あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

那覇マラソンの締切迫る。

2008年09月29日 10時17分01秒 | Weblog
モノレール壺川駅から奥武山公園を望む。手前の河が国場川である。壷川駅を下車、この橋を渡ると奥武山(オウノヤマ)運動公園である。公園内は広く、多くの運動施設があり、12月の那覇マラソンはこの公園の総合競技場からスタートする。
また、散策にも適していて、中には大きな神社があり、正月は出店も出て賑わっている。


 国内最大規模の南国沖縄らしい楽しいイベントである。沿道の応援は42キロの間、途切れることなく続く。那覇マラソンの出場締切が延長になった。
参加申し込みが未だの方は次のURLから
 http://www.naha-marathon.jp/
開催日は12月7日。この頃の沖縄は、通年なら秋晴れのような日が続く。
とはいうものの、昨年はまるで梅雨のようだった。

 奥武山運動公園も散策に適しているが、国場川沿いに遊歩道があり、ウオーキングに朝早くから励む人も多い。国場川を遡ると、そこはマングローブを観る事ができる漫湖(マンコ)である。野鳥の憩う場所としてボランティアなどが必死になって環境保護に努めてい、。この辺り一帯が漫湖公園である。
 早朝のウォーキング。日暮の散歩。ネオンと酒のイメージの強い那覇の健康的な側面を発見するでしょう。本土と違った植生を楽しむことができる。昨
年、公園は園内の木や草に名札をつけた。おすすめの観光ポイントである。

 モノレールなら「奥武山公園駅」で降りるより、「壺川駅」で下車したほうが良い。
徒歩だと国際通りから15分~20分、那覇バスターミナルから15分。観光は歩きにあるという持論から言うとタクシーでなく徒歩がいい。疲れたら、タクシーで帰ればいい。

沖縄の痛みと県民感情を理解しよう。それが旅人のエチケット。

2008年09月20日 11時46分57秒 | Weblog
バナナの花は最初に見たときは大きさに驚くだろう。芭蕉はその樹形からバナナと見分けるのがむつかしい。観光バスの車窓からは、馴れないうちはバナナと芭蕉の見分けがつかない。民謡「二見情話」で有名な二見に行ったとき、真近かに芭蕉の花と実を見て驚いた。バナナの花と実を小さくしたもので、形状は全く同じであった。


 前号で沖縄県の人たちに県外の人に押し付けてはいけないと、旅人の心情から触れた。
後先になるが、旅人にはその土地に足を踏み入れたとき、最低限守らなければならないエチケットとルールがあることに触れよう。
 一番多くて不愉快なものが沖縄と日本というように表現する時である。
「沖縄はおかしいよ。日本ではーーー」だという表現である。40歳代以上の人に多い。
沖縄が戦後長い間、米軍政下にあったとき、同じ日本でありながら、沖縄を往来するにはパスポートに代わる「身分証明書」が必要であった。その名残であろうが、沖縄県民は本土復帰にどれだけの期待をしていたか。まるで外国扱いである。
このような無神経さは基地問題を論議する時に顕著になる。
「沖縄がいくら反対しても、地理的条件から言っても、アメリカサイドから見ても沖縄が一番いい。基地反対なんて言っても無駄だよ」
と沖縄の地で沖縄の人を相手に平然と言ってのける。
「27年間、異民族支配に堪えてきた。なのに復帰しても何ら変わらない。それどころか、仕方ないだろう、我慢しろ」というのかと県民は怒る。
だから、県民の多くの人はアメリカ下の施政をあまり言わない。
「日本政府は、ナイチヤーは沖縄の痛みを知らない」と憤慨する。
同胞という意識からくる期待に裏切られた所以だと思う。
日米安保の是非論をどうこう言っているのではない。その前に、米軍基地が日本全体のの75%を占めている沖縄の現状認識と痛みを理解してくれと言っているのだ。

 こんなこともあった。
那覇市松山の客筋のいいスナックでの話。
ずいぶん前のことであるが、恰幅のいい、しかしどことなく傲慢な感じのする紳士風の男が入ってきた。
カウンターには4,5人の客がいた。その男はひとりでママ相手に飲んでいたが、近くにいたわたしに声をかけた。ナイチヤーとみたらしい。
「沖縄の酒の飲み方はかわっているなあ。家に帰ってシャワーを浴びて、食事を済ませてから飲みにでるという。だから、飲み始めは9時ごろになる。そして、深更まで飲んでるそうな」という。沖縄に来て間もないらしい。
「そうだよ。健康的でいい。タクシー代も安いし、気楽に家を出て、いつでも帰る事ができる。終電なんてないからね」と応えた。
「酒の飲み方としては外道だ。内地じゃあ飯を食う前に酒を飲み、そして最後に飯を食う」と声を荒げた。
外道!皆さんどう思います?
「外道なんて失礼じゃないですか。あなた、お国はどこですか」むっとした。
「栃木だ」確かにそう言った。群馬だったかもしれない。
「本土すべてがそうじゃないでしょう。あなたのお国の習慣でしょう」
「いや、そうだ。大体、沖縄のーーー」と下らない自説をふりまわした。
「家は貧乏だったが、母からしっかり言われた。すきっ腹の酒はうまいというけれど、そんな酒飲みの飲み方はするな、せめて、肴をつまみながら飲まなくてはいい酒とは云わない」
まあこんなやりとりをして、居づらくなったのか、すごすごと帰って行った。
いい客になるのかもしれないのにと気付いてママに謝った。ママ曰く、
「あんな客はいらない。うちの店はいい客だからあんな人が来るとみんな嫌がる」
少しはほっとしたが、すまないと心底思った。

