどうぞ!」まで端折られたのは驚きましたが(^◇^;) …いやいや、ほかは ぬえらのプロフィールもひと言に瞬間的な判断でまとめたのはすごい手腕と言わざるを得ません。

あ、ところでこのレセプション、会場に仮面ライダー(1号)がいました~。石ノ森萬画館があって、漫画の街をキャッチコピーにしている石巻だからレセプションにも参加していたのでしょうが。。ところが仮面ライダーが登場したところと能の上演時間が重なってしまったようで。。ぬえたちが登場したら、仮面ライダーさんはテーブルを廻るのをやmて。。席にちょこんとついて能をご覧になっておられました~w

やがて上演も終わり、さて宿に帰ろうとしたのですが、花火サミットの団体さん方から ぜひ会食に同席してもらいたい、というお話が来まして、お邪魔させて頂くことになりました。市長さんともお話させて頂き、また各地の花火大会実行委員会の方々ともにぎやかに懇談させて頂き。結構濃い時間でありました。(;^_^A )

やがて散会となり宿に帰り、すぐそのまま ぬえは眠ってしまったようです。翌朝で二次会のお誘いがあったとようやく聞いて、しまった~~! (^◇^;)

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その4)~観光協会での『羽衣』と、金華山の蛇踊り!

2013-08-03 00:01:10 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月1日(木)】

石巻川開き祭り2日目。我々としてもこの日が活動の最終日ですが、昼のほか夜の上演もあるためもう1泊することにしていました。その最後の宿泊だけはこれまでの3日間とは別のビジネスホテルに投宿することになっていたので、荷物をまとめて3日間お世話になった宿をチェックアウトしてそのまま石巻駅前の観光協会に移動。

結局川開き祭りでは活動場所もなく、また街中が賑やかすぎてイベントとしては能の出番はなかったわけですが、この日はすでに朝から駅前にも多くの人が歩いていて、この日も場所を探して上演することにしました。で、例によって観光協会さんがある建物「ロマン海遊21」で能『羽衣』を上演することになりました。

ロマン海遊の控室には巨大な龍が置かれています!



じつはこの日歩行者天国となっている立町の大通りではパレードなどのほか、金華山にある黄金山神社に伝わる「蛇踊り」が演じられることになっていて、ぬえはこれを見るのが川開き祭りの大きな楽しみでした。「蛇踊り」は幟りやチラシなどに「龍(蛇)踊り」と書かれてあって、ちょっと不審でしたが、やがて奉納の関係者も集まってこられたので伺ってみると、「ん~、実際には龍なのですけれども、私たちも普通に蛇踊り、と呼んでいますね」というお話でした。「蛇踊り」の方が声に出して呼びやすいんですかね。

「蛇踊り」といえば もちろん長崎のものが有名ですが、なぜ遠く離れた宮城県に「蛇踊り」があるんだろう。…調べてみたら、どうやら金華山のものは意外に歴史は新しく、やはり長崎から持ち込まれたものであるようです。

長崎の人が見た金華山の蛇踊りの感想→金華山の蛇(じゃ)踊り

ところでこの日は朝から寒かったです。去年、一昨年と東北でも夏は暑くて、今回も心配しながら当地にやってきたわけなのですが、天気もずっと曇り空、夜には肌寒いほど気温が低いのです。もっとも暑いよりは楽だから助かるし、震災の年の夏は暑さに加えてハエが大量発生していましたので、それがなくなっただけでもありがたいと思わねば。で、この日も曇り空のため、朝に予定されていた自衛隊のブルーインパルスのデモ飛行は中止になってしまいました。これも楽しみにしていたのに~。

ブルーインパルスはアクロバット飛行で有名ですが、ここ石巻の隣町である東松島市の航空自衛隊松島基地を拠点としています。自衛隊の基地は震災で津波の被害を受けたのですが、ブルーインパルスの機体は1機が水没したほかは6機がたまたまイベント出演のため福岡県の基地に移動しており、2機は定期修理で松島基地を離れていて難を逃れたのだそうです。松島基地の修繕が終わって今年の春にようやく宮城県に戻ってきたブルーインパルスにとって、この日の石巻川開き祭りは晴れ舞台のはずでした。

「ロマン海遊21」で能『羽衣』を上演。この場所でこの曲の上演は震災の年の9月にやったことがありますが、今回はこの日の昼間に時間が空いていたので、こちらに到着してから急遽決めた上演だったので、装束も持ち合わせのものを使うほかなく、曲目が重複しました。。といってもこの場所では2年ぶりの『羽衣』でしたけれども。それでも駅前は普段とは違って大勢の人でごった返していて、多くの方にご覧頂けました。



上演を終えて控室に戻ってみると、「蛇踊り」のみなさんはすでに会場に移動したあと。急いで片づけをして ぬえは「蛇踊り」が上演される立町の道路に行ってみました。歩行者天国となった大通りは浴衣を着た若い人たちであふれていました。人混みをかきわけかきわけ、北上川のそばの交差点まで行くと、ををっ、「蛇踊り」はすでに始まっていました。



さきほどのリンクの長崎の人には物足りなかった金華山の蛇踊りですが、ぬえは大いに楽しみました! 面白いね~~。金色の宝玉をほしがる龍が、それを追い回す、という内容なのですが、神社に奉納される芸能ですので会場には注連縄をめぐらせた神社の金幣が祀られ、演じる人々はそれに拝礼をしてから「蛇踊り」が始まります。龍も御神酒を飲んで酔って寝てしまったり、再び起きあがって玉を探し、見つけると網ダッシュで玉を追いかけ。。面白いな~

やがて「蛇踊り」が終わると ぬえは露店で昼食を摂ったり、また中心市街でイベントを行っていた渡波のボランティア団体にチーム神戸の金田さんの仲介によって顔合わせをしたり。やがて観光協会から荷物を引き上げて、今夜投宿するホテルにチェックインしました。観光協会からはほど近いホテルでしたが、川開き祭りの間は車両の通行ができないので、荷物はすべて観光協会さんから拝借した台車を使って運びました~

その後も夜の出演まで時間が空き、今回は露店が置かれたため場所がなく能の上演ができなかった「立町ふれあい商店街」に遊びに行ったり、夜の上演の際に司会の方に読み上げて頂く曲目の紹介やプロジェクトの紹介の原稿を作ったり。やがて夕方7時に今回の最後の上演会場となる石巻グランドホテルに楽屋入りしました。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その3)~普誓寺さん奉納と「供養花火」

2013-08-02 00:01:10 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてそろそろ式典の時間が迫っていたので、大街道と工業港の間にある普誓寺さんへ。じつはこのあたりは津波でかなりひどい被害があった地区で、普誓寺さんも大きな被害を受けました。本堂はまだ壁が落ちたような状況で、隣りに建っている信徒さんが集まる時などに使われる「一心堂」が仮本堂となっていました。







ここは川村孫兵衛の墓を守るお寺で、朝お目に掛かった川開き祭りの役員さんや市長さんも集って墓前での供養が行われることになっていました。ここでは観光協会の方のご尽力によって ぬえたちは供養祭の前に「一心堂」で奉納させて頂くことになっていましたが、こちらは供養祭に参列される役員さんが一時待機される場所になっていましたので、なんと ぬえたちは市長さんはじめ役員さんの前でご本尊に奉納させて頂くことになりました。

午後4時、市長さんたち役員さんの見守る中舞囃子『融』を上演。その後 ぬえたちも孫兵衛の墓前での供養祭に参列、ご焼香させて頂きました。普誓寺さんの檀家さんが歌う川村孫兵衛を讃える歌が流れる中の供養祭は感動的でした。終了後再び「一心堂」に戻って、普誓寺のある釜地区の方々が役員さんのために振る舞われた会食の席に同席させて頂きましたが、しばし歓談させて頂いているうちに役員さんたちは次の式典会場に移動。街がお祭りで賑やかな一方、役員さんは朝からずっと各地をまわっての式典参加ですから大変なご苦労だと思います。散会したところで ぬえたちは釜地区の方々から とうもろこしやらお漬け物などをどっさりお土産に頂いて、会食の後片づけをお手伝いして退出しました。

