あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

行ってみたかった川崎・横浜  ~  海上保安庁記念館横浜館⑧

2019年08月28日 15時08分03秒 | Weblog
 赤レンガ倉庫を出る。
目前に「海上保安庁資料館横浜館」の建物があった。


 入ると管内は一艘の小型の船の残骸が展示してあった。
前もっての知識がなかったので、目前に現れた鋼鉄船の錆びた異様な光景に、一瞬、たじろいだ。



 入り口近くにいた海上保安庁の制服が似合う50絡みの背の高い、品格のある保安官が説明してくれた。
 平成13年12月22日、南西海域で不審船を発見。逃走する不審船を追尾する。
不審船に対する幾度もの停船命令を無視され、不審船からも銃撃されて巡視船は被弾する事態になった。
不審船からの銃撃で保安官3名が負傷した。
更に、威嚇射撃をするも逃走を続けたため巡視船が攻撃。
その後、自爆、沈没するという事件があった。
 翌年平成14年10月、沈没した不審船を引き上げた。
ここに展示されていたのはその沈没船である。
奥に進むと階段があり、沈没船の看板を目線と平行に見ることができた。

 鋼鉄の船腹を貫通した弾痕。


 看板上にある14.5mm対空機関銃移動用レール。


 無反動砲の台座か。



 第一機関室。



 見るからに小舟である。
漁船なら平底であるが、この小舟は船底は鋭利に尖っている。
明らかに戦闘用の軍船である。
この小舟に7人もの人間が乗っていた。
彼等は停船にも応じず、挙げ句は巡視船に体当りを喰らわし、遂には銃撃で反撃し、自爆した。
その凄まじさに身の毛がよだつ思いがした。
これらの人間に対峙した海上保安庁の隊員の思いは如何ほどであったろう。
3人もの負傷者を出して、ようやく反撃したのである。
死と隣合わせの、いや死に直面しても我が身を守ることに、世論を気にしないとならなかったのか。
国境を侵されてもか。
間違って侵犯したのなら、停戦命令に従い、釈明すれば良いことだ。
そうしなかったということは、別に重大な目的があったに違いない。
装備品などを見ると慄然とする。
自衛隊は軍隊、交戦は出来ない。自衛のための防衛だけである。
平和な横浜港を見ながら、釈然としない疑問に駆られた。

記念館の岸壁に停泊する巡視船。
そのスマートで明るい船体からは、生死をかけた壮絶な現場の陰は見えない。



死んでいった北朝鮮の工作員。
どんな使命を帯びていたのだろうか。
戦いの先には、悲しい、己の意思では選択できない強大な力がある。
あの暗い船の中で武器に囲まれながら荒海を渡ってきた。
 前の晩、ごろ寝のテントの中で、許嫁の写真をみせてはしゃいでいた新兵が
「隊長殿、撃たれました」と背後から声を上げた。
振り向くと腹を撃たれ、真っ赤になっていた。
そして、最後に「おかあさ~ん」と叫んで息絶えたという。
「若い兵隊は死の間際には、おかあさんと呼ぶ」と涙を浮かべていた。
インパール作戦の事を、語ってくれた小隊長だった支店長は
「戦争は人間を獣にする。敵兵をみると憎しみ以外は湧いて来ない」
「こうした平和なときには、到底、人など殺せない」
それ以降、戦争の話はしなかった。




