あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の行事 ~ 新正月へ替わる旧正月 ~ 1月10日~12日

2024年02月13日 19時14分25秒 | Weblog

 沖縄は真冬であるが、最高気温が15℃まで下がったことは今冬は2日しかない。
寒い時で20℃前後、暖かくなると25,6℃にもなる夏日。
地球温暖化の影響か、定かではないが海面温度は平年より高いらしい。
 総じて、沖縄の人たちは「暑がり屋」である。
30年前にはホテルには暖房はなかった。
毛布一枚で夜を過ごすのであるから、本土からの観光客は「寒い」とクレームを付けた。
殊に、東北・北海道から来た人たちは寒さに耐えられなかったらしい。
 20℃を超すとタクシーは冷房を入れる。
沖縄に来た時分は、
「冷房を入れるほどのこともないだろう」といえば、
異口同音、
「窓が曇るから」と譲らない。
随分議論もしたが譲らない。
喫茶店、レストランも同じだ。
客も同じだから、孤立無援になる。
今では諦めて厚着をして出かけるようになった。
余り好きではなかったジャンバーは手放せない。

 行事も旧暦で行うことが多かったけれど、最近は新暦に替わり始めている。
地域によってはまちまちで、那覇市周辺は新暦でやることが多い。
今回の正月でも、友人から、
「お正月くらいは何かお供え物でもしたら」
と、助言の電話があった。
することもなく、ぶらりと酒場に寄ったら店に提灯が点いていた。
馴染みの客で店はほぼ満員になった。
 それぞれが得意の歌を歌って、楽しく過ごした。
唄う歌は演歌ばかり。
昔を偲んでは講釈を入れ、年甲斐もなく老年の夜をはしゃいだ。

 酒場への道すがら、目に止めた桜は満開の時期を過ぎようとしていた。


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沖縄の季節 ~ 本島南部にも桜咲く・駆け足で来る春

2024年02月07日 17時16分49秒 | Weblog
2月2日 浦添市の民家の桜


 今冬は冬らしい季節が来ない。
本島の気温は北部(やんばる)と南部では2℃ほど違う。
八重山地方(石垣島・宮古島)では3~5℃程違う。
このブログに書くのは本島南部である。

 立春を迎えた2月は沖縄では一番花が多い季節と聞く。
年中いろいろな種類の花を見たりするので「沖縄は季節がない」と、始めての人は感じる。
しかし、南国の花として馴染みの深いブーゲンビリアの開花は23℃前後が適温らしい。
特に真夏の強烈な太陽には弱く、ほとんど咲かない。
それでも真夏にあちこちで見ることがあるのは、開花条件に適した所だけのようだ。

 見出しの桜は「寒緋桜」である。
寒緋桜は一番寒くなった時から咲き始める。
本島では北のヤンバルから咲き始め、開花時期は南下してくる。
 先月、「名護桜まつり」が1/27(土)、1/28(日)開催された。
名護城公園を主会場として名護十字路大通り、名護漁港内にも会場が設けられた。
 更に、「本部八重岳桜まつり」が1月20(土)から始まり、2月4(日)まで執り行われた。
八重岳の開花・満開は頂上付近から始まり、麓へと下りてくる。
頂上まで自家用車で行けるから楽だ。


ー2月6日のツツジ(浦添市内)ー

 2月10日は旧正月。
昔の人は「正月」を「春」といい、「初春」と呼んだ。
桜の開花を見つけた4日後、通りすがりに見つけた花壇には春いっぱいだった。
今年は暖かいので開花も早そうな気がする。
画像をクリックで画像は拡大します。


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明けましておめでとうございます

2024年01月08日 13時49分30秒 | Weblog


 元日の朝は晴れと予報が出た。
予報通りだと日の出は7時17分。
東には前田高地があり、日の出は15分ほど遅れる。
 
 元日の朝。
5時には起きて、準備万端整える。
場所は自宅前のの道路を隔てた公園の石段50段ほどの高台にある。
4,5分もあれば十分だ。
7時過ぎに自宅を出る。

 階段を登り切ると、町の夜は明けていた。


 7時40分頃、前田高地の稜線に2024年、令和6年の初日が明るく、神々しく昇り始めた。
この辺りには、浦添城址、浦添大公園、球場、博物館などがある。
先ずは家族の平穏と健康を祈る。
そして紛争中の世界の平和の来たらんことを願った。
この後に、能登半島地震や日本航空機と海保の悲しい事故が起こった。

 8時すぎ、石段を下る。
今年は手摺に掴まらないと足元が覚束ない。
年を追うごとに体力が落ちる。
愕然とした。




 今年の松の内は暖かだった。
20℃を切った日もなく、太陽はいつも天上に輝いていた。
能登半島の人々は凍えるような日々を送っていることだろう。
今こそ、「寄り添う政治」を見せてほしい。

