あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の観光~夏のシーズン到来~お得なホテル・ホテルベルモア東洋 1泊2日レンタカー付 3,900円

2010年06月25日 14時31分48秒 | Weblog


夕暮れ時の浦添市の通り。
ふと見ると電柱の陰に小さなゴミ箱が置いてあった。
通りすがりの人が誰でも捨ててもいいらしい。
門扉の置くには民家の玄関があった。
 数メートルのところに3台の自動販売機があったのでジュースを買った。
ジュースを飲み干して、空き缶を捨てようとしたが何もない。
仕方なく空き缶を握ってここまで来て、偶然、見つけた。
ほのぼのとさせられて携帯のカメラのシャッターをきった。


 アセローラの見学とぶどう狩りに本部までドライブした。
帰途、久しぶりに本部半島の友人を訪ねた。
40代そこそこの彼は、今はホテルベルモア東洋の社長である。
ぶどうは収穫するのに2週間ほど早かったが、アセローラの実に感激したことや、長雨の続いた梅雨のことなどを時を忘れて、久しぶりにゆんたく(語らい)した。
 20数年前、筆者と同じ頃、沖縄に来て縁あって長い付き合いをしている。
その彼も今は40代。
ホテルを手に入れて「好きな沖縄」で奮闘している。
なかなかのアイデアに溢れる経営者だ。
 彼には沖縄観光に対する「ありのままの沖縄を見せたい、体験してもらいたい」
という、しっかりしたコンセプトがある。
筆者の「ほんものの沖縄」「もうひとつの沖縄」を書き留めたいという願いに共通している。
そうしたことがホテルの経営理念にも表われている。
「安くて、少しだけ快適であればいい」
「一人旅の人たちが、ひとりでも気軽に泊まれるホテルにしたい」
 そんなプランが溢れているが、今月新プランを発表したという。
耳寄りなプランなので紹介したい。
「サンキュープラン」で1泊2日、レンタカー付の3900円
一人当たり 2人~3人@3,900円~ 4人@3,000円~ 5人@2,500円~

  詳細は各エージェントのホームぺじを参照されたい。
  「るるぶトラベル http://rurubu.travel/hotel-detail/8704A04.html 
  「楽天トラベル  http://web.travel.rakuten.co.jp/portal/my/ry_kensaku_room.main?           f_no=41003#TOP」
  「yahooビジネストラベル http://biz.travel.yahoo.co.jp/bin/psearch?                      chiku=8704&shisetsu=A04]
「Jalan      http://www.jalan.net/uw/uwp3100/uww3101.do?yadNo=329268&stayYear=&stayMonth=&stayDay=&dateUndecided=1&stayCount=1&adultNum=2&roomCount=1&maxPrice=999999&minPrice=0&roomCrack=200000&rootCd=45&afCd=19」

 ホテルは食事などない。
朝食は近隣のコンビニを利用する。
夕食は今帰仁村の閑静な町中での居酒屋や食堂、本部町の居酒屋や食堂。
スタッフがフロントで相談に乗ってくれる。
これがいい。きっと、沖縄を肌で感じるだろう。
 ウジ畑(サトウキビ畑)の中に本部周遊道路脇に立っているプチホテル。
掃除の行き届いた、贅肉を取って宿泊代で還元している姿勢は好感が持てる。


ホテルベルモア東洋のURLをブックマークに掲載しました。
参考にしてください。
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沖縄の観光~戦跡を見直してみよう(Ⅳ)~平和祈念公園(平和の礎・平和祈念資料館)・健児の塔

2010年06月20日 17時21分43秒 | Weblog
浦添市屋富祖にひっそりとたたずむ戦没者の碑。
「芳魂之碑」と刻まれた裏にあった。
建立は復帰前の昭和39年11月とある。
左奥にみえる鳥居が素朴で胸を打つ。


 昨日、気象庁は沖縄の梅雨明けを宣言した。
梅雨明けといっても、太平洋高気圧が張り出して来ないため、今日も灰色の雲が駆けるように南の空から北へ流れていく。
 いよいよ、6月23日は「慰霊の日」である。
「黎明の塔」も「摩文仁の丘」の各県慰霊の塔も、そして「平和の礎」も「平和祈念資料館」も広い平和祈念公園の中にある。
「平和の礎」の奥には摩文仁の断崖絶壁がある。
この絶壁からみる太平洋の海原は広く素晴らしい。
沖縄戦当時、この美しい海原は米軍の艦船で真っ黒になったという。
左には「平和祈念資料館」がある。
疲れてはいるだろうが、勇気を出してここまではいってみよう。
説明はここでは省きたい。とにかく足を運ぶことだけを伝えたい。