帰宅して、横浜館の関連記事をネットで探した。
その状況を詳述した記事を見つけた。(ここをクリック
ー画像をクリックで画像は拡大しますー


<余録>
 宮崎に勤務していたときのこと。
入り口に2,3本の竹をあしらったスナックに、看板に惹かれて飛び込んだことがある。
そろそろ四十年近くになる三十数年前のこと。
夫婦ふたりでやっている小さなスナックだった。
マスターは明日が出撃という日に終戦になった特攻隊員の生き残り(ママ談)である。
物静かで、寡黙な男だった。
ママはほっこりした小太りの女性で、明るく開放的で、和服がよく似合う女性だった。
いい店で、馴染みになった。
 「ノラさんが来ると、不思議にお客さんがみえるの。今日もね」
そんな時は、勘定が破格である。
「だから今日は300円」ときには「100円」と気ままである。
その当時の飲み代は、気^プガあるから3000円が相場であった。
千円札を出して、「釣りは要らない」と妙に格好つけて見せ、好意に甘えた。
 ある日、ママが
「この人おかしいの。きのうテレビで人間魚雷のドキュメントをみて、涙を流すの」
「え?マスターも特攻隊にいたんでしょう」
そのとき、あの寡黙なマスターが苦笑いしながら口を開いた。
「我々は確かに死は覚悟していたよ。でも心の何処かで、ひょっとしたらと死ななくて済む、と思える瞬間があるんだ。
でも、人間魚雷は乗り込んで、外からパチンと蓋をされたら、もう出ることは出来ない。内からは開けることはできない。
運良く敵艦に体当り出来ればいいが、燃料が切れたりすれば、そのまま海の底で、ひとり死ぬ以外には道は無いんだ。
それを考えると人間魚雷に乗る彼等は、パチンッとハッチを閉められた時の気持ちを考えると・・・」
と、特攻隊の比じゃないと涙を拭おうともしなかった。
 この店には、30前後の若い連中が多い。
飲みっぷりはいいし、紳士的で、惚れ惚れするほどスマートであった。
ある日、彼等3,4人とカウンターに並んだ。
どうも壁に飾っているゼロ戦の話をしている。
わたしが興味を示していることを察したのか、マスターが
「ノラさん、この人達は航空自衛隊のパイロット達。この人はノラさん」と紹介してくれた。
「はい、父は大将まで行きましたが、何故か皆さんは上等兵の父までしか知りません」
「というと?」
「はい、ノラクロと申します」
ノラクロをきっかけに彼等と会話をする機会が増えた。
それから数カ月後のこと。
「きょうのスクランブル」という言葉が耳に飛び込んできた。
「宮崎で、スクランブルなんか発生するのですか」ちょっと驚いて尋ねた。
殆ど、玄界灘に向かって飛び立つらしい。
国籍不明機や不審航空機が領空に近づけば自衛隊機は飛び立つという。
「一年で850回以上襲撃します」という。
その殆どがソ連の軍用機らしい。
この日もソ連機だったという。
機体で「国境を超えている。出るように」と指示する。万国共通の機体で通信できる方法があるらしい。
すると、領空すれすれに近づいて来ては離れるを繰り返すという。
そのうち、領空に侵入してきて、飛び去って行ったという。
「機上からソ連軍機の笑っているパイロットの顔が見えるんですよ。明らかにあざ笑っている」
「自衛隊は自分らが撃たない限り、先に打つことはないということを知っているのです」
30歳前後の若い自衛隊員は悔しそうに話す。
「国境を侵犯されても撃墜できないなんて法律は何処の国にもありませんよ」
「思わず機銃のボタンに手が行くことがあります。俺が犠牲になれば・・・なんて事を考えることもあります」
この言葉を聞いた時、日本の自衛隊は凄いと思った。
我慢できる強い意志がある。

 相手が撃たない限り、自衛隊側から撃つことは禁じられている。
そんな馬鹿な!
それが専守防衛らしい。
我々は、平和を満喫しているが、死との瀬戸際で国防に当たっている人々がいることを忘れてはなるまい。
 現在は、玄界灘より南西諸島へのスクランブルが圧倒的に増え、航空機だけでなく中国の艦船が出没し、危機的状況にあると聞く。
どちらかが発砲し、銃撃戦になったら戦争の危機が極限状態にまで高まるだろう。
どちらが先に撃ったかは、互いに譲らないことは明らかだ。

 マスターから戦時中の多くの話も聞いた。
彼の最後の言葉は、いつも
「戦争だけはやっちゃいかん」だった。
上司や先輩や、近所の人たちからもたくさんの話を聞いた。
将校だろうが、軍曹だろうが、一兵卒だろうが、志願兵だろうが、徴兵だったろうが、異口同音に「戦争だけはやっちゃいかん」と言った。

ブログ人気ランキングに参加しています。クリックするだけです。


行ってみたかった横浜・川崎 ~ レンガ倉庫・馬車道⑦

2019年08月20日 16時58分56秒 | Weblog
 それぞれの都市にはそれぞれの匂いや風を感じるものである。
少し早めにホテルを出てレンガ倉庫に向かった。
 先ず、馬車道を歩く。
事前知識もなく、ガイドもないから馬車道とはなんぞやとは書くことが出来ない。





 時間は充分あったのであちこち気ままに歩いてみた。
小一時間歩いたが、都会のオフイス外の裏通りという印象しかなかった。
大きな交差点にカフエを見つけた。
店内は静かで、サラリーマンらしき人々が談笑している。
窓際の二人用の小さなテーブルに座った。
窓辺の席は高齢者ばかりだった。
彼等が皆、上着を羽織っているのに、何故か安堵感をおぼえた。
アイスコーヒーなんてほとんど飲まないが、きょうばかりは冷たいものがほしかった。



 この旅では一度もタクシーは使わなかった。
かねてからそうしたかったが、時間に制約されてそうは出来なかった。
桜木町から定期バスに乗って「レンガ倉庫」に着いた。
バスが観光スポットを回る路線バス「あかいくつ」である。
後ろ姿しか撮れなかった。


 バスを降りるとレンガ倉庫はすぐに分かった。
行く先々で、どこも塵ひとつなく整備されているのには驚いた。
さすがに国際都市横浜である。
 レンガ倉庫は何があるのか、史跡なのかも知識は皆無であった。
結構立派なのには、少々、驚いた。
人々が出入りしてるが、どうも観光客ばかりのようだ。




