朝から降っていた戻り梅雨の激しい雨は10時には上がった。
雨が上がると同時に陽が濡れた木々の葉を照らし始めた。
今、こうして机に向かってブログを書いている窓の外は、青空が広がり灰色の薄い雲が南の空を流れていく。
風はそよとも吹かない。
牛島陸軍中将(司令官)が壕で自害した日もこのような天気だったのだろうか。
一年の中で一番昼の長い6月21日を過ぎて2日目。
時計を見ると19時を回ったところ。
南の空はまだ明るかった。
「慰霊の日」には、平和記念公園(糸満市)で県主催の沖縄戦戦没者慰霊祭が執り行われる。
沖縄県知事をはじめとして遺族やたくさんの人たちが参列する。
政府からも、毎年総理大臣が参列し、平和の誓いを述べるのである。
例年1000名を超える参列者があるが、今年は新型コロナウイルス対策のため、極端に数を制限した。
式典の様子は全国で放映されるからご覧になった方もあるだろう。
しかし、高校生が読み上げる詩を聞いたことはあるだろうか。
今年は千数百点の中から選ばれた首里高校の女生徒の詩が選ばれ、本人が演壇に立った。
5分余りの彼女の詩を詠む動画。>(ここをクリック)
詩はNHKのページがわかりやすい(ここをクリック)
きょうのような梅雨明けの(多分)ジメジメした壕の中で自刃した牛島司令官や、追随したであろう士官や兵たちの事が語られることはない。
時代の波に呑まれ、翻弄された人たちでもあることを忘れてはならないだろう。
戦争は生きとし生けるものの上に、例外なく、残酷で理不尽な不幸を覆い被せて来るのである。
ひめゆりの塔の会館が展示の模様替えをするらしい。
平和学習で訪れた生徒達が、
「自分等と同じ世代だと聞いても実感が湧かない」という声を聞いたからと報じられていた。
ニュースで5,6人のひめゆりの女学生たちがセーラー服姿で笑う姿が映されていた。
この屈託のない笑顔に溢れた女学生たちのこの1枚の写真を見た時、かって味わったことのない衝撃を受けた。
展示が生まれ変わったら、是非とも観に行かねばならないだろう。
30年前、沖縄に着任した頃、当時の沖縄戦の話では、日本軍が沖縄県民に強いた残虐行為ばかりを聞かされた。
地元メディアの報道もそうしたものであったと記憶している。
「戦争がそうするんだ。命のやり取りをしている戦場で、善悪や人間性なんて吹っ飛んでしまうだろう」
そういうのが精一杯だった。
会社に入った頃、前線を経験した元小隊長だった支店長が、
「人間は、気狂いにならなければ人は殺せない」と言っていた言葉を思い出して伝えるのが精一杯だった。
「戦争」というものの理不尽さ、残酷さは容認出来るものではなかろう。
戦争はやっちゃいけない。
では、
「どうすれば平和でいられるのか。それを考えよう」ともいいたかったけど、言葉には出せなかった。
あの頃沖縄戦を語った彼らの気持ちが、今ならわかるような気がする。
沖縄県民にとってはあの戦時下のまま、沖縄の景色は変わらず続いているのだ。
爆撃機や戦闘機の爆音を聞かない日は一日たりともないのだから。
国を守ること、それは我々自身を守ることである。
拉致された娘さんを取返すため生涯を捧げた横田さんが逝った。
私そして我々は、拉致された人たちを取り戻すために何をしただろう。
「国が・・・」と人は言うけれど、国を作っているのは我々ひとりひとりである。
他人の所為にするのは簡単だ。
「俺がやらなきゃ 誰がやる!」 若い頃に流行した言葉だ。
遊びでも、仕事でも、困難にぶち当たった時、
「俺がやらなきゃ 誰がやる!」
と、勢いつけてぶつかったものだ。
あの頃のあの覇気や情熱は、今は萎えて、朽ち果てようとしている。
ブログで牛島陸軍中将について触れたことがなかったし、詳しくも知らなかった。
本島南岸の海沿いの崖を下ったところに自害した司令壕が残されている。
2度ほど行ったことがあるが、壕の中には入れなかった。
入り口からのぞく壕は如何にも断崖の洞穴のようで、湿気が充満しているように思えた。
夏だったが、冷え冷えとして、侘びしく、そこにいるのが辛かった。
ネットで牛島中将を調べたら、ウイキペディアがあった。
一段落したら勉強してみよう。(ここをクリック)
例年なら5月には歩道の百日紅が、枝もたわわに咲き乱れ、夏の到来を知らせてくれるのに、
去年も、今年も5月になっているのに咲く気配もなく、6月に入って、漸く、咲き始めたようだ。
これらの写真は6月22日撮ったものである。