 海軍壕からひめゆりの塔、平和祈念公園。
平和祈念公園から数分、後戻りしたところに「健児の塔」がある。
最近は、この塔による観光も少なくなった。
「健児の塔」は、終戦真近い1945年3月31日に、13歳~19歳の学徒により編成された「鉄血勤皇隊」の自決した地である。
1800名ほどの隊員の内、890名が戦死あるいは自決した。
海軍中将太田実の最後の電報に、
【沖縄本島が敵に攻略され始めて、陸海軍は防衛戦に専念せざるを得なく、県民に関してはほとんど顧みるにことができなかった。しかし、本職が知る範囲に於いては、県民は青壮年(せいそうねん=おおよそ16歳から50歳くらい)の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身を以って軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難、尚(なお)、砲爆撃下‥‥(判別不能)風雨に曝(さら)さらされながら乏しい生活に甘んじている。】
と書かれている。
まさに、沖縄県民は日本の捨石となって戦った。

 6月23日は「平和の礎」で、毎年、慰霊の祭典が行われる。
近年、総理大臣が参列するようになり、テレビで全国放映されるようになった。
今年も菅首相が参列される。
 普天間の問題が日本中を議論の渦に巻き込んでいる。
われわれは、先人が命を捨てて果敢に戦ったそのことを無駄にしてはならないと思う。
特攻隊のことを戦時内閣がやったとかこと、沖縄戦は日本軍がまさに敵であったとか、マスコミなどで喧しくいわれている。
そうした歴史の検証も大切だろう。
しかし、死んでいった兵士や若者や学徒たち、送り出した親や兄弟、子供たち。
われわれはこうした人たちのことをどれだけ知り、思いやり、感謝しているだろうか。
歴史論や政治論はほとんどが形式論である。
前線で戦い、戦場で散って逝った軍民のこころに少しでも触れ、悼み、心から感謝しなければならないだろう。
そうした思いを込めて、敢えて、ここに書き留めた。

健児の塔については下記に詳しく説明されている。
http://www.city.naha.okinawa.jp/heiwa/gaid/online/kenji.htm

左上のメモリーを上下して位置を確認してください。拡大・縮小されます。
地図の上で左クリックしたままカーソルを移動すると地図も移動します。
中心は「平和の礎」。

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沖縄の観光~戦跡を見直してみよう(Ⅲ)~平和祈念公園(摩文仁ヶ丘・黎明の塔)

2010年06月15日 14時05分22秒 | Weblog
米軍が最初に上陸したとされる比謝川河口附近。
その入り江湾の波打ち際で遊ぶ子等。
平和な光景と激戦であった当時の面影が妙に重なる。


 ひめゆりの塔を出て、20分くらいで平和祈念公園に到着する。
ここから摩文仁ヶ丘をたずねる。
摩文仁ヶ丘には全国各県の慰霊の碑が立ち並ぶ。
歩いてもいいが、往きはだらだら坂の上りになるので、終着点まで一気にバスで行く。
終着点まで5分とかからない。
歩道も整備されているので帰りに歩くといい。
深い印象を覚えることだろう。

 バスの終点から、少しいくと黎明の塔がある。
南西諸島の守備にあたった第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将を祀っている。
高い丘の上にあり、太平洋が一望出来る。
ここはひめゆりの塔一帯と並んで、沖縄戦最後の激戦地である。
 慰霊塔のすぐ下に、旧守備軍司令部壕がある。
第32軍の最高司令官は牛島満中将で、長勇中将はその参謀長をつとめてた沖縄戦に於ける作戦の最高責任者であった。
昭和20年5月27日、守備隊司令部は首里から摩文仁ヶ丘の司令部壕に移った。

6月23日未明に牛島司令官と長参謀長はここで自決した。
この日を以って沖縄戦を終戦の日とした。組織戦の終焉である。

すぐ下であるから、面倒くさがらず下りて来てほしい。
このような壕で兵士は身を潜め、老若男女は恐怖に慄いていた。
住民を巻き込んだ沖縄地上戦の凄まじさ、悲惨さを実感するだろう。

左上のメモリーを上下して位置を確認してください。拡大・縮小されます。
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沖縄の社会~懐かしい子供にみる大人の責任~今朝見たスーパーでのこと

2010年06月12日 14時21分13秒 | Weblog
6月13日昼の南西方向の雲。
夏雲の様相だが、北から薄い雨雲が流れていた。
ここ一、両日中には梅雨が明けてもいいのだがーーー。
やはり、週明けになるのだろうか。
明後日、月曜日は糸満ハーリーなのに。