相澤さんをおうちまでお届けして再び宿に戻り、夜になってから街の様子を見に行きました。「ふれあい商店街」さんなどいつもお世話になっている立町通りは歩行者天国になっていて、たくさんの露店や大勢の人で賑わっていました。こちらでも午後6時半より孫兵衛報恩供養祭や川施餓鬼供養祭、そうして灯籠流しが行われていましたが、ぬえは宿で洗濯などしていてそれには間に合わず、8時から行われる「供養花火」を目当てに北上川の川岸に向かいました。

石巻ではじめて見る「歩行者天国」と人混み!(この画像ではあまり大勢に見えませんが。。)



北上川は、石巻に到着してすぐに気づいたことですが、最近の雨でずいぶん水かさが増しているようでしたが、川岸の遊歩道が水没していました。この付近は防潮堤を造る計画があります。三陸沿岸ではその防潮堤の可否が大きな問題となっていますが、ここ北上川は周辺の地盤沈下によって川の水が陸地のすぐそばにまで迫っていて、そのため大雨などの際はすぐに「避難指示」が出されてしまいます。他の地域はともかく、ここは ぬえも危険性を感じる場所なので、防潮堤は必要でしょう。。問題はその規模でしょうか。海に面した地域では、石巻でもやはり景観や防潮堤の建設によって海が見えなくなる事の弊害が議論されているようです。

川岸では法要が営まれ、焼香台も設けられていました。





午後8時、中瀬公園から「供養花火」が打ち上げられました。石巻の川開き祭りではこの日、7月31日と翌日の8月1日の2日間に渡って花火が打ち上げられますが、初日のこの日は震災の犠牲者の供養のための花火でした。事前に「色のない花火大会」と聞いていましたが、白い色の花火を中心に、時折華やかな花火も取り混ぜて打ち上げられている感じ。北上川には流された灯籠が浮いていましたが、もうほとんど灯も消えて、また潮が上がっているのか、流れずに停滞している様子でした。

こちら、石ノ森萬画館の向こうに打ち上がる花火。



それにしても去年、石巻市の雄勝や気仙沼大島で花火大会は見ましたが、2年以上活動を続ける石巻市中心部で花火大会が見れる日が来るとは。なんだか感慨深く花火大会を見ていました。

花火の終わり頃、相澤さんや友人と観覧していたTさんとも会場でバッタリ遭遇しましたが、花火終了とともにまたまた散会。JIN'S PROJECTのみなさんもこの日川開き祭りのお手伝いのために石巻に到着していましたが、ああなんと、露店でポップコーンを売っていました~。



さてお腹もすいたので露店で「石巻やきそば」でも買って宿に帰ろうとした ぬえ。なんとここでバッタリ、昨日お邪魔させて頂いた秋田屋さんの浅野さんに会いました。浅野さんは「昨日の上演の写真を友人からもらったのよ。とってもよく撮れているから差し上げるわ」とおっしゃって、お屋敷に招いて下さいました。

最初は写真を頂くだけのはずだったのですが、ご家族も「あれ、ぬえさんが来たの?」とおっしゃって快くお招き頂き、そのままお食事を頂きビールを頂き。。こういう時に遠慮しない ぬえですんで、ありがたく頂戴して、ずいぶん長くお話させて頂き、夜も更けてからこちらも散会、宿に帰りました。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その2)~市内寺社で奉納舞囃子

2013-08-01 07:56:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【7月31日(水)】

翌日は、前日とはうって変わって忙しい日となりました。前述の通り今回の活動では石巻川開き祭りの中に出演しようと喜び勇んでスケジュールを立てはじめた ぬえたちでありましたが、交渉を始めてみると、実際にはお祭りの盛り上がりに、能の出演の機会はほとんど見つからないという有様でした。そこで川開き祭りへの出演は、イベントよりはむしろ寺社への奉納として出演する方向へ転換をする事を考えたのですが、意外やこれが新たな交友関係や活動が発展する可能性を期待できるような展開となったのでした。

石巻の川開き祭りは、市民にとっては花火を見たり露店で遊んだりを楽しむ盛大なお祭りですが、本来は石巻の街の基礎を築いた川村孫兵衛の供養のために大正時代に始められたものでした。現在でもこの精神は受け継がれていて、お祭りの役員さんなど関係者によって、市内各地にある川村孫兵衛の墓や顕彰碑、銅像などをまわって供養祭が執り行われることになっていました。ぬえたちはこの機会に、孫兵衛や土地の神様、本尊へのご挨拶のため供養祭のあとにその会場となる寺社で奉納上演をさせて頂くこととなりました。

まずは朝8:00、住吉公園にある孫兵衛顕彰碑の前で執り行われる「川開き祭典」のあと、同じ公園内に鎮座する大島住吉神社で舞囃子『融』を奉納させて頂きました。大島住吉神社での奉納は、2012年の元朝に勤めさせて頂いて以来2度目になります。このとき ぬえたちを歓待してくださった氏子さんの代表の方に再会し、当時の上演の写真を頂戴したり、なんだか懐かしい。当時は元日でもあり社殿の前の境内で舞囃子『高砂』を勤めたのですが、今回はこのところ続いていた降雨のため境内の地面のコンディションが思わしくなく、拝殿の中で上演させて頂きました。「川開き祭典」は市長さんや関係者も集って顕彰碑の前で祝詞が奏上されましたが、役員さんたちはすぐに次の式典に出席するために移動。ぬえたちは大島住吉神社の氏子さんたちが見守る中、無事に奉納をさせて頂きました。





このあと一旦宿に戻って汗だくになった下着を着替え、笛のTさんは再び8月に活動する登米市へ。ぬえは宿で昼食を摂って事務作業など。午後、石巻市民で ぬえたちの石巻での活動では毎度お手伝い頂いている相澤利喜子さんとともに牧山にある零羊崎(ひつじさき)神社へ。

こちらは川開き祭りの式典会場ではないのですが、チーム神戸や、湊小学校避難所時代から湊地区の再生のために先頭をきって尽力しておられる住民さんの佐藤哲美さんのお力添えを頂いて奉納が実現しました。考えてみれば ぬえたちは石巻の湊地区で2年以上活動しているのですが、この地区の守り神というべき零羊崎神社さんにご挨拶するのはこれが初めてです。宮司さんよりお祓いをして頂き、チーム神戸のリーダー・金田真須美さんや佐藤さん、それから地域の関係者の方々の前で、舞囃子『融』を勤めさせて頂きました。




(画像は金田真須美さんよりご提供頂きました~)

零羊崎神は立派な社殿で驚きましたが、こちらでは法印神楽が伝承されているそうで、ぬえたちが帰京したすぐ後に奉納の上演が行われるそうで、その関係者さんともご挨拶することができました。ぬえもこれだけ立派な社殿であれば、次回は装束能を奉納したり、また法印神楽との競演をするなど、将来の活動について夢が広がりました。

零羊崎神社さんを後にして、次の奉納会場である普誓寺さんへ移動。少し時間があったので、その間に石巻漁港や門脇の被災地区に立ち寄ってみました。

こちら、鯨缶詰を模した巨大なタンクが流されて、しばらくそのタンクが道路の中央分離帯の緑地に残されていた「木の屋」さんの工場が再建されていました。鯨の缶詰はいまや東京でもあちこちで目にするようになりました。



石巻漁港。まだまだ復旧工事が続いていますが、岸壁には大きな漁船が何隻も停泊していました。



門脇小学校には目隠しのシートが取り付けられていました。この学校も「震災遺構」として残すか、取り壊されるか意見が分かれています。このシートは解体工事が始まったわけではなく、グラウンドを付近の学校が使うためだそうです。被災した市民病院と文化センターは巨大な建物のため長いこと放置されていましたが、ようやく取り壊し工事が始まっていました。