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台風6号下に感じた日本精神文化の喪失

2023年08月27日 18時17分39秒 | Weblog
 宮古島の北で、台風6号は東へと方向転換。
石垣、宮古、本島、奄美は暴風圏内となった。
自宅も2日午後夕方16時から停電。
パソコンが使えないから手持ち無沙汰。
その内、冷房が使えないことに気付く。
28,9℃の熱帯夜を覚悟しなければならず、扇風機でもと引っ張り出しても効果はない。
明るい内に夕飯をと準備に取り掛かった。
冷凍した朝飯をレンジで温めようとすればレンジは使えない。
冷凍冷蔵機能は完全アウト。
助けはプロパンガスだけ。
近くのスーパーに走ってみると閉店。
好きな茶粥を作って、あり合わせのイワシの缶詰で空いた小腹を満たす。
 辺りが暗くなると家々の電気が点き始めた。
どうも停電はこの辺りらしい。
20時過ぎ、全く繋がらなかった電力会社の電話に男性の応答があった。
幽霊が応答したのじゃないかと、一瞬、たじろいだくらいだ。
状況を説明し、受付番号を貰う。
台風のまっ只中、工事のスケジュールなんて聞けやしない。
 翌日、階下の大家の事務所が開くと従業員が飛び込んできた。
「うちも停電しているのです」という。
「早急に連絡取ってみます」と踵を返した。
正午過ぎ、世の中がぽっと明るくなった。
電気が灯った。
日常が戻った!
心も身体もウキウキしてきた。
停電は電力会社の範疇でなく、強風で看板が外れ罹り漏電したことによるらしい。
日常が戻ったと胸を撫で下ろした。
 それからが新たな苦労の始まであった。
昨日、受け付けてもらった「受付番号」をキャンセルしなければならない。
この非常時、電力会社は少しでも人手が欲しいところだろう。
電話は出るが、
「用件の該当する番号を回せ」という。
3,4回通過して、漸く、「これか」というところに行き着く。
「ただいま、台風のため電話が非常に混み合ってます。そのまましばらくお待ち下さい」
それがしばらくどころではない。
30分待っても繋がらない。
結局この日は電話に罹りっ切りであったが、目的は達せず。
翌朝、早目に電話を入れるが、昨日と変わらない。
漸く、夕方連絡がついた。
「受付番号〇〇ですが、屋内故障で電気は点きました」
たったこれだけのことを伝えるのに、まる2日かかったことになる。

 最近、あらゆる会社でこういうやり方が蔓延してきた。
インターネットプロバイダー、電話会社等々、面倒なことは客に回すのだ。
電話の向こうじゃ何をやっているのか分かったものじゃない。
最近は行政でもこの手法を採っているのには驚いた。
きっと泣き寝入りしている人たちが随分いるだろう。
 日本じゃなくなった。
価値観までも失ってしまったのか。
グローバル化のひとつともいうのだろうか。
悲しい時代になったものだ。

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沖縄の社会 ~ 途絶えることなく今も引きずる戦後 

2022年09月15日 15時25分52秒 | Weblog
 夏を迎えても一輪だに咲かなかったサフランモドキが台風12号の通過後、2輪だけ咲いて9月10日のきょうになって60~70の花が一斉に咲いた。
朝、ベランダに出て驚いた。
踊り子たちからにこやかに「おはよう」と声をかけられたように爽やかだった。
華やいだ。



 9月はじめだった。
沖縄県知事戦は現役の玉城デニー氏が当選し、2期目を継ぐ事になった。
辺野古基地反対を叫ぶ「オール沖縄」の野党連合が勝利したのだ。
 午前中の雑事を終え、ブログの記事に目を通しての夕刻、OCNトップページのニュースに目が止まった。
常々心に軸じたる思いを抱いている沖繩の現状である。
読み進む内に得心した。
戦時中の壮絶さ、残虐さ、悲運を語りたいのじゃない。
心あるものなら私が語るより、映画や小説や、ドラマやテレビなどから理解し、想像しておられることだろう。
言葉にならない、言葉では訴えることが難しいことなどである。
この記事にそれをみた。


共働きで月収17万円   母、再びよぎった夜の仕事 コロナで沖縄は今
2022/09/03 毎日新聞

 沖縄県の子どもの3人に1人が貧困状態にある――。そんな調査結果を2016年に県が公表して6年がたつ。深刻な沖縄の子どもの貧困は今も解消されないどころか、新型コロナウイルスの感染拡大による影響で厳しさを増す。11日投開票の知事選では各候補が子育て支援策を打ち出すが、背景には沖縄特有の産業構造の問題もあり、解決は容易ではない。

 ◇子供2人、夫婦の月収は17万円程度に

 夫、子ども2人と沖縄本島中部で暮らす30歳の女性は約半年前まで、暮らしの先行きへの不安で眠れない日々を過ごした。新型コロナの影響で手元にはわずかなお金しかなかった。

 元々、生活は不安定だった。建設現場で働く夫の収入は日当1万円。工事が少ない時期もあり、手取りが20万円を超えた月はほとんどなかった。女性も2人の子どもを保育園に預け、パート勤務で家計を支えた。

 そんな生活はコロナ禍で更に苦しくなった。現場で感染者が出るたびに夫の仕事は休みになり、保育園で感染者が出たり、子どもが体調を崩したりすると、女性も仕事を休まざるをえなくなった。収入は夫婦合わせて17万円程度に減り、生活費や家賃、光熱費などの支払いで消えた。