 ショッピルだろうと予測して管内に入った。
ングモー蛍光灯などの灯りがにぎやかな店がたくさん並んでいた。
興味をそそるような物もなかったので、もうひとつ奥の棟に寄ってみることにした。
この棟も同じで、たくさんの店が並んでいた。
2階にも上がってみたが興味を引くもがない。
 館外に出るドアを見つけた。
外に出ると、ベランダがレストランになっていた。景色がいい。
人っ子一人いない。いや、ひとり居た。
ボーイらしき若い男性に声をかけた。
「オープンしているの?」
「はい、どうぞ!」
感じの良い青年だった。


 ビールでもないし、コーヒーもどうかと迷っていたらこれをすすめられた。
「人気上昇中で、よく飲まれています」
迷うことなく注文した。
プロはこうでなくちゃ駄目だ。
人当たりの良さがまず大切だ。信じる気になってしまう。
バブル以来、プロがいなくなった。
バブル最悪の遺産だ、なんて考えながら口にした。

 今では、どんな味だったか記憶にないが美味かった。
アルコールが入っているなと感じた。
「韓国産」というのが気にかかった。

 ウエイターおすすめのドリンクを飲みながらゆったりした時間を過ごした。
その時、岸壁に止まる船を見つけた。
巡視船だった。
「海上保安庁資料館」の文字も見えた。
これは行ってみなくちゃなるまいと思った。



人気ランキングに参加しています。クリックしていただければ幸いです。



行ってみたかった川崎・横浜 ~ 横浜 山下公園・港が見える丘⑥

2019年08月10日 15時41分27秒 | Weblog
「赤い靴の女の子」には何故こんなにも惹き付けられるのだろう。
小学校5年生だった3月。
春休み入ってからずっと微熱が続いていた。
持病の胆石で寝込んでいた母の医者を呼びに行ったり、薬取りなどで走り回っていた。
息が上がるほどきつかったが、風邪ぐらいだろうと思っていた。
3月30日、自転車で外出しようとして倒れた
診断の結果、肺浸潤とわかった。
初期の肺結核である。今、この病の名前は聞かない。
2歳の頃、肋膜炎を患い生死の境を彷徨った事があったと、母を極度に落ち込ませた。
当時、肺結核は不治の病とされ、人里遠く隔離された。
運良く、私は自宅療養と言うことになった。
新薬と言われたアメリカからの輸入医薬品「ストレプトマイシン」を打ち続けた。
毎日、午後になると主治医が、どでかいオートバイに乗ってやってくる。
「ドドドッ」と爆音がする度に慄えあがった。
馬にするような巨大な注射器を尻にブスッと刺すのである。痛いどころではなかった。
42本だ。だから42日間、怯え、耐え抜いた。
栄養を摂って、絶対安静。一日中寝ていた。
父は勤めに、母は畑に出ていない。
森閑とした部屋に残され、ラジオを着流しに聞くだけであった。
寝たっきりを3ヶ月、寝たり起きたりを3ヶ月ほど続けた。
ラジオだけが友だちだった。もっぱらNHK教育番組を聞いた。
その頃は、童謡や唱歌がよく流れていた。
「赤い靴の女の子」はそうした頃に聴いた。


 横浜山下公園では広い園内はバラが満開だった。
帰宅後知ったことだが、横浜では方々でバラに関するフェスティバルが開かれていたようだ。






催物の準備だろうか、舞台づくりの人々だけが忙しげに働いていた。



 港に来て、港風景を撮っておかないということはない。
テレビや雑誌で見慣れた風景だけど横浜のあの全容を撮影することだけは難しかった。
切り取って写したものの中から・・・。





 夕闇が迫る。
「港が見える丘」に向かった。
途中、外人墓地を左に見ながら道なりに歩を進めた。
さすが国際都市横浜。
道端の花々にも手入れが行き届いていた。





「港が見える丘」、もっと広々とした高台と思っていたが、思ったほど広くはなかった。
しばらくひとりポツネンと港を眺めていた。
きっと夜がいいだろうなあと思いながらも港が見える丘を後にした。



ーすべての写真はクリックで拡大ー

 帰途、ふと見るとエレベーターがある。
まさかと思って乗ってみた。
真っ直ぐと丘の登り口に降りた。
これには驚いた。さすが国際都市横浜!

<余談>
 今年は旧盆と8月盆が全く同じ日。
8月13,14,15日が旧暦7月13,14,15日である。
そこで考えた。
東京あたりでは盆は新盆と云って、新暦7月13,14,15日としている。
では何故、我が地方は新暦の8月13,14,15日を盆とするのだろうか。


人気ブログランキングに参加しています。よろしかったらマークをクリックお願いします。