こちらも有名な「がんばろう石巻」の大看板。ヒマワリが植えられ、仙台の七夕祭りのような飾りが取り付けられていました。


第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その1)~

2013-07-31 11:53:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
珍しくリアルタイムでのご報告です。ただいま石巻。石巻市中心部では毎夏の8月初旬、1年で一番盛り上がるお祭り「石巻川開き祭り」が開かれます。いつもこの頃は伊豆で教え子の子どもたちと花火見物に出かけている ぬえではありますが、川開き祭りへの出演は以前から興味を持っていたので、今年は子どもたちにゴメンして石巻にやって参りました。

あ~ところが。実際には川開き祭りはあまりの盛り上がりで、街中でパレードが行われたり、コンサートが開かれたり、また仮設商店街でも出店が軒を並べたりで、どうも能の上演は難しい様子でして。。これまでの活動の中では最もヒマな時間を過ごしております。だからリアルタイムでご報告ができているという。。

とはいえ、そこは転んでもタダでは起きない ぬえ。よく東北で一緒に活動しているピアニストの御子柴聖子さんのご紹介受けまして、昨日は土地の名士・秋田屋さん。。浅野さんのお屋敷で『能とピアノの夕べ』公演を持たせて頂きました。これが、予想以上に大変ロマンチックで良い催しとなり、活動のスタートとしてまずまずの出足の良さに安堵しております。

【7月29日(月)】

未明に笛のTさんと一緒に東京を出発、昼前に石巻到着。この日は8月に活動を行う登米市の会場の下見など予定していましたが、翌日に予定されている石巻での活動の宣伝が少々不安で石巻にて活動することに。

ラジオ石巻や三陸新報社、観光協会などで宣伝活動を行い、またチーム神戸やガレージ湊など旧知の方々に顔を出して挨拶して宿にチェックイン。夜は商工会の方と打合せを兼ねて会食。。というか酒盛りでした~。

【7月30日(火)】

この日も夕方まで予定はなし。Tさんは単独登米市に行って打合せと下見をしてくれ、ぬえは今後活動を展開する予定の東松島市の会場の下見に行って参りました。

午後2時、ピアニストの御子柴さんも石巻に到着、Tさんも鉄路石巻に戻り、相前後して秋田屋さんへ。御子柴さんとは、それはそれは古くから。。お父さまの時代からのおつきあいだそうで、そんなこともあって以前からこちらでの活動の可能性の打診は御子柴さんから受けていました。今回はプロジェクトのスケジュールの空きを埋めるような感じで計画をスタートさせることになりましたが、それがまさかこんな素晴らしい上演になるとは、そのときには夢にも思わず。。

秋田屋さんは前述の通り石巻の名士のお家でして、見事な庭園が有名。桜の季節だけ一般公開をしていて、そのときは大勢の市民の方が訪れるそうです。かつてはさらに広大なお屋敷だったそうですが、震災の復興のため、さらに今後土地を譲ることになるそうです。市による駅前の大規模な開発の計画もこの日はじめて伺いましたが、本当に大改造が行われるようですね。

さて秋田屋さんにお伺いしてご挨拶を交わし、早速に公演準備。この日は石巻や気仙沼で展開している『星と能楽の夕べ』に通じる上演を考えまして、庭園をライトアップしたり、キャンドル(100均で買ったLEDキャンドルですが。。w)を庭園に並べたりして。PAも電子ピアノも能楽師が用意しての上演だったので、機材は大変な量になりました。

じつは。。この日の日没の時間もちゃんと事前に調べてありまして、ピアノ演奏をしているうちに日が暮れるように計算して、18:00の開演としました。夕食準備もあるし、お客さまが集まるか不安ではありましたが。。

秋田屋さんも事前に新聞に広告を出してくださったおかげもあって、前日から ぬえの携帯にも何本もお問い合わせのお電話を頂いたので、ひょっとすると。。という期待もありましたが、予想はまったくつかず。ところが開演時刻よりずっと前に次々とお客さまが集まってくださいました!あとで芳名帳を見て、全体を推測すれば80名ほどもお客さまが集まってくださったでしょうか。当初はお座敷を舞台に、見所もお座敷のつもりでいたのですが、庭園まであふれんばかりのお客さまが。。感激してしまいました。あ、伊豆の国市の観光協会さんから頂いてきた大量の団扇、みなさんに喜んで使って頂きましたよ~





上演は、御子柴さんのご紹介によって実現した公演でもあり、また能楽師も例によって二人だけの参加なのでダイジェスト版しか上演はできない事情もあり、ピアノ・コンサートの中に能の上演が挟まる、という感じに組み立ててみました。

御子柴さんもお客さまに若い人や子どもたちも混じっているのを見て急遽演奏曲目を替えたり、相変わらずフレキシブルな対応。最初は明るい曲から、次第に静かでロマンチックな曲に移っていきます。曲数もあまり事前に打合せせずに上演を開始しましたが、御子柴さんが『月の光』の演奏を始めたのを聞いた ぬえは、ははあ、これは能の上演曲『羽衣』に繋げるつもりだな? とすぐに気づいて、すぐに上演できるようにスタンバイ。。案の定、『月の光』が終わったところで ぬえたちにバトンタッチされて『羽衣』を上演しました。





ぬえの計算通り、ちょうど庭園も日が陰って幻想的な雰囲気になっています。鴨居に天冠をぶつけないように気をつけて(ぶつけましたが)、縁側にも置いてあるキャンドルを蹴らないように注意して(蹴りましたが)、でも縁側まで出て行ったり、座敷まで戻ったり、座敷のお客さまにも、庭園にいらっしゃるお客さまにも演技が向けられるように工夫しながら。。気は遣いましたが楽しく勤めさせて頂きました。

能の上演のあとは再びピアノ・コンサート。御子柴さんが「どうしようかな、止めようかな」と考えていた『沈める寺』は ぬえが御子柴さんの再登場の直前に舞台袖でリクエストしたところ、冒頭に弾いてくれました。終演時に ぬえらも再登場してお客さまにご挨拶することになっていましたが、これもピアノ演奏の曲数など決めておきませんでした。。と、やっぱり『月の光』が聞こえてきます。あ、これで終わりのつもりだな、とすぐに解ったので、これを弾き終わったところで ぬえらも再登場。。じつは先ほどの『月の光』は、なぜだか御子柴さんはアップテンポに弾いていたので不思議に思っていたのですが、こちらは心を込めて、静かに、静かに弾いていました。エンディングのためにとっておいたのですね。心憎い演出でした。



終演後、なんとお客さまが自発的に庭園のキャンドルを集めてくださったり、と片づけに協力してくださいました! これは驚いた。やっぱり石巻の人、優しいっちゃ~!

だいたい片づけも終わったところで秋田屋さんがメロンやお茶、お菓子を勧めてくださり、こういう時にまったく遠慮のない ぬえはバクバク メロンを頂戴しました。「あ、もうひとついいですか?」「1切れ残っていますが、これ、頂戴していいですか?」。。たぶんご家族は手をつけておられないけど、おいしいんだもん。ぬえ、おそらくメロン丸々1個は一人で頂きました~。

終演後、汗だくで宿舎に戻りたいところだけれども、やっぱり石巻に行ったなら、ということで湊の焼き鳥屋さん「東助」に行って祝杯をあげました。



いやいや、本当にロマンチックな上演になったと思います。活動の最初からこんなに手応えを感じて幸せ。当初はお座敷に面や装束を展示したり、また終演後に装束の着付けや笛の体験など「ふれあいコーナー」を予定していたし、それはチラシにも謳ってあったのですが、この美しい夜にはもう余計でした。お客さまにも終演を迎えたときのお気持ちのままでお帰り頂く方がはるかによろしい、と考えて「ふれあいコーナー」は割愛。。というか自然に消滅していきましたね。

決算報告書(05/25~29)

2013-07-29 00:10:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト

第14次被災地支援活動(2013年05月25日~29日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 284,444円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     銀行口座募金(ボラ扱い)     33,000円        収入計  349,944円
                           内訳:ボラ 317,444円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費   40,452円
     (夜行バス1名分         14,250円)
     (ガソリン代           16,552円)
     (有料道路通行料          9,350円)
     (駐車代              300円)
    ◎宿泊費    8,000円
     (2人×1泊            8,000円)       支出計   48,452円