 猛暑でも冷房はつけず、卵しか具がないラーメンを食べ、保育園で必要な子どもの体操着はリサイクルショップで買った。「お金がないから、ごめんね」。心の中で何度も謝った。

 ◇「夜は出たくない。でも…」

 女性は母子家庭で育った。母は夜になると、姉と女性を家に残して仕事に出た。女性は中学卒業後、アルバイトや季節労働などを転々とし、キャバクラで働いたこともあった。「生活に余裕があれば勉強も楽しかったはず。高校や大学に行ければ、賃金の良い仕事に就けたかもしれない」。そう思う。

 前の夫と離婚して実家に戻り、夜の仕事の支度をしていると、当時1歳半だった娘がしがみついてきた。自身が子どもの頃に感じた寂しさを思い出した。その後、夜の仕事はやめたが、コロナ禍で生活が困窮した時は再び歓楽街で働くことも考えた。「子どものために夜は出たくない。でも、生活が立ち行かなくなったら……」。不安に襲われた。

 ◇子どもの3人に1人が貧困状態

 沖縄は1972年の日本復帰まで27年間、米国に統治され、多くの土地が米軍基地として奪われた。そのため製造業が育たず、サービス業を中心に非正規雇用が多い産業構造となっている。最低賃金も、1人当たりの県民所得も全国ワーストで、経済力が乏しい家庭が多い。

 県が16年に公表した15年度の調査では、平均的な所得の半分に満たない家庭で暮らす18歳未満の子どもの割合(相対的貧困率)は29・9%。全国平均の約2倍で、3人に1人が貧困状態にあった。国や県はそれ以降、生活が厳しい家庭の子どもたちが放課後などに集まり、地域の人々と一緒に食事や勉強などをできる「子どもの居場所」の整備や運営支援、基金による就学援助の拡充などに取り組んできた。
 相対的貧困率は18年度の調査で25%とやや持ち直したが、コロナ禍の21年度の調査では28・9%と悪化した。貧困世帯の6割が新型コロナ禍で収入が減ったとしている。

 ◇「沖縄で普通に暮らしたいだけなのに…」

 知事選では、立候補した3人がそれぞれ、子どもの貧困対策として、教育費や保育費、子どもの医療費の無料化、支援の拡充などを公約に掲げる。

 子ども食堂などに食材を届ける「おとなワンサード」の富田杏理代表は週3回、宜野湾市の公民館で子どもたちに夕食やおやつを振る舞い、子どもの居場所づくりに取り組む。集まってくる子どもの中には、育児放棄のような状態で育った子や家事や家族の面倒をみる「ヤングケアラー」とも思える子もいる。

 富田さんは「親や社会全体が困窮し、その影響が子どもに及んでいる」と指摘し、親の世代も含めた貧困対策や、民間による支援を継続できるための行政の体制拡充を求める。

 長引くコロナ禍。冒頭で紹介した女性は「生活が苦しくなると、『私のせいで』と自己嫌悪に陥ってしまう」と吐露する。この半年、親族からの借金で家計をやりくりしてきた。夫の仕事も一時に比べれば安定して入るようになったが、日々の生活で精いっぱいで知事選にまで目は向かない。「消費税も物価も上がるが、賃金は低いまま。一人親世帯への支援は拡充されているけれども、共働き世帯も厳しい。住み慣れた沖縄で普通に暮らしたいだけなのに……」【宮城裕也】


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沖縄の風景 ~ 思わぬヤンバルへのドライブになった(③終わり) ~ 我部祖河食堂で昼食 ・羽地ダムへ

2022年08月27日 17時46分32秒 | Weblog
 
初日の出をアップしたのが今年の正月11日だった。
半年以上も投稿をサボったことになった。
暦の上では夏もそろそろ終わりだ。

 夏の午後になると南北に亘って現れる「片降り(かたぶり)」の雨雲。
これは7月に撮ったものだが、今では南から北西に向かって棚引く。


 ゆうなの花。
どこにでもあると笑ったひとがいたが、わたしは沖繩の花らしくて大好きである。
あの有名な普久原恒勇さんの作曲でもある沖縄民謡「ゆうなの花」はわたしの愛唱歌だ。
普久原恒勇さんは沖繩が誇る作曲家で誰もが知っている方である。
誰もが歌い、知っている沖縄民謡「芭蕉布」の作曲家である。
 ある酒場で、
「”芭蕉布”より”ゆうなの花”の方がいい!これぞ沖繩を代表する歌だ」と声高に喋っていたら、
隣席にいた中年の女性が、
「先生、喜びますよ。両方とも先生の作曲です」
と言われ、過日、自宅に連れて行かれ、厚遇され生涯忘れ得ぬ饗しを受けた。





「ゆうなの花」はここをクリック。
「芭蕉布」はここをクリック。

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  <昨年12月21日アップした「思わぬヤンバルへのドライブになった②」の続きである>

 国道58号線に戻り、北上する。
名護市役所を通り過ぎると道は右にカーブしながら北へ向かう。
1キロも走ると左へ行けば海洋博公園という道路標識のある交叉点に出くわす。
この交叉点を左折したところが目的地の我部祖河食堂である。
いつもなら、たくさんのひとたちが入っているのだがコロナ禍の所為か客はまばらだった。
3人は揃って三枚肉そばを注文した。
美味かった。


