あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の歴史~海軍司令部壕と大田實海軍少将自決前の最後の電報~沖縄県民斯く戦へり

2013年06月30日 13時41分58秒 | Weblog



 6月20日、慰霊の日を前に平和祈念公園に行った。
帰りに友人を案内して「海軍壕」を訪ねた。
海軍司令官大田實少将が自決を前に打電した電文が気にかかっていた。
「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と文末だけは克明に覚えていたけれど全文記憶がなかったから。





「発  沖縄根拠地隊司令官    宛 海軍次官」

  左の電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
  沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集に捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下□□□風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
 所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ□□ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫
 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□□□□□□
 一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

*□は判読できず、意味不詳ですが原文のままとした。
 
 
電文は海軍壕に入る際に渡されるパンフレットから写した。




 幕僚室の壁面。
司令官室・作戦室に近い。
幕僚が手りゅう弾で自決した時の破片は当時のまま残っている。
この壕のあちこちで、たくさんの兵たちが死んでいったのだろう。



 壕は狭く薄暗くジメジメしている。
フラッシュを焚いて写真を撮る気にはなれなかった。



海軍壕から出たら6月の空は青く、太陽が眩しかった。
ひどく暑かった
眼下には市街地と海の風景が静かだった。





沖縄戦 海軍司令部壕と大田實海軍少将の電文



沖縄 ブログランキングへ


 

沖縄の歴史~平和祈念公園と平和の礎~6月23日「慰霊の日」を前に

2013年06月22日 21時39分18秒 | Weblog

摩文仁「平和の礎」から


 6月21日午後。N氏から「昼食でもどう?」と誘いがあった。
沖縄そばが食べたいというので首里まで足をのばした。
N氏が以前から「海軍壕」に行きたいと言っていたことを思い出し、
「仕事の都合はどう?平和祈念公園に行ってみないか。帰りに海軍壕を案内するよ」
と誘った。
平和祈念公園のデジタル画像が1枚もないのに数日前気付いていた。
「17時まで帰社すればいいから行きましょう」
とN氏は快諾した。



久し振りの平和祈念公園のアプローチ道路は見違えるように整備されていた。
写真の右側には「記念館」と「平和の礎」がある。



 「平和の礎」を前にして、6月23日、「慰霊の日」の式典会場の準備が進められていた。
慰霊の日の式典は、毎年、きょうのような灼熱の太陽が照り付けている。
今年もまた、例年のように暑いだろう。
後方は、各県の慰霊碑が並ぶ摩文仁の丘だ。








 無言の碑が並ぶ「平和の礎」。
毎年、多くの人の名前が追加されて碑も増えてゆく。
戸籍や土地の台帳さへ焼失してしまったというから記録はなく、記憶に頼らざるを得ないだろう。



 この日は観光シーズン外であった所為か修学旅行生だろう高校生の一団と出合ったほかは
人影はまばらだった。
碑の並ぶ外れに摩文仁の断崖がある。





 摩文仁の海と、海を前にして圧倒される数の碑の列。





 この広場の真ん中に地図を描いたモニュメントがある。
中央の小さな塔は沖縄の位置に据えられている。
碑は日本人だけでなく米国人などの外国籍のものもある。



 帰りに目に付いた碑は「命こそ宝」と沖縄の人たちがよく使う言葉が刻まれていた。

 6月23日は日本軍の沖縄防衛軍が組織的戦闘が終結した日であるため、沖縄県ではこの日を終戦としている。
「慰霊の日」は休日である。

 灼熱の太陽と碧い空、青い海は、あの頃と同じであったろうと思う。
テレビで放映される震える幼い男の子は、戦場で撮ったものであろうが寒さで震えているわけではないであろう。きっと、恐怖に震えていたのだ。
怯え、すがるような眼差しは忘れられない。



平和祈念公園と戦跡



沖縄 ブログランキングへ


沖縄の思い出~ゆうなの花と沖縄の素晴らしい想い出~普久原恒勇・ホップトーンズ・伊波智恵子

2013年06月14日 20時30分48秒 | Weblog
 6月12日、糸満ハーリーがあった。
旧暦5月4日に行なわれる糸満ハーリーは代表的なものであって、県内各地でも「豊漁と航海安全」を祈ってハーリーが行なわれる。
糸満ハーリーの写真記載を省略した。このページではたくさんの写真が掲載されている。