 地方には独自の文化がある。
自分の地域の文化が全国共通であると認識している連中の多い事に、沖縄に来て初めて気付いた。狭い世界で生き、狭い視野しか持ち合わせていない連中だ。
自分もその一人であった事を、今、深く恥じている。
 




沖縄の人情:家族が一緒で、墓をつくればもう「ウチナンチュウ」

2008年09月09日 16時29分09秒 | Weblog
シーサーは民家の屋根の上に飾られる。
赤い瓦に白い漆喰で固められた民家の屋根の上に置かれている風景は沖縄の原風景である。何十年も経つ沖縄の民家は木造で、海岸に面した家々は背を低くし、どんな強風にも耐えうるように作られている。名護から15分くらい車で行ったところに塩谷のがある。その途中、58号線沿いに見ることができる。
写真にみるようなシーサーは初めて。玄関脇に立っていたのを撮影した。
右クリックしたら画像は大きくなります。

 前のブログで紹介したタイプの人間はどこにでもいるようだが、私の育ったふるさとにはこんな理屈っぽい男はいない。
 沖縄では親しくなってくると慣れやら、馴れやら、狎れやら判らなくなる。それだけ純真といえば言えるのかもしれないが、こちらだって感情の動物。むかっ腹も立てば、怒鳴りたくなる事もある。そんなとき、
「待て待て、お前が好き好んできたのだから、郷に入れば郷に従えだ」とぐっと堪える。口論すれば周りは見ず知らずの人たちばかりだから、孤立無援だ。
「でもねえ~、おまえさんの土地がすきで来てるんだから、もう少し考えてくれてもいいんじゃないか。情に厚いってみなさん自慢してるじゃないか」
と胸のうちで愚痴る。

 どこの土地でも、
「えっ?そんな唄知ってるの?そんな言葉も知ってるの」という土地の唄、方言や風習を覚えていけば喜ばれる。ここまでは全国共通。
ところが、当地沖縄ではそれからがある。
「家族は一緒じゃないの?」家族が一緒ならまあまあだ。だが、及第点ではない。
「お墓を沖縄に造ればもうウチナンチューさー。ウチトンチューって言うんだ」そうな。お墓を造って一人前のウチトンチュー。
 何度も聞かせれている内、これは郷土愛じゃなくて愛国心だ、と思えるようになる。沖縄の歴史を考えるとき、さもありなんと頷けることもある。
なにしろ、基地が沖縄に集中し、本土のように社会基盤ができていない。
「戦争に負けたから仕方ない」という非体験者の本土の感覚は通用しない。理解するまでナイチヤーは先ず聞く事。それさえ遣らずに云々するのはいただけない。
敗戦の年に生まれた子が、27歳になるまで米軍の施政下にあった。この子は既に結婚し、小学校就学前の子供もいるかもしれない。27年とは、それほど長い月日である。
復帰運動の話を聞き、新聞やテレビで観ると、次第に運動がどうであったか次第に見えてくる。復帰できると本土並みになると期待した県民は、本土復帰を夢見て大変な闘争を繰り広げたようだ。
沖縄本島北端の辺戸岬に立つと、遠く与論島を見ることができる。その中間が国境だった。与論島から小舟を漕ぎ出し、国境ぎりぎりのところで、本土復帰を叫び、エールの交換をしたと聞く。学校では日の丸掲揚を謳い上げた。
ところが、復帰してみると右側通行が左側通行になり、ドルが円に変わっただけ。県民が変わったと肌で感じるものは何もなかった。そうした失望感がどれほど強く、大きいものであったかは在沖10年を過ぎて初めて感じるようになる。乱暴に言えば、
「ナイチヤーは沖縄の苦労や沖縄のことをまるで知らない。知ったかぶりするな」
と言っているのである。
「ほんとうに沖縄が好きならーーー」といっているのである。
リップサービスはこりごりと言っているのだ。
「強制されたか否か」の集団自殺や集団自害が、教科書から除外されたことが連日沖縄のマスコミのトップ記事なった。
今でも、テレビや新聞は取り上げない日はない。
本土の理論では沖縄県民を納得させる事はできないだろう。

 沖縄で中・長期に滞在する人は「沖縄県史」というポケットに入るくらいの本と、大城立裕著「琉球処分」をおすすめする。
わたしが沖縄に着任したとき、Pホテルの社長から
「これを読みなさい。沖縄の心がわかる」といって一冊の本をいただいた。
「石の花」であったと記憶する。まわし読みしている内、行方がわからなくなった。とても、いい本だった。

また、きょうも長くなった。
「家族は?お墓は?」と聞かれたら、
「いやあ、そこまではできない事情もあるもんで」と答える方がよい。
「そこまでやらないと駄目なの!」とカッカしては駄目。そのうち、そういうことを押し付けてくる人がどんな人か、どんなな理由があるか肌で感じて朧気ながらわかるようになる。

沖縄方言を話し、習慣を知り、家族と住み、墓を沖縄に作らねばほんものの沖縄好きではない?