 店を出て、58号線をすこし北へ進むとダムへの表示が目にとまる。
右折し、15分も走らせると目的のダムである。

ダムの下流方面


駐車場から周囲を見渡す。
湖水面が低いから湖水が見えない。


湖岸に人影の少ないダムの事務所。





ダム湖.。湖岸に沿って行けば、一般道に出る。





湖畔で遊ぶナガサキアゲハ。沖縄はアゲハチョウが多い。
*ナガサキアゲハはブロ友の「ベルさん」から教えていただきました。ありがとうございました。



ふと見つけた可憐な花。



           <画像をクリックすれば拡大します>

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沖縄の季節 ~ 初日の出・前田高地に昇る

2022年01月11日 12時35分18秒 | Weblog
 令和4年が明けた
午前5時。
カーテンを開けるが、空は暗く星も月明かりもない。
「未だわからないな」
天気予報は終日曇り。
富士山の御来光の実況中継を観ながら、
「富士山の御来光を拝んで出れば十分だな」と思い、冷めかけたコーヒーを温めて外に出た
公園の高台を昇る。階段は72段ある。
ひと月前から筋力増強準備運動と暇を見つけてはこの高台に足を運んでいる。
 高台を降りながら。



 この高台は子供たちの人気の遊び場だ。
放課後になると先ずは低学年の小学生がやってくる。
そして1,2時間遅れで、授業を終えた高学年の小学生がこの公園の主役に入れ変わる。
この小さな小山を縦横無尽に走り回る。
滑って転げ落ちないかとハラハラしていたが、今は立派な柵が出来た。

 初日の出の1月1日には毎年、2,3組の家族がいるのだが、今年は一組もいなかった。
そう言えば、彼らは殆どが里帰りした者たちだった。
コロナ禍で自粛し、規制しなかったのだろう。
 7時10分には着いたが日の出には早かった。
毎年、松を入れて撮っていたが今年は外してみようと思う。 「7:18」


「7:18」


 ついでに西側の空をみると、厚い雲が姿をみせていた。
少しでもズレると雨になるな、「だから予報は曇りか」と合点した。 「7:20」


「7:26」


「7:32」


「7:33」


「7:36」


西の空「7:36」


 気を引き締め、心静かに一年の無病息災を祈った。
きょう一日は暖かそうだ。
「晴れるかな」と空を見上げる。
元日にふさわしい好天気だった。
一日中、好天気だった。 「10:46」


 きょうの初の出を年賀状に印刷するつもりであった。
遅い朝食を終え、年賀状作成の準備に取り掛かった。
年賀状を開いて驚いた。
裏面は首里城を描いた絵入りの賀状を買って来ていたのだ。
写真を取り込む方法を検討してみた。
いろいろ考えても、うまく嵌まらなかった。
3ケ日が過ぎて諦めた。松の内に届いたかと心配せねばならぬほど遅れた。
元旦のブログアップも、記事作成上のトラブルもあったが、それも己の簡単な勘違いのミスだった。
 最近、凡ミスが多くなった。
歳の所為にはしたくないが、確実に身体能力は落ちている。

 年末の酒場で、「今夜が今年最後になるな」と話題が歳の話になった。
「もう60歳になる」と落ち込む男性がいた。
この日一番若い客だった。
「未だ、お若い」と50歳の頃の思い出話をした
 わたしが50歳になった頃、60歳くらいだったろうか。
先輩の老人から、
「彼は今年50歳になる青年将校だ。よろしく頼む」と紹介されて驚いた。
この先輩の方たちは、沖繩を代表する財界人だったから、その時は、
「地位のある人から見たら、50代は青年将校か」と軽く受け止めた。
その後、自分が60歳になってみて、
「本当だ、50歳は若い、もっと、やれることがあったはずだ」と後悔したものだ。
 そんな話をすると、経験したこともないことを耳目学で一人前に人生訓を垂れ始めた。
沖繩の老人たちは優しい。
特にこの日同席していた人たちは呆れ顔で苦笑いしていた。
あまり彼が独壇場になったので
「人にはそれぞれの人生がある。こうしろとは言わないが、俺は経験したことをいっている。
これから経験するあんたから訓示を受けるつもりはない」と云ってしまった。
つまらぬ事につまらぬ事をしたもんだと小寒い夜の家路を急ぎながら後悔した。






沖縄の風景 ~ 思わぬヤンバルへのドライブになった(2) ~ 新58号線・多野岳

2021年12月21日 18時27分44秒 | Weblog
<10月25日より続き>
 道の駅「許田(きょだ)」を過ぎてすぐ、国道58号線が二手に分かれる。
右方面が名護市のバイパス新国道58号線(名護東道路 6.8km)となるのである。
新道は名護市の山地を長いトンネルで抜ける。
時折、山間に出るが、その谷間の風景も楽しい。
従来の58号線より30分あまり短縮されているが、観光ドライブなら名護市街(旧58号線)を走ることをおすすめしたい。
 旧58号線と合流するのは「伊差川」。
取り敢えず、ブログ地図を貼ったのでご覧頂きたい。