 【収支差引残額】                         残額    301,492円
                          内訳:ボラ 268,992円 ギエ 32,500円

※注※
・プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。プロジェクトの活動にご理解を頂き、ご支援を頂いた諸兄には、改めて深謝申し上げます。
・「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・近来銀行口座へ継続的に活動資金を募金してくださる方も複数あり、またボランティア団体JIN'S PROJECTさまのご厚意により、活動によっては同団体との共催の形を取ることによってスポンサー企業さまからの補助金を頂ける場合もあり(今回14次支援活動はその対象外の活動であるが)、現在のところ全体的には活動資金はやや窮地は脱した感である。しかしながら今後も息長い支援活動を続けてゆくために、今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。


 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上

  平成25年07月05日





                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com



↓領収証は以下に添付






活動報告書(05/25~29)

2013-07-28 22:00:56 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト

第14次被災地支援活動(2013年05月25日~29日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに13度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難している旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田、寺井は、去る05月25日、および05月28日・29日に渡り宮城県・気仙沼市内にて計3回、能楽の上演を行いました(※注2)。

今回の活動は気仙沼市で震災の前より知的障害をもった児童の社会進出支援団体「NPO法人ネットワークオレンジ」の新拠点「東新城オレンジ」の落成式にお招きを頂いての実現することができました。「ネットワークオレンジ」関係各位に深謝申し上げます。

今回特筆すべき活動は、言うまでもなく「東新城オレンジ」落成式での上演です。5月25日に挙行された落成式当日には、あいにく笛の寺井宏明は東京の舞台の都合で欠席となり、八田達弥が単独で気仙沼に参上しての上演となりました。このときは舞囃子の形での上演とはなりましたが、落成式の中で唯一のイベントとなり、式典に華を添えられたのではないかと思います。また「ネットワークオレンジ」さんのご厚意により、この落成式の直後の能楽師の都合の良い日に改めて能楽の上演を、というお招きに預かり、落成式の3日後に寺井も参加して改めて落成記念としての能楽を上演する機会を頂きました。

さらに、寺井も参加して気仙沼に参上するうえは、せっかくの機会でもありますので、気仙沼市内で活動を展開しようと試み、仮設商店街の「鹿折復幸マルシェ」で上演させて頂くことが実現致しました。

また今回の活動でもう一つ注目すべきは、今回は能楽の上演活動に留まらず、各地の関係者の方と会談して、今後のプロジェクトの活動について可能性が高まった点でしょうか。これはプロジェクトメンバーの寺井の人脈、交友関係の広さに負うところが大きいのですが、プロジェクトの活動の中でネットで知り合った方、また古くからの交友関係の中で、じつは被災地に関係していた事が判明した方、そのまた関係者、と多岐に渡る人的交流が一挙に相互関係をもってつながり、またこれに八田も加わることができた、という事で、プロジェクトの今後の活動が新たな局面に広がることが期待されます。

付言すれば、今回の活動に際しては震災後のそれぞれの街において住民さんが復興に向けてどのように取り組んぢるのか、その生の声を実感する、印象的な旅だったと思います。また、前回気仙沼の「リアス・アーク美術館」で行った「星と能楽の夕べ」公演が現地のタウン紙(フリーペーパー)にて報道されていたことを知るなど、我々プロジェクトの活動も、少しずつ気仙沼市民の間に浸透し始めた可能性を感じることもできました。さらには住民さんとの交流の中で、仮設住宅等への支援に地元商店主さんなどと協力しながらの活動の話も出まして、これは次の活動の中で実現する事になりました。今回の活動は、能楽の上演活動もさることながら、細かい、個人対個人というレベルで地元住民さんとふれあい、また協力関係を構築する可能性がふくらんだ事を成果として感じるものだったと思います。

もうひとつ、今回も前回に引き続いて静岡県伊豆の国市の「子ども創作能」の参加児童のご家庭より支援物資(遊具)の提供を頂き、気仙沼市の地福寺さまにお預かり頂くことができました。これは再開予定の階上地区の保育所にて活用頂ける予定ですが、その前回の支援に対して保育所よりお礼状が届けられました。伊豆の国市「子ども創作能」のご家庭からは震災の年の夏より継続して食料や書籍、子どもの遊具を支援頂いておりますが、お礼状という目に見える形になって謝意が届けられたのはこれが初めてでした。贈った方、贈られた方、その双方の善意が感じられ、大変喜ばしいことだと思います。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。ただし都合により今回は八田・寺井の2名での活動となった。
※注2 今回の上演場所は①気仙沼市・東新城オレンジ②気仙沼市・鹿折復幸マルシェ(仮設商店街)③気仙沼市・東新城オレンジの3箇所。

【活動記録】
 5月24日(金)
八田達弥のみ夜行バスにて東京を出発。

 5月25日(土)
早朝、気仙沼到着。ご厚意により「ネットワークオレンジ」三日町事務所にて休息させて頂き。午前9:00頃「東新城オレンジ」へ移動。

午前11:00より「東新城オレンジ」落成式開式。この冒頭にて舞囃子『高砂』を勤める。ついで開式宣言、気仙沼市長さまほかの来賓挨拶、「ネットワークオレンジ」代表の小野寺美厚さんの挨拶、くす玉割り、所属の子どもたちによる歌の披露と続いて閉式、その後会食。

その後落成式で知り合いになった起業家の方々4名と意気投合、次に予定している気仙沼での活動でご一緒する夢を語り合う(これはその後すぐに実現することになりました)。

この起業家さんたちにお送り頂いて、仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」に行き、翌週に催させて頂く活動のために関係者にご挨拶し、ポスターを貼らせて頂く。

終了後、BRT(バス高速輸送システム)を利用して柳津に到り(途中南三陸町の仮設商店街「さんさん商店街」を視察)、また仙台に出て、夜行バスにて帰京。
 
 5月26日(日) 活動なし

 5月27日(月)
八田は東京での用事を済ませてから夜に東京を出発。深夜走行にて翌早朝仙台に到着

 5月28日(火)
仙台にて寺井と合流、気仙沼に向かう途上、登米市の横山不動尊さま、南三陸町の上山八幡宮さまにて今後の活動について相談させて頂く。「さんさん商店街」にて昼食後、気仙沼市階上地区の地福寺さまにも立ち寄り、こちらでも今後の活動の相談をさせて頂いたほか、伊豆の国市の「子ども創作能」の参加者のご家庭から寄贈された子ども用の遊具などをお届けする。

17:00 気仙沼市の「鹿折復幸マルシェ」さんにて「能楽の心と癒やしをあなたに」公演。先日お会いした起業家の方のほか、ご近所の謡曲愛好家の方も見えて盛況のうちに能『羽衣』を上演。

終演後、ネットワークオレンジさんの関係者と会食。

 5月29日(水)
朝、徳仙丈山に行き、ステージのある公園とツツジを見てから東新城オレンジへ。先日の落成式には八田しか参加できず装束能が上演できなかったため、寺井が参加できるこの日に改めて能楽の上演をする予定。

この日、東新城オレンジを寄贈したドイツ人の団体の関係者やネットワークオレンジ所属の子どもたちも参加しての公演となり『龍田』を上演。終演後、これらの人に装束の着付け体験をして頂いて終演。

その後、寺井は鉄路、八田は陸路にてそれぞれ帰京。

【収入・支出】

  プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われております。近来JIN'S PROJECTさまとの共催の形を取り、同団体の斡旋により企業より活動資金の一部を補助頂くことができる場合もありますが、今回の活動は純然たるプロジェクトの資金によって行わせて頂きました。

  募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂きます。

  プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として 316,944円(内訳:ボラ 284,444円 ギエ32,500円)があるほか、前回第13次支援活動の決算のあと銀行口座へ計33,000円を頂戴致しました。よって計349,944円(内訳:ボラ 317,444円 ギエ32,500円)が今次活動の前に計上されております。

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りで、今回の活動終了時の残額は 301,492円(内訳:ボラ268,992円 ギエ32,500円)となっております。これらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。

  プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。また宿泊につきましても通常は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊を旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

前述の通り今後は企業さまのご支援を頂ける可能性もありますが、今後も長期に渡って被災地での活動が継続できますよう、みなさま方には引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。

【成果と感想・今後の展望】
プロジェクトとして第14次となる今回の支援活動では、八田の単独活動と、中に1日をおいての八田・寺井の二人による活動の二つに分けられる、少々特異な活動形態となりました。また主たる活動の場がネットワークオレンジさまの新拠点「東新城オレンジ」の落成式であり、お招きを受けてのありがたい活動となりました。ネットワークオレンジさま、わけても代表の小野寺美厚さんが震災前から行っておられる障害児童の支援活動、また震災後の新しい復興のビジョンには大変感銘を受けました。またネットワークオレンジさまの落成式では様々な方とお話しをする機会が生まれ、新たな活動の可能性が見えてきました。大変ありがたいことです。また、せっかく気仙沼で活動をする機会ですので、はじめての活動場所として鹿折の「復幸マルシェ」さまより受け入れを頂くことができました。

この報告書を書いているのが7月下旬のことですが、じつはその後、今回の活動が大きな発展を遂げることとなりました。上記の東新城オレンジ落成式で出会った起業家の方々と8月に仮設住宅での活動をご一緒することになり、また鹿折の「復幸マルシェ」さんの商店の方の紹介により、新たな仮設住宅での活動が展開されることとなりました。近来、プロジェクトでは仮設住宅での活動が減少傾向にあり、少々心配していたのですが、次回は地元の住民さんとご一緒の有意義な活動となることが期待されます。

様々な出会いがあった今回の活動。これが新しい活動の源となる可能性も感じられることとなりました。ご協力頂いたネットワークオレンジや鹿折復幸マルシェさまの関係者には改めまして感謝申し上げます。




平成25年7月28日




                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com

第14次支援活動<気仙沼>(その17)~東新城オレンジ公演

2013-07-24 02:09:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
このところブログの更新ができておりませんが。。

いま、今週末と、それから8月中旬に迫った石巻市と気仙沼市でのそれぞれの支援活動に向けて、まだまだ交渉を重ねている段階でして。それが、ぬえがこの時期にやりたかった公演を断念することになったり、反面、これまでの活動の中で最大限、地元の住民さんとのコラボとしての活動が実現できたり、さらには ぬえたちプロジェクトが誇る「星と能楽の夕べ」公演に匹敵するんじゃないか、と思うロマンチックな公演が企画されたり、と、一喜一憂。。いや、結果的には一憂の間に三喜びぐらいできるような、うれしい方向に目まぐるしい展開を毎日を過ごしております。

さらには、ぬえたちプロジェクトにとって、活動の根底からの転換を促す大きな大きな提案が持ち込まれまして、これについての可否をずうっと考えておりました。いえ、トラブルではありません。ぬえたちプロジェクトの将来的な活動について、ぬえ自身も漠然と考えていた不安を解消するための提案で。。そうして、進み方によっては ぬえの夢である「復興達成記念薪能」の上演さえ視野に入れられるような、そんな大きな提案でした。まだ交渉段階ではあり詳述は控えますが、様々な方に意見を求め、また当事者とも協議をして、基本的な合意にはすでに達しつつあります。いずれ読者のみなさまにもより良い形でのプロジェクトの発展を報告させて頂くことになると思いますが、そんな事に時間を取られながら、ぬえは活動を続けておりました。

。。さて5月の活動のご報告の続き。

東新城オレンジに到着した ぬえ。この日は、先日 ぬえ一人で参加させて頂いた落成式の延長で、落成記念祝賀能、といった趣の催しです。落成式当日は舞台の都合で参加できなかった笛のTさんを迎えて、ぬえも装束を着けて能を舞う催し。落成式には気仙沼市長さんもお出ましでしたが、今回は身内でこぢんまりと。。と思ったらそうでもなくて、この日は東新城オレンジの建設に大きな寄付をくださったドイツの厚志家の方もわざわざ気仙沼に来訪された日だったのでした。これは良い催しになりましたね~

この日の上演は能『龍田』。外人さんも見えるので、『羽衣』よりも少し派手な曲を選びました。





終演後は例によって装束の着付け体験。このドイツ人の厚志家の方に、まずは狩衣を着付けて差し上げて。。ああ~、やっぱり半切の長さが足りない~



続いて「エッグ」に『羽衣』の着付け。「エッグ」とはネットワーク・オレンジさんが支援する障害児童のうち高学年の子を指す言葉なのですが、見に来てくれた「エッグ」の女の子をめざとく見つけた ぬえは、装束を着付けてみたのでした。



出来上がってみると。。あら、かわいい。



なんかエッグが喜んでいる間に、ネットワークオレンジの代表の小野寺美厚さんにも装束を着付けてみました~。美厚さんです。いやいや、卑弥呼さんじゃありません。







それで、みんなで記念撮影。もちろんここでも「おすまし」ポーズで決めました~~



さてさて、それじゃ、というので、この日は東新城オレンジを退出しまして、笛のTさんを駅まで送り、ぬえは再び一人で帰途に。なんだか。。良かったなあ。今回の活動は。いや、活動自体は ぬえの一時帰京をはさんで実質3日間しかなかったし、活動場所もネットワークオレンジさんの東新城オレンジで2回、あとは鹿折の復幸マルシェさんでの1回しかなかったのだけれども。。志津川や登米市での新しい出会い。それは東新城オレンジでも、はたまたマルシェさんでも。ああ、そうか。いまこれを書いている ぬえが7月下旬だから、感慨深い感想を持つのでしょう。だって、ここで「はじめまして~」とご挨拶を交わした方々との繋がりが、この7月下旬と8月中旬の活動に、すぐに反映されて驚くような発展を遂げていったんだもの。

その内容については、成果が出るであろうそれぞれの活動が終わってから、ご報告させて頂くことになるでしょう。とりあえず、未来に広がった活動は最高に有意義なものになった、と述べさせて頂くことで、今回の支援ツアーのご報告の仕上げとさせて頂きます~

                                        【この項 了】

第14次支援活動<気仙沼>(その16)~徳仙丈山へ

2013-07-16 10:36:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【5月28日(火)】

翌朝、いつもよりは遅く起床して、朝食の買い出しに近所のコンビニへ。弁当を買い込んで帰ると笛のTさんも起きたようだったので弁当を差し入れて、さてチェックアウトはしましたがまだ東新城オレンジへ行くには早すぎる時間だったので、徳仙丈山(とくせんじょうざん)に行ってみることにしました。というのも、昨日鹿折の復幸マルシェさんから帰るときに、マルシェの事務所で「徳仙丈山に能舞台があるよ」と聞いていたからです。

徳仙丈山は気仙沼の市街からはずっと南、気仙沼市の中部の西端、一関市との県境に近い場所にある山で、頂上付近まで車で行くことができます。そうしてここはツツジの名所として知られている山なのでありました。

安波山トンネルを通る近道が通って「気仙沼バイパス」と呼ばれる国道45号線でぐるっと市街を迂回して、それから段々と山道に入っていき、徳仙丈山を目指しました。山道といっても道は整備されていて、割と快適に到着。頂上近くは公園になっていて、そこにあった駐車場に車を停めて公園の中に入ってみると。。



ああ、ありました、これですね。残念ながら能舞台ではありませんでしたが。。それでも歌謡ショーやノド自慢大会とか、様々なイベントに使われているようでした。広い楽屋や、階段状に作られた客席のスペースもあって、これはピクニック気分で楽しむイベントを行うにはもってこいですね~

舞台を見てから、山道を下りてくる人々を見て、その奥に行ってみると。。



ををっ! 歩き始めてすぐツツジが見えてきました。もう少し先には展望台も。そこまで行ってみると、おくまあここまで。。と思えるほどのツツジの群生。でも、盛りはもう1~2週間先かなあ。その頃はもっと見事でしょう。ぬえはツツジという花、あんまり好きではないのですが、キリシマツツジだけは好き。この徳仙丈山に咲くのはヤマツツジとレンゲツツジ、なのだそうですが、柔らかい色彩で。。なんだかおいしそうでした(違うか)





同じように徳仙丈山のツツジを楽しみにピクニックに来た地元の方々と談笑しましたが、みなさんとっても喜んでおられました~

満開の時期の徳仙丈山の画像はこちらっ→徳仙丈山物語http://www15.ocn.ne.jp/~tokusen/gazou1.html

山を下ってくると「ネットワークオレンジ」のSくんから電話がありました。なんだろう。魚、食べられるようになりました! という報告かな。まだ無理か。

内容は、スタッフさんは早めに、そろそろ東新城オレンジに向かいます、ぬえさんたちは何時頃到着の予定ですか? というものだったので、すぐに向かいます、と答えて、東新城オレンジに向かいました。

第14次支援活動<気仙沼>(その15)~オレンジのメンバーと飲み会!