 朝8時前、近所のスーパーに神棚と火の神様にあげるチャーギーを買いに行く。
一通り、買いたいものを買い込んでレジに並ぶ。
3人の兄弟らしい男の子が計算をしているところだった。
親から言いつけられた買い物だろう、
百円玉や五拾円玉を清算用の皿に、丁寧に、一枚づつ数えながら置いていた。
弟らしい2人の男の子は皿の中とお兄ちゃんをかわるがわる覗き込んでいる。
その仕草が可愛くて時間の経つのもわすれて見入っていた。
「34円足りない」
長男らしい年長の子が弟たちを見下ろして困惑気にいう。
レジのおばさんが数えなおす。
「34円足りないねえ」
意を決して、長兄は小さな袋から3本の駄菓子をつまみ出し、レジのおばさんに向かって一言云うと、その駄菓子を持って売り場に戻ろうとした。
「あ、いいよ、おばさんが返しておくから」
そう云って清算の終った商品をマイバッグに入れて渡した。
そのマイバッグをみて、やはり、お使いだったんだと合点した。

 マイバッグの中にはたくさんの商品が入っていた。
しばらく、レジ横の包装台で3人は小声で何か話し合っていた。
上の子が小学校3年生くらい、中の子が小学校1年生くらい、下の子が3,4歳の子供だった。
しばらくすると、長男がふたりに何か一言云って足早に出て行き、ふたりが後を追った。
駄賃にもらったお金で買おうと楽しみにしていたに違いない。
それを返したのだ。
勢いよく出て行ったものの、3人のその後姿が寂しげだった。

 34円。
「おじさんが立て替えとくよ」
ひとことで済む。そうしたらどんなに喜ぶだろう。戸惑うかな?
何度も衝動に駆られた。
34円。
とうとう、云えなかった。

 数十年前のことが甦った。
高校2年生の夏休み。友達4人でリバイバルの洋画を見に行ったときのこと。
朝早く、電車の停留所で待ち合わせて、乗り継いで小一時間を要して件の映画館に着いた。
いざ、入場券を買う段になって、友人の一人が財布を忘れていることに気づいた。
それぞれの持ち金を寄せてみたが、1円足りない。
ポケットをひっくり返してみたがない。
「1円だからいいよ」
と、窓口のおばさんが言ってくれるものと、皆、期待した。
そのうちのひとりが、
「明日持ってくるけど駄目?」
と窓口のおばさんに懇願した。
「1円でもお金はお金。決まりだから駄目!」
と譲らなかった。
その日は、映画をあきらめて家路についた。

 30歳になる頃まで、思い出してはおばさんを恨んだ。
「1銭を笑うものは1銭に泣く」
とは母の口癖だった。あの時も母からそういわれた。
「赤貧と清貧は違う」
「ボロは着てても、ツギ当てと洗濯をしているものなら恥ずかしくない」
そういい聞かされたものだ。
終戦間もない頃だったので、日本中、金も品物もなく、みな貧乏だった。
父の外套を小さくしてオーバーコートを縫ってくれたりした。
 出してやればよかったのか。
道々、吹っ切れぬ気持ちで帰った。

 帰宅して、掃除にとりかかったが気持ちは晴れない。
一息入れようと缶コーヒーを手に近くの公園まで出かけた。
久しぶりの太陽がまぶしかった。
コーヒーを飲みながら公園の石段を登った。
50段くらい昇ると小さな展望台に出る。
 展望台では小さな女の子が2人、一心不乱に折り紙に熱中していた。
自分には気づかない。びっくりさせてはならないと、
「ピクニックかな?弁当食べているの?」
とやさしく声をかけた。
それでも驚いた様子であったが、ひとりの子が、
「ううん、遊んでいるの」
と元気に云った。
「お家近くなの、近くに住んでいるの」
と続けた。
「そう、お爺も近くだよ」
と安心させねばと返した。
「ふうん」
長居をしちゃあまずいと、ふたりに背を向けて、石段を2,3段降りかけたとき
「さよならー」
と元気な声がしたので振り返ると、ふたりが手を振って反対の石段を降りるところだった。
黙って手だけ振って応えた。

 今日は戦跡Ⅲでも書こうと思ったが思わぬ経験をした。
こどもって精一杯生きているんだと梅雨空を仰いだ。
センダンの若葉が心地よかった。


降り際に撮った少女たちが遊んでいた公園の高台。
ふたりの遊ぶ姿を撮りたかったが、勇気が出なかった。
「お家、近くなの」
唐突に云った少女の声が耳から離れない


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沖縄の観光~戦跡を見直してみよう(Ⅱ)~ひめゆりの塔・琉球ガラス村