地図右下のユーザー地図をクリックすると拡大図が出る。
その地図の「道の駅許田(きょだ)」のすぐ上の「58」の文字の傍から点線で描かれている予定路線。
開通して間もないから地図の修正が出来てないのだろう。
この道へ入って行くとトンネルの連続で58号線伊差川に着く。
 新道、新58号線「名護東道路」である。


 付近の状況に多少知識のある人はこの 地図の右下のユーザー地図をクリックすると拡大図が出る。



 山を突き抜けていくから景色は殆どない。
谷間に出た。
あっという間の事だから、カメラの調整も出来なかった。


 58号線と合流する伊差川に出た。
「久し振りに多野岳にいってみよう」遠慮することなく、私が提案した。
 伊差川から1kmくらい北上して、右折し多野岳ヘ向かう。
頂上は標高385mの高原で、国民宿舎やキャンプ用のログハウスンドが建っているはずだった。


 頂上あたりと思う場所でショベルカーが止まっているだけで何もない。
工事中の様でもあったが、きょうは祝日。工事用のフェンスがひっそり建っているだけであった。
「もう少し、走ってみようか」
建物もなければ、面影もなかった。
 標高385mの山である。頂上は台地上であった。
あの頃、当時の名護市長であった今は亡き岸本健男市長が、健康のためとかでよく登られていた。
眺望を確保するかのように、木が伐採された一角に車を止め、遠く市街地を眺めていると
あの頃の瞬時に出会った市長の姿が目に浮かんだ。
ここは市有地であったと記憶している。
沖縄観光は「海」だ。「山」の魅力もあるが「海」には敵わない。
市の施設があるこの山の売り込みに必死であった市長の思いがあったのだろう。

 あの頃の景色のままの視界が広がっていた。
手前の山間に小さく見える湖水が羽地(はねじ)ダム、遠方には名護市街が見える。


 羽地ダムに寄ってみようということになった。
「今、そこで引き返した所を右に降りて行く道を下りていけばいいのじゃないか」
誰も異論はなかった。正に、展望した方角に当たるからだ。
 10分も走っただろうか。
突然、目の前が開けた。
見慣れた風景である。10数年前の田園風景と変わらない。
「東海岸に出たぞ!」
「えっ?」
「間違いない。この川に沿っていけば大浦湾だ」


 話している内に、河口へ出た。
沖合は沖縄県の反対を受けながら工事が進む米軍辺野古基地である。




 「道間違ったね」
「何年も来てなかったからよかった。名護に戻りましょう」とN氏。
二見の坂を超えずに、大浦から二見を眼下にみる開通した道路を通り名護市街に向かった。

<次回に続く>

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沖縄の風景 ~ 思わぬヤンバルへのドライブになった(1) ~ 58号線を北上。名護市へ

2021年10月25日 18時33分18秒 | Weblog
 9月23日。
やることは山ほどあるが、やる気に任せていると日に日にやらねばならぬことが溜まってくる。
この日も、怠惰な身体を座椅子に凭せ掛け、テレビのチャンネルを際限なく回していた。
突然、電話が鳴った。
億劫に、腕を伸ばし、電話を取る。N氏だ。
「きょう、昼の食事かお茶をしませんか」
コロナかが収まるまで自粛しようと約束して、夜の飲食を自粛している。
2ヶ月ぶりの誘いだ。
「いいね、暇を持て余していたところだ」弾かれたように体を起こした。
「今9時ですね。10時半頃家を出て、パルコシティーで買い物をして行きますから11時半過ぎ位になります。又、電話します」
パルコシティーは昨年オープンした郊外型大型ショッピングセンターである。
数年前、浦添市にある米軍基地キャンプキンザーの一部が返還された地区に建てられた。
浦添市の西海岸にある。


 11時過ぎに電話が鳴った。
件の彼である。
「どうした?」
「パルコシティーはやめました。今からでもいいですか」
「構わないよ」
「11時半には着きます」
早めに身支度を済ませてよかった、と胸をなでおろす。
 11時半ピタリに彼は着いた。
「女房も一緒です。構いませんか」
駄目と言ったらどうするつもりかな。
そんなこと絶対に言わないことを知っているから、いつもそういうのである。
夫人は明るくて、知的な、素直な女性である。
彼と同じ年と言うから還暦を過ぎてはいるけれど元気がいい。
旦那N氏は去年退職したけれど、夫人は働いている。
 「食事にしましょう」と彼。
「そうだね」
「どこにしましょうか」
郊外の変哲もない、サラリーマン食堂の名を挙げた。
「どこでもいいよ。奥さんの好きなところにしたら」
夫人は友人たちと食事会をするらしく、料理に余り興味のない私だが、彼女が指定する店は美味い。
「どこでもいいよのこのひと言が良くなかった。
ふたりの会話に残波だの、読谷だのと30分はかかる地名が出てくる。
車は国道58号線を北上している。

 道の両側が基地の嘉手納町に入った。

 嘉手納町を超えれば読谷村である。
58号線を左折すれば残波岬に向かうはずだ。
ところが、なかなか左折しない。
 10分ほど走って、琉球村を左折し、遠回りだが海沿いを残波岬に行くのだろうと思っていたが通過した。
「ねえ、残波に行くんじゃなかったの!」と夫人。
「”おんなの道の駅”にしようと思ったが、ここまで来たらムーンビーチの先の美味い「沖縄そば屋」に久しぶりに行ってみようと思う」
 車は西海岸入り口に当たる旧山田温泉「ラマダルネッサンス」にそろそろ到着だ。