  6月はゆうなの花が美しい。
花は椿くらいの大きさだが、木の生長は早く、夏にふさわしい木陰をつくる。
やんばるの出身の人の話によると、昔の便所は屋外にあったため、便所の傍にゆうなの木を植え、木の葉をチリ紙代わりに使ったという。





 並木のゆうなの木。
この並木にはたくさんの花が咲いているが、わがカメラでは写らない。
遠目にも花は見つけづらい。





 一般的にゆうなの花は黄色だが、赤みを帯びたものもある。
この写真は2,3年前の8月に撮影したものであるが、落下して色がかわったのではないようだ。枝に咲いている花も同じ色。
季節の差でもないようだから種類が違うのかもしれない。


 「ゆうなの花」という歌に出会ったのは、沖縄に着任して1週間くらいしてからであった。
店のママさんがカラオケで歌ってくれた。
その当時、「芭蕉布」全盛の頃で、本土から赴任してきた人たちが「芭蕉布」をよく歌っていたが、私はあまり好きでなかった。
そんなとき、「ゆうなの花」を聞いて惚れ込んでしまった。
 ある酒場で「ゆうなの花」を歌っていると隣の席にいた見知らぬ婦人から声をかけられた。
「珍しい、本土の人は芭蕉布をよく歌うのに。ゆうなの花お好きですか?」
「はい、大好きです、芭蕉布よりずっと好きです」
と応えると
「作曲者は普久原恒勇という方で芭蕉布も作曲しています。実は、先生もゆうなの花のほうがお好きなんですよ」
という。
 その婦人が普久原恒勇先生を紹介してくださることになった。
数日後の夕方、沖縄市の普久原恒勇先生宅をその婦人と訪ねた。
大広間にテーブルが用意され、次々に料理が出てくる。
とても気さくで品格のある初老の方だった。
その大広間には大きなスピーカーが据えられていて、やがて4人の男性コーラスグループの練習が始まった。
目前で聴く声量はすごい。
この人たちが有名な「ホップトーンズ」であることを知ったのは普久原先生宅を辞した後だった。
公演を直前にした練習だったらしい。
お酒をいただきながらの最高の夜だった。
思い出しても夢のような時間だ。
夜半12時ごろまで長居してしまった。
目前で聴くプロの歌声は筆舌に尽くし難い。迫力に圧倒された。
夜遅くまで、かいがいしく料理やお酒のお世話をしてくださった女性が、わたしの大好きなわらべ唄「チョッチョイ子守唄」を歌っている歌手の伊波智恵子さんだったことも後から教えられた。
足元も覚束なくなった帰り道、件の婦人が
「先生は一滴もお酒は召し上がらないのよ」
といって、くっくっ、と笑った。

 今から25,6年前のことだ。
ゆうなの花が咲くとあの夜の事を想い出す。
わたしの沖縄でのとっておきの思い出である。
帰りにいただいた先生が作曲されて交響曲のレコードは宝物として大切にしている。
2度とあのような贅沢な経験はできないだろう。

 普久原メロディーをご存知の方も多いだろう。
インターネット上でもたくさんのレコードが売られている、

ゆうなの花」You Tube
 
ホップトーンズ You Tube

「芭蕉布」 近年のホップトーンズと伊波智恵子 You Tube

NHK18時のニュースで沖縄梅雨明けを発表
  


沖縄 ブログランキングへ

沖縄の風景~読谷村にダムがあった・長浜ダム~万座毛に行く途中で遠まわりした

2013年06月10日 10時28分12秒 | Weblog


 平成25年6月9日 日曜日午後3時の空。
雨が降りそうで降らなかった。
きょう6月10日も朝から晴れ。
夜のうちひと雨あったらしく木々の葉が濡れて朝日に光っていた。
台風3号が、漸く発生した。
3,4日後には本島付近を通過するだろうから、風雨は強くなる。
梅雨明けがどうのこうのと真面目に考えていたが、この分だと梅雨明けの前触れかどうか判断がつかなくなる。
自然も世事も、ちょっぴりでいいからすんなりいかないものだろうか。



