あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の風景~宜野湾市・宜野湾漁港~海鮮みなと食堂で昼食のつもりが・・・

2014年09月24日 14時07分19秒 | Weblog
 昼前、友人から昼食の誘いがあった。
ぎのわんJAが経営する「海鮮みなと食堂」へは2度目だ。

  鄙びた感じのする食堂だが、少し濃い目の味で友人の好みである。
店に入るとすぐに食堂と魚を販売している。
更に奥には進むと、野菜や食品、日用品等が売られている。
多分、漁協の組合員の為の売店になっているのだろう。
 この日は食欲もなく、何も食べずに外に出た。



  

  外はうだる様に暑い。
一雨来るのだろう、空には入道雲がグングン盛り上がってくる。
 宜野湾漁港は閑散としていて、遠くの岸壁に囲まれた入り江で遊ぶ子供たちの姿、岸壁で釣り人の姿がちらほらするだけだ。
子供たちの近くまで行ってみたかったが、蒸せるような熱気に足を運ぶのも難儀だったのでやめた。
 カメラに写った釣り人に話しかけてみた。
話好きだろう、人の良さそうな笑みを浮かべていろいろな話を聞かせてくれた。
釣果は数匹のアジの仲間で、今夜はこれがおかずだ、と笑った。




  さすが、魚も刺身も新鮮だ。
沖縄に来た頃は、
「沖縄の魚は煮えている。刺身なんか食べられたもんじゃない」
と本土から来た連中は異口同音みなそう云ったものだった。
魚通の人達の云うう事には、
「魚を獲ったときの処理の仕方が間違っている」らしい。
 最近は好んで沖縄で獲れた魚を刺身で食べる。
店だけは選ぶが、本土の魚よりいい。
本土からの輸送経費と時間を考えれば至極当然のことだ。

 雨が落ち始めたので車に戻った。

 
宜野湾漁港



ランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。

沖縄の風景~炎天下の那覇の街を歩く~若狭大通り・上之蔵通り

2014年09月16日 14時58分27秒 | Weblog
  対馬丸記念館へ出かけたときは雲が厚く、容易に陽が射す気配はなかった。
記念館は波之上宮の近くと踏んでいたから、悠然と、乗客の少ないバスの最前列に座っていた。「泊高橋」を過ぎて100m先で、「対馬丸記念館」右折の案内標識が目に飛び込んで来た。
次のバス停「若松入り口」まで1500m位ある。
事前に調べておくべきだったと後悔した。
 「若松入り口」でバスを降り、夜となく昼となく見慣れた風景でもたのしんでみるかと、
「船員会館」辺りだろうと当たりをつけて歩き始めた。
58号線から斜めに道を選んで、前島を過ぎ、船員会館前に出た。
あたりにはそれらしき建物がない。
通りがかりの感じのよい中年の婦人に声をかけた。
「対馬丸記念館はどのあたりにありますか?」
婦人は気の毒そうに、人のよさそうな笑みを浮かべて
「こちらじゃありませんよ。歩いてもいけますが、結構ありますから」
懇切丁寧に教えてくれた。場所はわかった。
 バスを降りた「若松入り口」のもうひとつ先の「農林中金前」で降りれば、真っ直ぐ海に向かって行ったところである。
逆方向に歩いてきたのだ。歩くたびに遠ざかっていたことになる。
最近、あまり歩いてないから、良い機会だ歩こう、と決めた。
若狭大通りの端にいる。この道を真っ直ぐに南下すればいいのだ。
『なんていうところに標識があるんだ。これでも観光立県か』と腹が立ってきた。
しばらくすると、2時間ほど前まで太陽を遮っていた暑い雲は消え去り、薄雲の間から青空が見え始め、灼熱の陽が照り付け始めた。

 潮渡川の橋にかかったとき、なつかしさで怒りも何も忘れてしまった。

  写真はその潮渡川に架かる橋の上から。
上は国道58号線にむかって。右が松山、左が前島だ。
下は海へ流れ込んでいる。


  潮渡川を渡れば、夜の町「若狭大通り」である。
20数年前、はじめて連れられてきたスナックがあったが、店名は変わっていた。
大概、夜を放浪とする時は松山だったので、この通りはなじみが薄い。時に数人で連れ立って飲みに来るくらいであった。


  この交差点が若狭大通りの終点だ。交差点に名前がない。
左上:今通ってきた若狭大通り。右に行けば那覇市の夜の繁華街松山である。
右上:松山通り。那覇商業高校、福州園がある。そして、58号線、モノレール県庁前駅、国際通り、県
    庁へと続く。
左下:海岸方面へと向かう若狭中通り。これを進めば、最近開通した海底トンネルを経て空港に向かう
    最短道路である。
右下:旧那覇港に出る上之蔵通り。若狭大通りの延長である。50mほど行って右折すると波之上宮。
    又、少し先には「料亭那覇」、「那覇ショッピングセンター」などがある。


  対馬丸記念館の通りに「ゴールデンシャワー」が元気だった。夏の沖縄を彩る明るいマメ科の植物である。


  一本裏道に入ると古い家並みが続く。
左上:那覇にはこのような三角形の公園が多い。
右上:なつかしい「高良食堂」は地元に人気の食堂である。何十年続いているのだろう。
左下:どこの通りだろうか。上之蔵通りの裏通りだろう。古民家の屋根に目がいったのだろう。
右下:どこまでも目で追ってくるのでパチリとやった。それでも逃げそうで逃げない。   


  「ふみや」は沖縄家庭料理の店である。
本土から親しい友人や心許せる知人が来たときには、よくこの店に来た。
店に入ると畳敷きの大部屋で、自宅の居間にいるような感覚で寛げた。
前島にある。2,3年は行ってないだろう。