 
 ラマダルネッサンスを過ぎれば、そこは恩納村の西海岸の始まりである。
右手に「おんな道の駅」が見えた。
 


 「道の駅も通過するの?」と夫人。
「帰りに寄ろう。いいでしょう」と同意を求めてきた。
「ああ、いいよ」
 仲泊(なかどまり)の外れで道は十字路に出る。
真っすぐ行けば、恩納村を走る国道58号線のバイパスだ。
車は旧国道へと左に折れた。
 「急ぐこともないし、例の沖縄そば屋は旧道です」とN氏。
「そうだね、観光で来るひとにとっては海岸線だよね」
名護や本部に行くときも、バイパスや高速道を余程の理由がない限り使うことはない。
昔ながらの国道58号線を走る。
 「あれ!店がなくなっている」とN氏が叫んだときは車はブセナテラスの手前に来ていた。
長い間来ていない。
国道に沿って立っていた店は名前も思い出せなかっ
た。
N氏は昨年まで、よくこの道を走っていたから間違えることはない。

 「もう名護市じゃない!」N氏夫人。
「とんでもないドライブになったね。奥さん、大丈夫?」と声をかけた。
「大丈夫です。きょうは祭日ですよ」車の中が笑いで弾けた。
「宮里そばにする?・・・・・我部祖河(がぶそか)そばでもいいね」N氏は屈託のない声で夫人に話しかける。
ラマダルネッサンスの門前を通り過ぎた。


 車は許田(きょだ)の七曲りに入った。
昔は許田から名護まで、海に迫る山裾を縫うように走っていた交通の難所だったらしい。
対岸の半島は本部半島。半島の先端辺りが本部港だろう。海洋博公園はその向こうにある。
町並みは名護市。




 「道の駅許田は帰りに寄ろう」とN氏。
「何か買うの?」と夫人。さり気なく、従順に問いかける。
N氏夫婦の会話は物静かで、穏やかである。そばにいると思わず眠りに誘われることがある。
 許田道の駅を過ぎる。
最近開通した新道道が目の前に現れた。
「新道を走ろう」思わず、私は叫んだ。
                                                           (つづく)


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沖縄の季節 ~ 初めて撮ったバッタ ~ 突然変異かサフランモドキ

2021年09月11日 21時35分16秒 | Weblog
 9月6日昼下がり、雲が太陽を隠すほどに広がったので、近所のスーパーに出かけた。
この地域は浦添の一等地と言うらしくて、兎に角、便利が良い。
周囲200mの園内に、スーパーが2軒、コンビニが3軒、沖縄の銀行が3行ともある。 それに郵便局が2つ。
あまり関係ないが、小学校が2校、中学校、高等学校が1校づつ。  
用を済ませて30分あまりで帰宅した。
クーラーを入れるために窓を解き放して、先ず、空気を入れ替える。
ふっとベランダのサフランモドキに目をやると、居た!
子供の頃、よく追い回していたバッタだ。
何十年振りかの再会であった。
 9月6日 14:57


 9月8日、風もなく暑い日だった。
朝から室内の温度計は30℃。昼過ぎには33℃になる。
富士山に1ヶ月早い初冠雪とニュース云っていた。
沖縄はひと月遅れの猛暑か。
ここ数日、33℃が続く。  
ふと窓辺に寄ると南の空から北に向かっての「カタブリ」の大きな雲。
きょうは、随分と西に偏っている。 この分じゃ、ひと雨来るなと嬉しくなった。  
 9月8日 13:47
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 降りそうな気配に感じたが降らなかった。
雲は厚く垂れ、間違いなくひと雨来るなと思ったが雨粒は一滴も落ちて来なかった。
「カタブリ」だから近くで降っていたのかもしれない。
 クーラーを入れるため窓を閉めた。
ベランダに目をやると変わったサフランモドキの一輪が目に止まった。
斑入りのようだ。
突然変異じゃないのか。
2,3年は植え替えはしないでおこう。これはたのしみだ。
 9月8日 17:17
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 気の向くままに近くを散策しているときに撮った。
庭の垣根に咲いていたハイビスカス。近寄り過ぎてボケたか。
9月6日
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 よく見かける花だが名前がわからなかった。
 9月7日 セイロンライティア コンビニの花壇で。
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 9月7日 ペンタス コンビニの花壇で。
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沖縄の季節 ~ 湿度50% そよ吹く風は秋の気配 ~ スマホで初めて捉えた「蝶」

2021年08月27日 15時44分03秒 | Weblog

 盆が明け、旧盆(8月20日~22日)の頃から体感で秋を感じるようになった。
きょうの心地よい風は南東の風。
白雲は蒼い空を漂うように西南の方向に流れている。
湿度は53%と沖縄にしては低い。