 万座毛に行く途中の車の中。
突然、連れが
「読谷村にダムがあるのは知っているか」と話題を替えた。
「見たことことも聞いた事もない!読谷村はあちこち走ったから知ってるつもりだ」と応える。、
「いや、ある」
そういいつつ、西海岸に差し掛かる手前で、58号線から急に左にハンドルを切った。
琉球村にでも行く気だなと思っていたら、琉球村を通り過ぎる。
「どこ行くの?!」
「長浜ダム。すぐだからーーー」
名前も聞いた事がない、というと彼は得意気にほくそ笑む。
「noraも知らない所があるんだ」と機嫌がいい。
大体、いろいろなところを案内するのは私が多いから、得意になっている。
カラオケを歌わせるとなかなか上手いが、聞きかじりの覚えてもない歌を得意気に歌う奴でもある。妙にメロディーがあっているようなので始めの内は誤魔化されるが、適当に伴奏に合わせて即興で作曲しているのだ。
そんな彼だから駄洒落も多い。
あまり面白くない駄洒落で悦に入っている奴だから、また何か下らないことでも思いついているんだろうとダムなんて嘘だとうんざりしていた。



 この辺りかな、といいつつ小さな道を左に入った。
目の前にダムの堰が見えた。
「ほんとうだ!いつもの駄洒落と違うんだ」
「ううん、そんなにいつも駄洒落は云わない!」




 これ池じゃない?と云いたいところだけれども、看板は立派なダム。
振り返るとすぐそこに海が見える。
下に見えるこの道路を上って来たのだ。



 

 水飢饉で沖縄が喘いでいた頃に出来たようだ。
このダムの奥の山を越えたら世界遺産の「座喜味城址」がある。

 ダムを離れる頃から空模様が怪しくなってきた。



読谷村の長浜ダム



沖縄 ブログランキングへ


沖縄の観光~二十数年振りの万座毛~梅雨の雨に煙る万座毛はあの頃と同じだった

2013年06月07日 15時30分42秒 | Weblog



 きょうも朝陽が暑く、一点の雲もなかったが、昼前から空一面が梅雨空に変った。
梅雨の中休みは1週間。それでも夏の到来を感じるには充分だった。
 土産物店が並ぶ駐車場から一歩入ると、遠い昔に戻ったような景色が眼前に広がった。
記憶にあるあの青い海や蒼い空はなく、空も海も鉛色にどんよりしている。
まるで別の場所に来たようでもあった。





 あの頃はこんな歩道はなかった。
去年秋の台風で痛めつけられた「アダン」の姿が荒涼とした風景には似合っていた。
これが「アダン」だとを最初に教えられたのは万座毛のここだ。
好きな植物ではないが、沖縄の海岸の至るところでみられるから沖縄であることを実感させられる。





 断崖の底をを洗う波はもう少し荒々しかったはずだが、きょうはいつになく風も凪いで、海は静かだった。





 万座毛からの万座ビーチホテル。
この光景に記憶がないから、最後に訪れたのは20数年前だろう。
西海岸といえば先ずは万座毛だった。
オフ・シーズンだからか、十数人の観光客しか目に入らなかった。
 5,6人の若い男女のグループからシャッターを押してくれと頼まれた。
前を前後していたグループで、本土からの若者だと思っていたら外国人だった。
流暢な日本語を使うので、しばらくは気付かなかった。
近くに名桜大学や沖縄国際大学院大学もあるからだろう。

 昼下がり、ぽつりぽつりと雨が落ち始めた。
そろそろ梅雨明けと期待していたが、当分、梅雨明けは先かとあきらめた。
万座ビーチホテルのロビーラウンジでコーヒーでも飲もうかと思ったが、悪天候では海の景色も期待できないと更に北上することにした。


万座毛の位置。カーソルを上下すると地図は拡大・縮小される。



沖縄 ブログランキングへ