  料亭那覇。
50年近く前、団体旅行で来たのが最初だった。
宴会場で琉球舞踊を観ながら、琉球料理を食べた。
踊り子の華やかさと琉球料理に閉口した記憶が蘇る。


  那覇ショッピングセンター。
シーズンには駐車場はバスとレンタカーで賑わうのだが、8月も下旬になるとオフ期になるのか、夕方5時過ぎであったためか、駐車場は閑散としていた。


 「那覇そぞろ歩き」とでもするつもりでいたが、兎に角、暑かった。
日傘もなく、ビルの陰を選んで歩いたが、体力を消耗しつくした。



若狭大通りの基点を中心点にした




ランキングに参加しています。

沖縄の歴史~学童疎開船・対馬丸の記念館に行く~NHKの番組を見て行動する

2014年09月10日 10時04分17秒 | Weblog

 昭和19年8月22日22時12分、学童疎開船「対馬丸」は九州に向かっていて、鹿児島県悪石島沖でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された。
 対馬丸記念館が出来たことは知っていたし、テレビや新聞では対馬丸の悲劇を日常的に報じていたが、悲惨な状況を見る気がしなかった。
広島の「原爆記念館」、知覧の「特攻平和会館」、ひめゆりの塔に隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」などには一度は訪ねてみたけれど、悲劇だとか、悲惨だとか、可哀想だとか哀れだとか、そんな言葉では表わせ得ない衝撃を受けたからだ。
2度と足を踏み入れたくないと思っていた。
 先月、NHK番組の「証言記録」「市民たちの戦争」で考えすらしていなかったことを知ることになった。
当時、教師をしていた90歳に近い老人の証言であった。
彼女はそれを最近まで決して口にしなかったという。
教師となって1年ほどしか経っていないとき、学童を疎開させることになった。
学童の親たちはこどもを手元に置いていたいと疎開させることを拒んでいた。
彼女はそんな親たちを一軒一軒訪ねて説得して周った。
そうして対馬丸に乗せた子らが亡くなった。
彼女は自責の念に苦しみながら、口外することなく生きてきた。
淡々と語る彼女を見ていると胸がつぶれる思いがした。

 亡くなった当人たちだけでなく、その数倍の数の人たちが関わっていることに気付いた。
記念館に行ってみよう。
数日後(8月23日)、思い立って那覇市にある対馬丸記念館に向かった。






 対馬丸乗船者1,788名中、1,485名がなくなった。
これは平成26年8月22日現在の数字であり、犠牲者の数は増えつつあるという。
犠牲者ひとりひとりの名前が壁面に掲示してあった。





 対馬丸は単独ではなく5隻からなる船団を組んでいた。
護衛艦が2隻、その中に駆逐艦もいたのである。





 昭和19年7月、サイパンが陥落すると軍部は次の戦場は沖縄だと考えていた。







 館内には学童たちの遺品が数点展示されていた。
筆箱や小さな国民服などである。
直視できぬほどボロボロで、撮影する気など起こらなかった。
 40数年も前、観光バスで知覧「特攻平和会館」入り口に置かれている特攻機が目に入った瞬間、突然、婦人が人目も憚らずその場に泣き崩れた。
今でも、その時の光景が浮かぶ。






対馬丸記念館




ランキングに参加しています。


沖縄の食事処~糸満市真壁「茶処 真壁ちなー」~真壁は沖縄戦の南部の激戦地だった

2014年09月01日 19時29分37秒 | Weblog



 豊見城市から糸満市と行く当てもないドライブした昼下がり、糸満市で昼食をとることになった。
「沖縄そばの美味いところがあるから行きませんか」
と友人が云う。
「以前、行ったことがあるけど美味かったですよ。そばでいいですか?」
「ああ、何でもいいよ」
内心あまり気乗りはしなかったけれど、彼は沖縄そばが大好物だから鷹揚に応えた。
路地らしき道を右に行ったり、左に曲がったり迷路のよう小道を辿って、漸く、行き着いた。
美味かった。
写真にでも撮っておくべきだったと後悔して、店を出たところで撮ったのがこの2枚。



 帰路、糸満市の南濱公園に寄った。
この海岸は好きなので、時間があれば寄ることにしている。
写真もたくさんあるから、この日撮影したのはこの1枚だけだ。




 自宅近くの公園の傍で車を降りた。
気付かなかったが、百日紅が今を盛りと咲き誇っていた。
いつもの年なら、5月頃から咲き始める百日紅。
先日までは花が少なくて、今年は花を枝一面に付けている百日紅をみることはないだろうと思っていた。
7月下旬のことである。

糸満市真壁・茶処真壁ちなー

 10日程前、NHKがシリーズで放映している沖縄戦記録するために取材したシリーズ番組をみていると「真壁」という言葉が出てきた。
南部戦の激戦地だという。
昨日、ふと「真壁」という地名を思い出した。
例のそば屋である。
早速、インターネットで調べてみた。
「真壁ちなー」が有形文化財になっていた。
この真壁地区一帯は激しい地上戦があり、で焼け野原となった。
残ったのはこの「真壁ちなー」1軒だけで住民の半数近くが亡くなった。
築120年。戦後、壊れた部分は補修され、空き家だった時代もあったという。
店の人に尋ねればその歴史を教えてくれるということがわかった。
因みに、「ちなー」は「喜納」の沖縄方言読みだそうだ。
詳しくはこちらをクリック。
 きょう、急に思い立ってブログに書き留めたが、再度、たずねてみなければと思った。

ブログランキングに参加しています。