 8月14日15:40。見慣れた夏の午後の雲。
ー写真はクリックで拡大ー


 8月15日10:01。いつもの雲が大きく西に寄ってきていた。
ー写真はクリックで拡大ー


 8月17日。毎年、元気に花を咲かせるサルスベリも、花の盛りを過ぎたのか。
ー写真はクリックで拡大


 8月25日。
今年は花が咲くのが遅かった。
2輪、3輪と少しづつ花数を増やしてはいたが、前日の24日夕方にたくさんの蕾は青々とした葉の間から顔を出していた。
ー写真はクリックで拡大ー


 この日(25日)、暑かったけれど日陰は涼しかった。
沖縄特有の海からの風が吹いてくるからだ。
散歩がてら、スーパー、コンビニ、銀行、郵便局と回った。
いずれも250m圏内である。
 スーパーの花壇にモンシロチョウを見つけた。
スマホを取り出す。
いつもの蝶と違って動きは緩やかで逃げない。
取り敢えず、腕を伸ばして盲滅法シャッターを切った。
30枚ほどの画像の中で残ったのはこの2枚だけ。
それでも生涯一番の作品が撮れた・・・・・・?


ー写真はクリックで拡大ー

 撮っているときも気付いていたのだが、モンシロチョウにしては一回り大きいし、
羽根の一部が黄色かかって見える。
そこで調べてみた。
やはりどこか違うが判らない。


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沖縄の季節 ~ 真夏の炎天下に紅葉する寒緋桜 

2021年08月17日 18時14分23秒 | Weblog
 8月11日のこと。
いつもの通り慣れた道なのに気付かなかった。
今年1月、小さいながらも花を咲かせていた寒緋桜が紅葉しているのだ。
 8月11日。秋の粧の寒緋桜。

暦も真夏ならば、体感の季節も真夏、気温も真夏。
最高32℃、最低26~28℃の熱帯夜である。これが今も続いている。
日中、日向に出れば焼けそうに暑い。日向では立っておれない。
なのに早々に桜は冬支度。
桜は季節を何を以って判断しているのだろうか。
不変に近いものといえば・・・太陽の位置だろうか。
 早速、気になったので、きょう近所の桜を見て回った。
どの木も紅葉が始まっていた。
沖縄に住みはじめた頃、
「沖縄には四季がない。夏と冬だけだ」と云って憚らなかった。
3年後くらい経ってから、季節を感じるようになった。

 今年の冬は早いかもしれない。


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沖縄の季節 ~ ようやく夏空が戻ってきたか ~ 咲き始めたサフランモドキ

2021年08月17日 17時31分37秒 | Weblog
最近の天候は我々素人の知識だけでは理解できない。
先月、「沖縄の夏雲が見えた」と狂喜したものの、10日も待たず雨が続き、
挙句の果てには台風までも妙な事に高緯度で発生する。
 昨日、久しぶりに「カタブリ」の雲が現れた。
一時間後、15時過ぎに風が強くなり、一瞬、空は雨雲に覆われ雨が降り出した。
現在は16時30分すぎ。
雨は止み、雲が切れて青空が覗きつつある。
風が心地よい。
遠くの空は青空が見えてきた。
「カタブリ」だ。
極端な場合、道路を挟んでこっち側に雨粒が落ちていても、道路の向こう側は濡れてもいない。
それほどはっきりした降り方が「カタブリ」だ。

 7月上旬、長々と降り続いた梅雨明け。
.はっきりしない空模様だったが、「カタブリ」が来そうな雲が南西のから北東に向け伸びていた。
この雲を見なけりゃ沖縄の夏じゃない。
 7月7日 15:27。右(南西)から左(北東)に流れる雲。 
ー画像はクリックで拡大ー


 7月10日 13:48 この日は「カタブリ」があったかどうか記憶にない。
ー画像はクリックで拡大ー


 7月12日 14:45 この日は降雨の前に涼しい風が吹き、ひと雨来た。
ー画像はクリックで拡大ー


 このブログは昨日(8月12日)から書き始めた。
昨日の昼下がり「きょうは「カタブリ」来るかな」と思っていたら俄に降り出した。
ブログを書くのに夢中だったから写真は間に合わなかった。
先週まで台風だの前線だのと天気は良くなかったから「カタブリ」はない。
今週から晴れが続き、当分は良い天気が続きそうだからたのしみだ。

 きょうの空。15時過ぎ。
18時を過ぎても雨の気配すらなかった。
ー画像はクリックで拡大ー


ー・ー・ー・ーー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

 開花が遅かった今年のサフランモドキ。
漸く、7月27日、一番花が2輪咲いた。
毎日数輪咲いていく。
平年はプランターいっぱいに咲いて、1,2週間後に又一斉に咲く。
花と花の時期は寂しいが、一斉に咲くさまは気持ちのいいものだ。
どうも今年は違うようだ。
巡り合わせた偶然、これもいいか。
 7月27日、今年、咲き始めのサフランモドキ2輪。
ー画像はクリックで拡大ー


 8月10日、徐々に花数が増えてゆく。
ー画像はクリックで拡大ー




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沖縄の歴史 ~ ナナ・サン・マル(1978年7月30日) ~ 右側通行から左側通行へ