2013-07-14 01:17:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
宿に到着して、すぐに「ネットワークオレンジ」のメンバーに電話してその旨を告げると、ほどなくお迎えに来てくださり、近所のお店に飲みに行きました~。

ええと、再度確認しますと、今回の活動の主な目的は「ネットワークオレンジ」さんの新拠点・「東新城オレンジ」の落成式への出演なのであって、その当日。。5月25日には笛のTさんの都合がつかず、ぬえだけが紋付と裃を持って往復夜行バスの弾丸ツアーで参加させて頂いたのでした。その後、あらためて、落成式に近い日を選んで落成祝いの装束能をやろう、という話になって、この日はそのために改めて気仙沼に赴いたのでした。しかしせっかく気仙沼に行く機会ですし、オレンジさんでの上演だけでなく、ぜひほかの場所でも活動させて頂こう、ということで、飛び込みで活動の受け入れをお願いしたのが、さきほどお邪魔した鹿折復幸マルシェさんです。

25日の東新城オレンジの落成式の日は、美厚さんのビジョンを聞いて感銘を受けたりしましたが、同じ日に鹿折マルシェさんに公演ポスターを貼らせて頂きに参上した折、商店のみなさんと長く話をさせて頂いて共徳丸についての目新しい意見を聞いたり、この公演当日も鹿折の復興についての青写真を垣間見る機会があったり。。さらに登米市や志津川でも貴重なお話しを伺って。オレンジさんとマルシェさんと、今回は2カ所でしか活動をしなかった割にはなんだか刺激的な旅ではあります。

そうしてこの夜は「飲みに行こうよ~」という ぬえの提案で、オレンジのメンバーさんが会場をセットしてくださったのでした。

これがまた。最初は、3月の活動ですっかり「気仙沼ホルモン」に目覚めた ぬえが、そのおいしいお店をリクエストしていたのですが、ほどなく季節が移って、なにやら気仙沼方面から盛んに「初ガツオ」の便りが聞こえてきます。。それで、このオレンジさんとの電話での打ち合わせの際にこの飲み会の話にもなって、ぬえから「気仙沼ホルモンを食べたい、って言ったけど、何ですか?初ガツオが上がったんですって~?」と聞いたところ、案の定オレンジさんでも「この初ガツオの時期にわざわざそれを外してホルモン?」と話題になっていたんですって~。(笑)

そゆわけで、急遽お店が変更になって、おいしいお魚を食べる会になりました~。思えば ぬえが活動を開始したキッカケが震災前の学校公演で石巻小や気仙沼の新月中にお邪魔したこと。その時の子どもたちの鑑賞態度とか、熱気、それから礼儀正しさがとても印象に残って、そうしたら震災が起こってしまって。あの子たちは大丈夫かなあ、と心配になって震災の3ヶ月後に石巻や気仙沼を一人で訪れたのでした。でも、学校公演で気仙沼を訪れた時はちょうど「戻りガツオ」の季節でして。それとは知らず、三々五々、夕食を摂りに出かけた能楽師のうち、ぬえを含めてカツオを食べたグループは、あまりの美味に衝撃を受けてしまいました。これも気仙沼が ぬえの中で印象深い土地になった理由のひとつなのは否めないな~。

震災後に気仙沼で活動を始めてから、もう2年になりますが、その後「戻りガツオ」は一度も食べていません。その時期はちょうど東京でも舞台が多い時期なので、どうしても東北に来るまとまった日が取れないのです。。この日は「戻りガツオ」ではなく「初ガツオ」の時期で、おいしい魚料理を満喫させて頂きました~。。でも、やっぱり「戻りガツオ」にはかなわないかも。。

そうそう、この飲み会で最も驚いたのは、オレンジさんのスタッフの若い男の子Sくんが、な~んと!「ボク、魚が食べられないんです。。」とカミングアウトしたこと。衝撃。かたや一夜の「戻りガツオ」との出会いで人生が変わったようにそれを追い求める者があれば、かたや気仙沼で生まれ育ち、海の幸に不自由なく暮らしながら、「これ、キライ」という人がいるとは。ああ、神様ってイジワル。

「え?魚食べられない。。? 。。その、手元にあるお皿は。。それ、焼き魚じゃないの?」「あ、これですか。。? これ、ナスです」

この会話でブチ切れた ぬえ。「。。キミ、ホントは魚市場が復興しなくてもいいんじゃないか、って思ってるだろう!」「え。。?? いや、その、そんな、ね。。」 。。頼むから明確に否定してくれ。激怒するかな、と思ってわざと振ったんだから(笑)。

ま、こうして爆笑のうちに夜も更けまして、翌日の東新城オレンジでの公演に備えて「ネットワークオレンジ」さんの関係者ともお別れして、宿に戻って休みました。考えてみれば前夜から、稽古のあと深夜走行、仙台で休憩はしたけれど ほとんど眠らないでいましたが、不思議と疲れはない ぬえでした。もともとあんまり眠らないんですけどね、ぬえ。

第14次支援活動<気仙沼>(その14)~鹿折復幸マルシェで上演

2013-07-13 18:19:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて地福寺さんを後にして、いよいよ気仙沼市街に入りました。

この日の公演は先日ポスターを張らせて頂いた「鹿折復幸マルシェ」さんなのですが、ぬえたちはこの日東京から直行なもので少し余裕を持ったスケジュールにしてあって、開演は午後5時に設定してありました。おかげで余裕を持って会場に到着。







まずは商店街の会長さんのお店にご挨拶。。あれ? お店は定休日です。それでは、と商店街の事務所に行くと。。こちらもカギがかかっている。。途方に暮れて、先日長話をさせて頂いた食料品店さんに事情を説明すると、奥さまがお出でになって、親身に心配してくださいました。。が、やがて奥さまが気がついて、「あの2階の端の『安波山』の部屋に明かりが点いてる。。あそこにみんないるんじゃないかしら」と教えてくださいました。

安波山、といえば気仙沼のシンボルのような山で、ここ鹿折からはすぐ目の前。その山の名前を冠した部屋は、談話室兼会議室のような、一種の集会所になっているのでした。そこへ上がってみると、案の定商店の人たちらしい多くの方が集まって、なにやらお話し合いの最中でした。恐る恐る事情を申し出ると、会長さんが出てこられて「ああ、今日はよろしくお願いします。控室はこの部屋です。もうすぐ会議が終わりますから」というお答えでホッとひと安心。

装束類を車から下ろし、すぐにできる作業ということでTさんはマイクやアンプのセットを開始。ぬえは先日ポスターを張らせて頂いた商店に挨拶まわりをしました。ええと、やっぱりお店では「しらす」やらお茶やら振る舞って頂いてしまいました~



やがて「安波山」のお部屋を使わせて頂けることになり、ぬえは急いで上演の準備に取りかかります。。ふと見ると、「安波山」の壁には鹿折地区の復興のプランが何種類もの地図となって張り出されていました。さきほど志津川の上山八幡宮さまで工藤真弓さんが ぬえに示してくださった地図。。それと同じく、さきほどまで集っておられた鹿折の人々によって、新しい、未来の鹿折の姿を夢見る夢の国が描かれていました。次に来る災害に備えるべきなのか、人が集う賑やかな街を目指すのか。。街づくりの方針が定まるにも もう少し時間がかかるのかもしれませんが、ぬえは確かに、鹿折の明るい未来が描かれた地図を、そこに見たのです。