2010年06月10日 17時07分59秒 | Weblog
やんばるのバラ園で咲いた「テンニンカ」。
5月10日頃の写真だ。
大人の背丈以上の高い花木だった。


四角の中心線を動かさず左上のメモリーをひと目盛ごと上に上げてください。全体的な位置を知りたいときは下に下げます。

 空港から一気に南に下る。
糸満に入る前に、新道があるので標識に従ってこの道を辿る。
 ひめゆりの塔の手前4,5分のところに「琉球ガラス村」がある。
琉球ガラス製品がたくさん並んでいる。
じっくりとみて、お目当ての品物があればここでの購入がいい。
土産店を出るとガラス工場がある。一見の価値はある。
この工場を出ると琉球ガラスの作品館がある。
多少、高額だが興味のある人には必見だ。
「琉球ガラス村」では、ゆっくりして1時間もあれば十分。
 ひめゆりの塔についたら壕を参拝し、若くて散ったひめゆりの学徒の魂に祈りを捧げてほしい。
 隣接して「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
多くの観光客が時間を惜しむのか、素通りする。
必見だ。
ここでは解説を省こう。

 あのじめじめした薄暗い壕の中で死んでいった女学生の心情を慮ってほしい。
これが戦争だ。
立ち去る前に、もう一度振り返って立ち止まってもらいたい。

 ひめゆりの塔を後にして平和祈念公園へとう向う。
ひめゆりの塔を出て直ぐに「ひむかいの塔」がある。
宮崎県人の慰霊碑だ。


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沖縄の観光~戦跡を見直してみよう(Ⅰ)~6月23日は沖縄の終戦の日

2010年06月06日 15時22分58秒 | Weblog

昨年(2009年)2月17日、北中城。
ひまわりまつりを観に云ったときの写真。
サツマイモの花は清楚な花だけに見落としてしまう。



 6月23日は沖縄戦が終った日として、沖縄県ではこの日を「沖縄戦慰霊の日」とし、祭日となる。
牛島満中将自決の日については6月22日説と6月23日説があったが、1965年に6月23日説に統一され、現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日」を定める条例」により6月23日を慰霊の日と定められている。
 沖縄終戦の日の10日前、1945年6月13日、海軍壕司令部で太田実海軍中将が自決した。
そのときの司令室や通信室が残されている。これが通称「海軍壕」である。
近年、壕一帯は整備され、公園も併設されているが、筆者が見たころは丘陵で草木が生い茂っていたような気がする。
戦争というのは、人間をこのようなところまで追い詰めていくのかと空しさを覚えた記憶がある。
 今、普天間飛行場の問題がニュースのトップで連日報道されているが、広島・長崎の原爆、東京やその他の都市の空襲と同じように沖縄戦の生々しい跡を辿ることは無意味ではない。
そして、その戦跡を現実のものとして、受け止めたときに日本の安全保障というものをひとりひとりが考えればいい。
 県南部に散在する戦跡をめぐる時、戦争はやってはいけな。と強く感じる。
映画やテレビで見るような勇ましくて、悲しくて、同情を覚えるような非現実の感情ではなかったことを知るだろう。
 住民と日本軍の聞くに堪えない惨状は、平和な時代しか知らない我々には決して理解できないことだと悟るだろう。
 基地反対を身を挺して訴える県民、戦跡で当時の実話を語る語部たちのこころを汲み取るべきだろう。
「平和。戦争の回避」
それこそが県民の願いであり、安全保障の究極の目的と思う。

 海軍壕司令部に遺された太田実海軍中将が大本営海軍次官に宛てた電報がある。
壕には全文が表示されているので、尋ねた際には、是非、読んでいただきたい。
電報の末尾の電文だけを記した。

「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」


中心を動かさずに左上のスケールをひとつづつ「大」にしてください。

海軍壕公園から望む市街地。

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沖縄の季節~梅雨明けはもう直ぐ~6月15日糸満ハーリー

2010年06月05日 00時08分47秒 | Weblog
      6月3日の夕暮れ時に見つけた桃。

       
      同じく6月3日の夕暮れ時の散歩途中で見つけたぶどう。
      20数年になるが「桃」や「ぶどう」の実を見るのは初めてだ。
      手持ちの携帯電話で撮ったが、夕暮れ時でもあって画像はよくない。

 きょうの天気図で、漸く、梅雨前線が沖縄の南から北上してきた。
沖縄を北上し、南九州あたりまでを往ったり来たり2,3度すると梅雨が明けるのだがー。
いままで、一度も太平洋高気圧が張り出さない。
この分だと梅雨明けは遅いのかと心配になる。
 当地では旧暦の5月4日に催行される「糸満ハーリー」前後には梅雨が明けるというのだが。
今年は、旧暦5月4日は6月15日になる。
語り伝えられた話を信じて、天を突くような夏空が間近に来たと期待をしよう。

 6月23日は沖縄戦が終った沖縄の「終戦記念日」。
毎年、この日は暑い。
記念式典は炎天下の下で行われる。

 でも、変だ。
蝉の鳴き声がしない。

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