2008年09月05日 18時56分57秒 | Weblog
辺野古(へのこ)への移転で基地問題の中心になっている普天間飛行場。嘉数公園展望台から撮影した。画面中央が飛行場である。滑走路の右に灰色に見えるのは駐機場付近だと思われる。基地を取り囲む形で市街地が広がる。左クリックすると写真が拡大されるので、着陸態勢に入った輸送機を見ることができる。
嘉数公園展望台は那覇市から車で30分のところにある。



 今は場末となっている屋父祖(ヤフソ)の飲み屋街でのこと。
最近は、この屋父祖の値段の安さとウチナンチュー(沖縄県人)が集まる飲み屋街の気楽さが好きで飲みに出る。
 数日前、若い頃は美人だったろうと思われるママさんがやっているスナックがある。ブランド名を店名にしたスナックでのできごと。
 あとからひとりで入ってきた60前後の身なりもこざっぱりしていた男が隣に座った。酒が入っていたのか、やたら曲の説明をしてカラオケをかけさせ、気分良く唄い始める。一番を唄うと2番、3番を自責の両隣にすすめる。ここまでは、よく遭遇する沖縄県人が「沖縄人はやさしい」と自慢する光景だ。
そのうち、私の前を越えてマイクを隣の客にまわす。彼を挟んで反対側に座っている夫人連れの夫人まで巻き込む。
 こんな風景は沖縄ではしばしば遭遇する。厚かましい限りだと不愉快になる。それでもウチナンチューは「やさしが過ぎただけだ」という。
 迷惑な雰囲気が店の中に流れていたが、当人は丁寧語を使いこなしていたので、そこそこの良識ある社会人だろうとみなさんは受け流していた。
ちょっと油断した隙に、肩をたたかれた。
こっちを向けというのだ。
大好きな沖縄民謡「島情話」を歌い終えた直後だった。
「本土の方のようですね。どこからきました」ときた。
その次に
「今の唄の意味が判りますか」と。
むかっとしたので、
「もちろん」と応えた。
「沖縄に来てどれくらいになりますか」
「20年を越えました」
「いやあ、それではもう立派なウチナンチューだ。あんたのような人を沖縄ではウチトンチューという。方言わかりますか」
「いや、全く駄目ですね。単語くらいはわかりますけどね。ウチナーグチでしゃべられるとさっぱりですね。イントネーションが違うからでしょう」
「方言は早く覚えたほうがいい」
だんだん口調が先輩口調になる。それも勘にさわりはじめた。
「いま唄った島情話の物語を知っていますか」
「ええ」
「沖縄の習慣を覚えましたか」
「少しは」
「それはいかん、方言や言葉くらいは覚えないと」そうでなければここにいるな、と言わんばかりである。受け言葉に買い言葉、年甲斐もなく
「方言や言葉を覚えなければ受け入れないというなら何時でも帰ります」
酒の勢いもあったのか、我慢ならなかった。反撃した。
「ところで、あんたは沖縄から出たことはあるの」
「ある。大阪に住んだことがある」
「方言は難しいでしょう。そんなに簡単に方言は覚えられないでしょう」
「いや、一年しかいなかったけど完全に覚えた」
「沖縄方言と一口でいうけれど、小学校の校門を出て、右左で違うという。特に、宮古島の方言は本島の人たちはわからないという」それだけたくさんの方言があるのでしょう、だからわかる方言はあっても一部であろうし、あなたがいう覚えたという大阪弁も、「なにわ」といわれる地区だけでも方言の種類が3地区か4地区に分かれると聞いた事がある。大阪弁と関西弁は違う意味ではないのか、と議論を吹っかけようと思ったが止めた。
「いや、本人の心がけだ。自分は一所懸命大阪弁を覚えようと努力した」
あんたは努力が足りないと言わんばかりである。
気の短い自分を抑えるため禁煙努力中のわたしはタバコに火をつけた。
「タバコはからだに悪い、止めたがいい」
もう頭に来た。ほんとうに大人気ないことだが、
「自分の身体だ。他人にとやかく言われる筋合いはない!」
「煙がこっちにくる。迷惑だ」ときた。
そろそろ我慢も限界、
「あんたは生まれは何年だ」
「何の関係がある」と前置きして生まれ年を言った。6年若い。
「沖縄は守礼の邦だという。とにかく、年長者は敬う習慣があるというじゃないか。見た目でも判るだろう、俺はあんたより年上だ。失礼じゃないか」
「ひとによって違う。自分は関係ない」

わたしは勘定を済ませ、席を立った。
後を追いかけてきたママが
「ごめんんさい、あの人は変な人なの」
とわびる。
「いや、年甲斐もなく面目ない。でも、嫌なやつだ。迷惑かけたようでごめん」
といってわかれた。