そろそろ、近所の鹿折小の子どもたちが帰ってきました。ぬえの師家がこの秋に学校公演で訪れる予定の小学校です。学校公演は文化庁の事業ですが、よくまあ、震災から2年の復興途上のこの時期に事業への参加を決定されたものだと思います。それほど意欲的で教育に熱心な先生がおられるのですね。ちょっと期待。それにしても。。ちょっと ぬえには今回の公演について心配が募り始めていました。今日この仮設商店街で、お客さまをほとんど見かけていないのですが。。

。。と思っていたら、3日前に東新城オレンジで知り合った起業家の方たちが鹿折マルシェにやって来たのが2階の「安波山」の窓から見えました。装束をほぼ着け終えていましたが窓から手を振ると あちらも気がつきました。。が、ふと見ると、いつの間にかお客さまが集まってくださっています。マルシェの方もいつの間にかステージの前にベンチを並べてくださっていて。。

やがて開演時間となり、Tさんが解説をしている間に、ぬえは例によって商店を巡ってご挨拶~。ひととおり挨拶を終えると、お客さまに混じってTさんの解説を聞きました(笑)





この日の上演曲は、はじめての場所ということで『羽衣』でしたが、ステージの上から見ていると、なんと謡本を広げているお客さんもいらっしゃいます。あとで聞けば、喜多流でお稽古をしておられる方が何人かいらしゃったそうで、ふうむ、鹿折にもそういう方がおられるんですね。お稽古が無事に復活していることをお祈りします。





終演後はこれまた恒例のお客さまとの記念撮影。仮設住宅ではこのあと装束の着付け体験などを行うのですが、野外ではそれは不可能なので撮影ぐらいしかできません。でもこの日はできるだけ面を取らずに撮影に応じてみました。









これにて鹿折復幸マルシェさんでの公演を終えて、片づけのあと失礼して、気仙沼での常宿となってきた宿にチェックイン。でも、まだまだ夜のお楽しみもあり。気仙沼の夜は続くのだった。

第14次支援活動<気仙沼>(その13)~南三陸「キラキラ丼」と地福寺さんへ

2013-07-12 00:37:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて志津川の上山八幡宮さまを退出して、ようやく昼食のために南三陸町「さんさん商店街」に立ち寄りました。こちらでの目当ては「キラキラ丼」! 南三陸町で震災の前からイチオシ! とされていた、地元で獲れた食材を使った豪華なお食事です。時期によって内容は変わり、この夏の時期はもちろんウニ! 笛のTさんオススメで「弁慶鮨」さんに入ったのですが、これでもかっと盛られたウニは、おいしそう、と思う前に もたれそう。。と思っちゃいましたが、それは新鮮なウニを食べつけない貧乏人の考えることで、こちらのウニは甘くておいしかったどす~~。











ん~、なんか。ボランティアとして、こんな贅沢していいのかなあ、なんて思っちゃいますが、すでにTさんは活動とともに観光とかグルメ探訪にもシフトし始めているみたい。。それでいいのかも。どうしても活動するときは短期間でできるだけ多くの事をしようと思うので時間がないのと、それから ぬえたちの活動資金は募金という浄財なので、食費は活動資金からは支出せず、参加者が自己負担すると決めているので、食事はおのずとコンビニ弁当ばっかりになってしまう ぬえたちですが、もう少し時間に余裕をもって、当地の風物を愛でながらの旅をしつつ活動するのでも良いのかなあ。

うん、よく考えると、避難所で活動していた時代の、寝袋持参、食事はボランティアさんから分けて頂いたり、コンビニで買ったり、というところから ぬえ自体にあまり進歩がないようにも思えてきました。ぬえたちプロジェクトが「文化の復興」なんてスローガンを掲げている割には、ぬえ自身が一番フツーじゃない生活を、ここでは繰り広げているような。そういえば3日前の東新城オレンジ落成式のときに、オレンジのメンバーさんから会食の席で「猊鼻渓とか。。お連れしたい場所はたくさんあるんですよ」なんて言われたし。このときは「ああ。。でも公演の準備や移動で観光まではなかなか。。」なんて答えてしまいましたが。

さて「さんさん商店街」でご馳走を満喫して、一路気仙沼に向かいます。途中、階上(はしかみ)の地福寺さんに立ち寄って、ぬえが指導する静岡県・伊豆の国市の「子ども創作能」のママさんたちから、当地の波路上(はじかみ)保育所への支援物資の遊具をお届けしました。



。。そうそう、こちらの保育所への伊豆からの支援物資はこれで2度目なのですが、先日、保育所からお礼状が届けられました!



伊豆からの支援物資もこれで何度目かなあ? 以前の写真を見たら、震災の半年後から すでに食料品などが支援されていました。こういうところはさすが伊豆で、農家のおうちから どっさりと野菜が届けられたり。しかしお礼状という形になって東北から感謝の気持ちが届けられたのはこれが初めてです。このボールプールや楽器は伊豆のS家からのプレゼントだな? 早速S家にこのお礼状をお届けしました。S家には2年生の女の子と、それから ちょうどこの保育所の子どもたちと同じ年代の幼稚園生の女の子が、どちらも「子ども創作能」の稽古をしているのですが、S家からはすぐに返事が来て、いわく次女の幼稚園生の子は「この子たちに会いたい!」と喜んでいたそう。東北と静岡と。遠く離れていますが、美しい心同士がふれあった瞬間でした。

この日も伊豆からの支援物資を地福寺さんにお届けしたのですが、そうしているところへご住職さまが偶然にご帰宅されました。いつもお忙しい方なのに、なんて奇遇。

この3月に ぬえたちプロジェクトでは気仙沼で「星と能楽の夕べ」公演を行い、ぬえのたってのお願いで地福寺さんのご住職さまにもご出演願ったのでした。その翌日には震災2年目の当日を前に地福寺さんでは「明日に向って」と題する追悼コンサートと法要が営まれ、ぬえたちも参加させて頂きました。じつはそのあたりから、次回はぜひ地福寺さんと ぬえらプロジェクトだけのコラボの催しをしたい、という話は漠然と出ていたのですが、まあ遠隔地でそれぞれの活動をしているから、なかなか突っ込んだ話し合いは持てずにいまして。。それがこの日、能楽師とご住職が一堂に顔を合わせた、ということで一挙に話が進みました。さあさ、みんな手帳を出して~~

こうして、もう来月に迫ってきましたが、お盆の時期に精霊送りの意味を込めて能と法要の会を実現することが、この日決まったのでした。すみませ~ん、このご報告はまだ5月の活動について、なんで、どうも時間の感覚を狂わせちゃいますですね~~

第14次支援活動<気仙沼>(その12)~南三陸町・上山八幡宮さまと工藤真弓さん

2013-07-11 12:32:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
登米市の横山不動尊さまを予定よりも遅れて出発して、次の目的地は やはり笛のT氏の交友関係から南三陸町・志津川の上山八幡宮さまへ。

こちらの神社はかつて、今回の震災で有名になってしまった防災庁舎のすぐそばに鎮座していましたが、昭和35年のチリ地震による津波で浸水して高台に移転したのだそう。そうして今回の震災では社殿こそ被害を免れたものの、その寸前まで津波が到達。しかし付近の住民さんの避難場所として幾多の命を救った場所でもありました。

この場所。。到着してみて初めて気がついたことですが、震災の半年後には ぬえたちは訪れていました。「上の山(かみのやま)」八幡宮、という社名で気づくべきでした。これは移転後の高台の地名を冠したものだったのですね。ここは上の山という、志津川では最も市街地にも海にも近い高台の一角で、志津川町の指定避難所でもあったそうです。こちらが2年前の8月に上の山の上にある公園で撮った画像。ちゃんと津波の際の避難場所の標識が。