ランキングに参加しています。
雨が上がると同時に陽が濡れた木々の葉を照らし始めた。
今、こうして机に向かってブログを書いている窓の外は、青空が広がり灰色の薄い雲が南の空を流れていく。
風はそよとも吹かない。
牛島陸軍中将(司令官)が壕で自害した日もこのような天気だったのだろうか。
一年の中で一番昼の長い6月21日を過ぎて2日目。
時計を見ると19時を回ったところ。
南の空はまだ明るかった。
「慰霊の日」には、平和記念公園(糸満市)で県主催の沖縄戦戦没者慰霊祭が執り行われる。
沖縄県知事をはじめとして遺族やたくさんの人たちが参列する。
政府からも、毎年総理大臣が参列し、平和の誓いを述べるのである。
例年1000名を超える参列者があるが、今年は新型コロナウイルス対策のため、極端に数を制限した。
式典の様子は全国で放映されるからご覧になった方もあるだろう。
しかし、高校生が読み上げる詩を聞いたことはあるだろうか。
今年は千数百点の中から選ばれた首里高校の女生徒の詩が選ばれ、本人が演壇に立った。
5分余りの彼女の詩を詠む動画。>(ここをクリック)
詩はNHKのページがわかりやすい(ここをクリック)
きょうのような梅雨明けの(多分)ジメジメした壕の中で自刃した牛島司令官や、追随したであろう士官や兵たちの事が語られることはない。
時代の波に呑まれ、翻弄された人たちでもあることを忘れてはならないだろう。
戦争は生きとし生けるものの上に、例外なく、残酷で理不尽な不幸を覆い被せて来るのである。
ひめゆりの塔の会館が展示の模様替えをするらしい。
平和学習で訪れた生徒達が、
「自分等と同じ世代だと聞いても実感が湧かない」という声を聞いたからと報じられていた。
ニュースで5,6人のひめゆりの女学生たちがセーラー服姿で笑う姿が映されていた。
この屈託のない笑顔に溢れた女学生たちのこの1枚の写真を見た時、かって味わったことのない衝撃を受けた。
展示が生まれ変わったら、是非とも観に行かねばならないだろう。
30年前、沖縄に着任した頃、当時の沖縄戦の話では、日本軍が沖縄県民に強いた残虐行為ばかりを聞かされた。
地元メディアの報道もそうしたものであったと記憶している。
「戦争がそうするんだ。命のやり取りをしている戦場で、善悪や人間性なんて吹っ飛んでしまうだろう」
そういうのが精一杯だった。
会社に入った頃、前線を経験した元小隊長だった支店長が、
「人間は、気狂いにならなければ人は殺せない」と言っていた言葉を思い出して伝えるのが精一杯だった。
「戦争」というものの理不尽さ、残酷さは容認出来るものではなかろう。
戦争はやっちゃいけない。
では、
「どうすれば平和でいられるのか。それを考えよう」ともいいたかったけど、言葉には出せなかった。
あの頃沖縄戦を語った彼らの気持ちが、今ならわかるような気がする。
沖縄県民にとってはあの戦時下のまま、沖縄の景色は変わらず続いているのだ。
爆撃機や戦闘機の爆音を聞かない日は一日たりともないのだから。
国を守ること、それは我々自身を守ることである。
拉致された娘さんを取返すため生涯を捧げた横田さんが逝った。
私そして我々は、拉致された人たちを取り戻すために何をしただろう。
「国が・・・」と人は言うけれど、国を作っているのは我々ひとりひとりである。
他人の所為にするのは簡単だ。
「俺がやらなきゃ 誰がやる!」 若い頃に流行した言葉だ。
遊びでも、仕事でも、困難にぶち当たった時、
「俺がやらなきゃ 誰がやる!」
と、勢いつけてぶつかったものだ。
あの頃のあの覇気や情熱は、今は萎えて、朽ち果てようとしている。
ブログで牛島陸軍中将について触れたことがなかったし、詳しくも知らなかった。
本島南岸の海沿いの崖を下ったところに自害した司令壕が残されている。
2度ほど行ったことがあるが、壕の中には入れなかった。
入り口からのぞく壕は如何にも断崖の洞穴のようで、湿気が充満しているように思えた。
夏だったが、冷え冷えとして、侘びしく、そこにいるのが辛かった。
ネットで牛島中将を調べたら、ウイキペディアがあった。
一段落したら勉強してみよう。(ここをクリック)
例年なら5月には歩道の百日紅が、枝もたわわに咲き乱れ、夏の到来を知らせてくれるのに、
去年も、今年も5月になっているのに咲く気配もなく、6月に入って、漸く、咲き始めたようだ。
これらの写真は6月22日撮ったものである。
ランキングに参加しています。