6月22日、沖縄は梅雨明けした。
しかし、この日は厚い雲に覆われ、時折、短い陽光が射す程度だった。
6月23日、糸満ハーリーが行なわれた日は晴れたり曇ったりの日であった。
それでも、雲間から照りつける陽の光は夏そのものであった。
恒例の「慰霊の日」会場の実況中継では
参列者がパンフレットなどで風邪を送る姿が見られた。
写真は今朝の沖縄の夏空である。
公園の木々がくっきりと影を落としていた。
夏本番の到来である。
夏の甲子園出場目指して県大会は順調に進んでいるようだ。
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われわれ本土の人間の多くは太平洋戦争は遠き時代のこととしている。
しかし、沖縄県民の心の中では、未だ太平洋戦争は終っていない、続いているのだと痛感する。
4月28日の屈辱の日(サンフランシスコ平和条約発効の日)に始まり。5月15日本土復帰の日、6月23日慰霊の日(沖縄戦終結の日。牛島中将の自決を以って組織的戦闘が終了した日)、そして8月15日終戦の日へと、沖縄のマスメディアは「平和」、「基地」、「太平洋戦争の傷跡」、「日本軍の行動の批判」など太平洋戦争に関わる報道が連日賑わす。
赴任した当時は
「いつまで太平洋戦争に拘っているんだ。将来を見つめた発想に転換すべきだ」
と思った。親しき沖縄の友人にもそう語った。
沖縄の地を踏んで20数、四半世紀を越えた今、全く考えは変わった。
沖縄の人々にとっては戦争は終っていないのだ。
海や空を覆う米軍の艦砲射撃の映像を、われわれは繰り返し何度も見てきた。
ガマに向けて火炎放射機が火を吹くとガマから日本兵が転げ出てくる。
白旗を棒の先に括りつけて、ひとり戦場を歩く少女の姿。
道端で震えながらきょうの眼差しで震えながらカメラをみつめる少年の姿。
これらを我々は映像で、紙上で幾度となくみてきた。
これらは現実であって、映画や小説ではない。
現実なのだ。
往年のわたしは冷徹な目でみることはなかった。
いまは違う。目を背けてしまう。
今も尚、戦争が終っても米軍は日常的に目の前にいる、
戦闘機やヘリコプターが市の上空を飛ぶ。
軍車両が公道を走る。
本土復帰に本土並みの夢をみた。
ところが、本土復帰してみれば、社会にインフラは本土に比べて10数年も遅れている。
いつまで経っても県民所得は全国最下位。
通貨がドルから円に換わるとき、多くの県民が多大な損失を蒙ったという。
県民生活の中は、復帰してみても一向に変わらない。
同じ国民でありながら悲しいことである。
「沖縄県民を無視している、バカにしている」
テレビのインタビューや新聞で知名人や知識人のこうした言動が報道さる。
このことを本土もメディアがどれだけ本土に伝えているだろうか。
きょうのように、どこまでも蒼く澄み切った空をみていると心が痛む。
6月24日の琉球新報の報道の様子だ。
詳しくはここをクリックすると琉球新報のページに移動する。
6月24日琉球新報朝刊の一面。
続いて2面、3面。
数ヶ月前のとあるテレビ企画の最後で
「戦争を終結させるのにこんなにたくさんの民間人を米軍は殺戮しなければならなかったのか」
と云った沖縄の老人の言葉。
昨日のテレビの取材に答えて
「私たちには食べる物がなかった。一番欲しかったのは食べ物だった。それを米軍はくれた」
と云った老婦人。
いづれも重い言葉である。
戦争とはこうしたものだと思う。
ひとがひとを殺し合うのだから、殺らなければ自分が殺られる。
それが戦争だ。
戦争しないためにどうしなければならないか。
平和に生きる我々は将来のために、いま、考えるべきだと思う。
安全保障は沖縄だけの問題ではない。
最後に海軍壕司令部で自決した大田少将の司令部に送った電文の最後部を記載する。
「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。」
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