2021年08月05日 16時20分40秒 | Weblog
 1972年(昭和57年)、沖縄はアメリカ施政権下から本土復帰した。
市民生活に重大な影響を及ぼす交通の問題があった。
復帰前までは交通規則はアメリカ本土と同じ右側通行であった。
 (参考:ここをクリック)
 1978年7月30日を以て県下一斉に左側通行とすると決めた。
信号機、道路標識、道路標示、更にはバスも使い物にならない。
変えねばならいのは枚挙に暇がないほどの一大事業だ。
 バスは乗降口が反対になる。従って、運転席も変えねばならない。
バス会社が保有するバスが凡そ1300台。
新車1000台あまり、中古車数台、残りは改造した。
国庫補助金と財政投融資で156億円が投入された。
 (参考:ここをクリック)
 又、道路標識等は「カバーアンドテープ方式」(考案者の名をとって「久高方式」とも呼ぶ)を採用した。
7月29日午前10時~翌30日午前6時まで、緊急車両を除く全面通行禁止にした。
7月30日サイレンで以って左側通行が始まった。
これらのために、作業員600名、全国から警察官3000名が派遣され、高通指導などために8月末まで沖縄に留まった。

 運転は体で覚え、身体が反応するものだ。
事故が絶えなかったという。
30数年前、沖縄に赴任して来たとき、本通りから脇道へ入ると右側に停車している車を見て、
「一方通行に入ってしまったか!」と慌てたものだ。
今では、そういう車も少なくなった。
 この時期になるとウチナンチュウ(沖縄県人)との酒の席では「ナナサンマル」が話題に上った。
素朴な出来事が話題となり、笑いの種になり、場が盛り上がったものだ。
「そうして、アメリカゆ(世)からヤマトゆ(世)になった」でその夜は切り上げた。

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<ゆうな>オオハマボウ(大浜朴)
 海岸沿いの路傍に、山道に、今では街路樹にも見られる「ゆうな」。
「ゆうな」は沖縄で呼ばれる名前である。
わたしは「ゆうなの花」のわらべ唄がとても好きだ。
30数年前、案内された小さな酒場で、聴いた時思わずほろりと零しそうになった。
「ゆうなの花」というわらべ歌だった。
夏も終わった11月の頃だった。
本土から来たばかりのわたしには、沖縄の秋を感じることは出来なかった。
「ゆうなの花」を聴いた時、幼い頃の盆踊りや夕涼みを思い出した。
作曲は「芭蕉布」などで著名な作曲家普久原恒勇先生によるものだ。
普久原恒勇先生はたくさんの沖縄民謡、沖縄歌謡、童謡そして交響曲などを世に出している。

 「沖縄で一番好きな花は」と問われれば、今でも「ゆうな」と応える。
6月頃に咲き始める。
いつの頃に咲かなくなるのか判然としないが、秋口にも見かける。
多分、11月頃じゃないだろうか。
咲き始めは黄色だが、落下する頃は赤く染まる。

 咲き始めの頃のゆうなの花。
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 落花の頃のゆうなの花。
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 高木になったゆうなの花
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沖縄の歴史 ~ 6月23日は沖繩「慰霊の日」 ~ 牛島司令官自刃の日

2021年06月23日 18時35分26秒 | Weblog
 1945年6月23日は、大東亜戦争終末期の沖繩戦線の最高司令官牛島中将が自刃した日である。
沖繩県ではこの日を以て、組織戦が終わった「沖縄戦終戦の日」とした。
県はこの日に沖縄戦で亡くなった人々を追悼し、「慰霊の日」として制定、毎年、南部の平和記念公園で毎年追悼式を行っている。
毎回総理大臣をはじめ、多くの人が参列するのだが、今年は新型コロナウイルス禍でもあり、昨年同様規模を縮小して執り行われた。
今年は30余名にだったと報じられていた。
昨年6月23日にブログを書いた。よろしければご参照ください。(ここをリック)

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

 4,5日前、晴れ間に散歩の途中で見つけた蝶。
過去には幾度かチャレンジしたがブレて撮れなかった。
今回の蝶は、珍しく逃げなかった。
ヒョウモンチョウかクロヒョウモンチョウかと思ったが確定できなかった。


 久しぶりにアリアケカズラ。


 階下の住人が育てているサボテンの蕾。開花がたのしみだ。


 蕾の「月下美人」
「美人薄命」というけれど月下美人の花は短命である。
夕陽が落ちて辺りが暗くなり始める頃、月下美人の花は開く。
そして、その日の真夜中になる前には花を閉じてしまう。
それから2度と花開くことはない。
 蕾か花びらが萎れた姿しか見たことない。
数日の夜がたのしみである。


 木の間から大きな蝸牛が月下美人の蕾に喰らいついているのをみつけた。
今思えば、あの蝸牛はアフリカマイマイじゃなかっただろうか。


 3種のハイビスカス。
30数年前、赴任した当時、
「ハイビスカスがそんなに珍しいのですか?沖繩ではクソ花と言って、誰も見向きもしませんよ」と会社の事務の女の子に笑われた。
容姿端麗、利発で事務所の自慢の娘であった。
もう50歳を過ぎたな、と笑った爽やかな顔を思い出した。






 公園の百日紅。
いつの間にか大きくなったこの木は、ほんとうに百日紅なのか。
不審に思って撮ってみた。
木肌も、花も百日紅だと思うのだが、どうも樹姿が百日紅らしくない。

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