…ところが実際には今回の震災でここに避難した人の証言ではこの場所にいても危険を感じて、山づたいにもっと高い場所にある保育所へ(こちらも園庭まで被災しました)、さらに奥の小学校まで やぶをかき分けて逃げたのだそうです。

上山八幡宮さまは上の山の中でも少し海から離れた高台に建っていましたが、境内には「波来の地」という石碑が。ここまで津波がやってきました。こちらは今回撮影の画像です。



さて社務所でこの日面会してくださる工藤真弓さんとお会いしました。工藤さんは震災を描いた絵本『つなみのえほん ~ぼくのふるさと~』で知られた人。ですが、もともとこの絵本の中にも登場する「五行歌」を詠む歌人でもあり、歌集『神さまもひと休み』を上梓されたりしています。あ、もちろん本職はお父君の後を継ぐ神職さんですが、ご自宅は津波で流され、現在ご主人とご長男と一緒に仮設住宅にお住まいです。震災のときのご家族の体験が絵本という形になりました(絵本は志津川の仮設商店街「さんさん商店街」でも売っていました)。

震災後は工藤さんは「復興まちづくり推進員」として志津川の復興のために住民さんの話し合いを進めておられ、上山八幡宮さまの社務所もしばしば会合の場ともなっているようですね。この日も復興計画案の図面を見せて頂きましたが、工藤さんらしく美しいイラスト入りの図面でした。

前にも書きましたが、ぬえたちプロジェクトは南三陸町では活動らしい活動をしたことがありませんでしたが、いろいろな計画について工藤さんにも話を聞いて頂きました。聞けば当地でもちょっとロマンチックなお祭りもあるらしくて、とても興味を持ったのですが、この夏は、じつは志津川に限らず沿岸地域では防潮堤問題のひとつの山場になっているのと、我々プロジェクトもこの夏の活動はほぼ固まりつつある段階なので、今後あらためて南三陸町での活動を関係者とご相談させて頂くことになりそうです。

【参考】

「つなみのえほん」購入について→アマゾン
ブログ等紹介記事→くどうまゆみさん著『つなみのえほん』ができるまで
「つなみのえほん」の紹介
つなみのえほん/くどうまゆみ

神さまもひと休み - 五行歌集→紀伊国屋書店

五行歌については、南三陸町の被災者を受け入れた避難所がおかれた山形県の加美町の人々への恩返しにと工藤さんが書いた歌「感謝のうた」が、加美町の住民さんによってメロディをつけた歌になって、CDとなったようです。こちらは限定版なので入手できないようですが、感想を見つけました。

真弓さんの五行歌
CD化の経緯→宮城・南三陸と加美、「五行歌」結んだ2町の絆

【おまけ】
今回、工藤真弓さんの活動についてあまり知らなかった ぬえなので、付け焼き刃で調べてみたのですが、その中で、震災ボランティアさんの活動。。震災の年に最も幅広く、大勢の人々が参加した「泥掻き」について、面白いレポートを発見しました。「やさしいやーつ」とか「オヤジさん」「オフクロさん」などの現場で生まれた用語が出てきたり、読んでるととても楽しそうなのですが、現実の作業は重労働でしょう。ぬえは最初から体力的な無理を感じて参加できませんでしたが。。震災の年にはいつ行っても、ひとつの家に大勢の若いボランティアさんが、まるで群れるように作業をしている様子を見ることができました。

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第14次支援活動<気仙沼>(その11)~横山不動尊さまへ

2013-07-07 13:10:38 | 能楽の心と癒しプロジェクト
夜行バスでしっかり眠ったので翌朝元気に起床しました。さすがに夜行バス明けには何もスケジュール入れていなかったのですが、翌日には再び気仙沼市へ移動だし、今回は装束能なのであれこれと準備をして1日を過ごしました。

【5月27日(月)】
午前中と夕方からの2カ所で稽古日にしていたので外出。午前の稽古は近所の施設が会場なので、それを終えて帰宅して、荷物の最終チェック。今夜は深夜走行で気仙沼に向かうので、昼間は仮眠をとって、車に荷物を積み込み、夕方よりもう1カ所の稽古場へ。これを終えた午後9時に稽古場から気仙沼を目指して出発しました~

今回も一人っきりの深夜走行。。ですが、まあなんとか早朝に仙台に到着しました。

【5月28日(火)】
早朝4:30頃、仙台に到着してネットカフェで時間をつぶし、前夜から仙台に宿泊していた笛のTさんと合流。そのまま気仙沼に向かうのですが、途中、今後の活動のために関係者の方々のもとへお邪魔してご挨拶することに。このあたり、Tさんの交友関係の広さがモノを言ったようで、ぬえにはあまり事情がわかっていなかったりして。

最初にお邪魔したのは、登米市の横山にある「横山不動尊」さまへ。じつは、このお寺。。大徳寺のお嬢さんとそのご家族が、3月の気仙沼市での「星と能楽の夕べ」公演の、あの見事な手腕を発揮してくれたスタッフさんだったのです(さらにもう一人のスタッフさんは、その日が初対面だったけれど、石巻でも同じ場所で活動していた方でした~)。

重文の巨大な不動尊像があるお寺でありますが、到着してまず、そのあまりに見事な彫刻の施された楼門と不動堂の偉容にびっくり。





とくに面白いのがこの不動堂ですね。唐破風がつき、豪華な彫刻で装飾された向拝の上に入母屋の破風、さらにそのうえに宝形造りの。。越屋根、というのかな? がつく、という独特な造りの建物で、どうも神社を思わせる。。じつは山門の前には鳥居もあって、神仏分離の前の時代の空気が残っているようでした。ご本尊の不動さまは震災の影響もあって傷みが進み、ただいま修理のため京都に行っておられるのですって。





やがてご住職の奥さまとお母様と寺務所でお話しをさせて頂くことができました。先ほど見た不動堂は昭和初期の建築だそうで、なるほど、能楽界でも昭和初期といえば、装束や小道具など良い仕事の品がたくさん作られた、その一番最後の時代ですね。芸術活動。。というより職人さんの仕事の、と言っても良いと思いますが、そのひとつのピークがこの時代にありました。それは伝統的な審美眼というものが残されていたし、そういう良い仕事に対しては経済的に支えがあった、その最後の時代なのだと思います。

登米市は登米郡の8つの町と、本吉郡の津山町の合計9つの町が例の平成の大合併で合併して誕生した大きな市で、北は岩手県の一関市に、西は宮城県の栗原市などに、そうして東と南に気仙沼市や南三陸町、石巻市に接しています。震災当時南三陸町は陸の孤島と化しましたが、海岸を通る幹線道路が被災して、登米市を通らなければ志津川や歌津、また気仙沼市の本吉や大谷地区には行けない状況でした。

ぬえも震災の3ヶ月後にはこのあたりを通っておりますが、津波こそ到達していないものの、地震によって倒壊した家が道路の半分まで塞いでいるような状態だったのを思い出します。

横山不動尊さまがある旧本吉郡津山町は、現在の南三陸町の志津川や歌津とは地理的にも関係が深かったようで、南三陸町の仮設住宅が登米市の中にもいくつか建てられているそう。こちらの横山不動尊さまの隣にも仮設住宅がありました。横山不動尊さまも避難者を受け入れたり、ボランティアの拠点になったりして、震災直後から支援活動を続けておられます。夏に行われるという山門からの「そうめん流し」とか、不動さまがこのお寺に戻ってからの来年のお祭りとか、仮設への訪問など、今後当地でも ぬえたちプロジェクトの活動の幅が広がってゆければ、と考えております。

最後に、池の汀に咲き乱れる藤の素晴らしさをご紹介しておきますね~





この頃、ちょうど気仙沼あたりでは藤とツツジの見頃でした。この頃、東京での舞台でも『藤』がよく上演されていましたね。そういえば能の『藤』はその舞台が越中ではあるものの、作者は南部藩三十一代信恩の作と伝える文献があり、上演の資料上の初見は18世紀の伊達藩だったりするのでした。これだけの見事な藤を見れば、藤の花の精を登場させる能を作りたくなる気持ちもわかるような気がします。